第73話「冷めていく茶」
ドゥラクロワ邸は、静かだった。
帝都の東、栗の並木の奥にある古い館である。門は開いていたが、門番はいない。玄関の燭台は、一つだけ灯っていた。廊下を歩くと、二人分の靴音が、天井に反響して返ってきた。
「三月前までは、十四人おりました」と、バスティアンが言った。「家扶に、料理人に、馬丁に、女中が六人。……先月、全員に暇を出しました」
「ご不便でしょう」
「不便です。ですが、あの者たちには、何の罪もない」老元帥は、廊下の暗がりを見ながら言った。「この家の者は、いずれ必ず、聞かれることになります。元帥はどなたと会ったか、何を話したか、誰から手紙が来たか。……答えなければ、答えるまで聞かれる。あの若い女中たちに、そういうことをさせるわけには参りません。退職金は、私の私財から出しました。宰相府に押さえられる前に」
通りかかった扉が、一つ開いていた。
ゴーティエは、覗くつもりはなかったが、目に入った。書物の詰まった小さな部屋。机の上に、開いたままの本と、書きかけの紙。埃が、うっすら積もっている。
「息子の部屋です」
「……そのままに」
「片付ける理由が、ありませんので」バスティアンは、扉を閉めなかった。「あれは物を出しっぱなしにする男でしてな。子供の頃からです。理屈だけは人一倍こねるくせに、机の上は永久に片付かん。……いつか帰ってきて、続きを書くかもしれません。書かんかもしれません。どちらでもよいのです。開けておけば、この家がまだ、あれの家であるということになる」
◇
書斎に通された。
卓の上に、報告書の束が几帳面に積まれていた。日付が一日も飛んでいない。ゴーティエは、その一番上を見て、それが何であるかを理解した。陸軍総司令官の日次報告である。決裁も回覧もされない、どこへも行かない紙だった。
「毎朝、書いておられるとか」
「習慣です」
「誰も読まぬのに」
「読まれるかどうかは、私の管轄ではありません」バスティアンは、湯を運びながら言った。「書くかどうかが、私の管轄です。……いつか正気の者がこの椅子に戻ったとき、空白の三年があるのと、ないのとでは、違いましょう」
彼は、慣れない手つきで茶を淹れた。
ゴーティエは、一口飲んで、無言で立ち上がり、急須を取り上げた。
「……相変わらず、薄い」
「相変わらず、口うるさい」
結局、茶はゴーティエが淹れ直した。彼は誰の家にいても、自分で茶を淹れる男である。
三十年、この二人は競ってきた。
士官学校の卒業席次はバスティアンが二つ上で、初めて連隊を預かったのはゴーティエが二年早い。演習では互いを名指しで負かし合い、東方遠征では突破をバスティアンが、退路の確保をゴーティエが受け持って、どちらの働きが上かという議論は、以後十年、軍の酒場の定番になった。当人たちも、口では譲り合いながら、内心では決着をつけたがっていた。総帥と陸軍総司令官という椅子に分かれてからは、それが公務の顔をして続いた。
「妙なものですな」と、ゴーティエが言った。「総帥だった頃は、貴方と二人で茶を飲む暇などなかった」
「暇がなかったのではありません。二人きりになると、必ず言い争いになったからです」
「否定はしません」
「そのくせ、私の書いた作戦案には、いつも一箇所だけ直しを入れてこられた。あれが腹が立った」
「一箇所で済んだのは、貴方のだけです」
バスティアンが、少し笑った。
いま、二人とも実権を持たない。奇妙なことに、そのぶん気が楽だった。守るべき椅子がなければ、相手の椅子を数える必要もない。三十年かけて競り合ってきた男と、肩書きを外して同じ卓に着いてみると、残っていたのは競争心ではなかった。ここまで一緒に来た、という事実だけだった。
「二十年ぶりです」と、ゴーティエは言った。「南へ向かうのは」
「第一次の攻防戦以来ですか」
「ええ。……あのとき貴方は、私に何と言いましたか」
「忘れました」
「『貴方の負け方は、悪くなかった』です」
「そんな失礼なことを申しましたか」
「三十年で、いちばん嬉しかった言葉です」
彼は、湯気の向こうで、少しだけ目を細めた。
自分でも、みっともないと思う。負けろと命じられた戦の話をしているのに、腹の底に、灯が点いている。あの街の門前で、彼は初めて、城壁の前で敗けた。市壁の上から降ってきた石と、名も知らぬ市民の怒号と、燃える艀の匂い。二十年、あれを忘れた日はない。もう一度、あの街の前に立てる。指揮官という生き物は、どうしようもなく、そういうふうにできている。
だが、その灯を、彼はすぐに自分で押さえた。
三万五千。旧式砲。兵站監の名すらない編成表。
二十年前に自分が負けた相手は、いまや常備軍と憲章を持ち、あの街の子が大将になっている。灯を点けている場合ではないのだ。自分が最初にすべきことは、突撃の下命ではない。名簿を作り直すことと、荷馬車の数を数えることである。
「……嘆かわしい」と、彼は独りごちた。「戦の前に、私が真っ先に心配せねばならんのが、うちの馬糧とは」
「それを心配する将軍のいる軍は、まだ幸運です」
バスティアンは、茶を一口飲んだ。
「今朝、直轄区の検問で止められましてな。若い伍長が、私の顔を見て、震えながら敬礼をした。それから、小さな声で言うのです。——元帥閣下、私の父は、東方遠征で閣下の下におりました、と」
「……何と答えられました」
「お父上の名を伺った」バスティアンは言った。「覚えておりました。輜重の下士官でした。橋が流された晩に、腰まで水に浸かって、三日分の粉を担ぎ上げた男です」
「よく、覚えておいでだ」
「名を覚えるのは、私の唯一の取り柄です」
二人は、しばらく黙って茶を飲んだ。
この二人が街を歩くと、いまだに、人が寄ってくる。パン屋は代金を取らず、酒場の親父は席を空け、隠居した古兵は帽子を取る。第二次東方遠征の凱旋を、帝都の民は忘れていない。街道に人が溢れ、花が撒かれ、子供が肩車で名を叫んだ。宰相府の壁に貼られる布告は日ごとに冷たくなっていくが、街の記憶は、そう簡単には冷めない。
冷めないからこそ、二人は危険なのだった。愛されている元帥ほど、独裁者にとって始末に困るものはない。
「妙な話です」と、バスティアンが言った。「あのとき我々が取った土地に、いま、私の息子が住んでいる」
「……ええ」
「私が兵を入れ、私が地図に線を引いた土地です。その線の内側で、あれは外交使節をやっている。近く、あの土地は独立を布告するそうです。——私が取った土地が、私の手から独立する。これほど筋の通った罰も、そうはありますまい」
「罰などと」
「罰ですよ、ゴーティエ殿。悪い罰ではない」バスティアンは、静かに言った。「私は、悔いというものを、ほとんど持たずにここまで来ました。取れと言われた土地は取り、守れと言われた線は守った。負けた戦もありますが、恥じる負け方はしていない。息子とも、言うべきことは言って別れました。……悔いは、一つだけです」
「伺っても」
「孫を、この手に抱けなかった」
湯気が、少し薄くなっていた。
「あれは来年、式を挙げると言っておりました。カミーユ殿は賢い娘です。きっと、口の減らない子が生まれる。……その子を、一度でいいから抱いてみたかった。重さを、知りたかった。それだけです。それ以外に、悔いはありません」
ゴーティエは、答えを探して、見つけられなかった。彼にも妻子がある。南へ発つ前に、しておくべき手配のことが、頭の隅で音を立てた。
「……こういう時に」と、ゴーティエは言った。「思い出してはならんことを、思い出しますな」
「ええ」
「口にしては、なりませんが」
「なりません」
二人は、同時に黙った。この家には、報告する者も、聞き耳を立てる者もいない。誰もいない家というのは、そういう用途もあるのだと、ゴーティエは思った。
それから、バスティアンのほうが先に、口にした。
「マルク=オレル陛下の御世であれば」
空気が、わずかに動いた気がした。この帝国で、その名は、口にしてはならないことになっている。二十年余り、勅令にも、官報にも、教科書にも書かれていない名前である。廃された皇帝の名は、廃された日から、存在しなかったことになった。
「……民会の推挙で、玉座に着かれた方でした」と、ゴーティエは言った。「あのときの帝都を、覚えております。私は東から戻ったばかりの若い将校でしたが、街中が、自分たちの手で皇帝を選んだような顔をしておりました」
「あの御世に、査問会はなかった」
「税は三割でした」
「軍は、名誉挽回などという言葉を使わなかった。名誉は、挽回するものではなく、保つものでしたからな」
バスティアンは、冷めかけた茶を見下ろした。
「廃された時、あの方は、まだ三十でおられた」
「三十」
「私が知る限り、この帝国が最後に、賢さと優しさを同じ人間の中に持っていた時代です。……あれから二十年余り。生きておられれば、いまが働き盛りだ」
どこで、何をしておられるのか。誰も知らない。国外で野垂れ死んだという者もいれば、修道院にいるという者もいる。どれも噂だった。
「もし」ゴーティエが、湯気の消えた茶碗を包むように持った。「もしあの方が、まだこの大陸のどこかにおられて——この帝国の有様を、ご覧になっているとしたら」
「さぞ、腹を立てておられるでしょうな」
「ええ」
「私なら、腹を立てるだけでは済みません」バスティアンは、そこで初めて、少し笑った。「取り返しに来ます」
二人は、それきり何も言わなかった。
誰もいない屋敷の、灯が一つだけの廊下の奥で、茶は、とうに冷めていた。




