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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第五章「東の旗」

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第74話「一人分の軍」

 宰相府の会議室は、まだ木の匂いがした。


 憲章の国の役所は、どこもかしこも新しい。壁は塗り直したばかりで、卓は先月納品されたばかりで、書類の綴じ紐は真っ白である。この国の行政は、まだ生後三月に満たない。


 その真新しい卓に、テオドールは、生まれて初めて自分から議題を持ち込んだ。


「兵を、貸してほしいと言われました」


 集まったのは四人。宰相ヴィルヘルム。元帥オイゲン・クルーガー。財務卿マルク。そして法務卿ユストゥス・ケルン。


 テオドールは、昨夜の話を、一つも省かずに述べた。独立の日取り。帝国の東征がほぼ確実であること。ラ=フェオには軍としての形がないこと。正規軍を出せば大公国が交戦国になること。だから、書類の上で除隊した志願者の集まり——義勇兵団として、第四軍団を貸してほしいと請われたこと。


 言い終えると、部屋が、しばらく静かになった。


「……ずいぶん、正直に喋る使節どのだな」と、クルーガー元帥が言った。


「隠したところで、こちらには数えられますので」


「それもそうだ」


   ◇


 最初に口を開いたのは、法務卿だった。


 ユストゥス・ケルン。四十半ばの、痩せた男である。憲章の条文を書いた三人のうちの一人で、話すときは必ず、まず紙を一枚めくる癖があった。


「結論から申し上げます。できません」


「理由を」


「第一に、軍法。除隊は本人の願い出によるものであって、命令によるものではありません。上官が『除隊せよ』と命じて出させた除隊書類は、軍法上、除隊ではない。ただの偽造です」


 紙が、一枚めくられた。


「第二に、憲章第九条。軍籍の得喪は、名簿をもって公とする。名簿に載らぬ兵は存在せず、名簿から消えた兵は軍人ではない。七千名を書類上だけ消す行為は、この条文の趣旨を、真正面から踏み潰します」


「第三は」


「第三に、これがいちばん重い」ケルンは、顔を上げた。「戦死しても名簿に載らない、ということの意味です。名簿に載らねば、遺族年金は出ません。恩給の記録も残らない。二十年後、その兵の子が『父は何をした人ですか』と役所に尋ねに来たとき、この国は——何も答えられない。国が、自分の兵を忘れる仕組みを、自分の手で作ることになります」


 テオドールは、目を閉じた。


 昨夜、自分が友に言ったことと、同じ場所に刃が刺さっていた。この国の憲章に、最初の嘘を書き込むかどうかの話です、と。


   ◇


「軍の側からも言わせてもらう」


 クルーガー元帥が、腕を組んだ。壁の上の曹長から数えて、二十年余り。この国で唯一、元帥杖を持つ男である。


「論外だ。三つある」


「伺います」


「一つ、戦力だ。第四軍団は七千。抜ければ、常備の四分の一近くが穴になる。帝国が本気で南に来たとき、その穴は埋まらん」


「二つ」


「二つ、指揮系統だ。旗を掲げず、名簿にも載らん軍隊を、誰がどう統制する。軍法の及ばん兵の集まりを、世間では何と呼ぶか知っておるか。——匪賊だ」


「三つ目は」


「三つ目が、いちばん腹が立つ」クルーガーは、テオドールを見た。「なぜ第四軍団なのか、という話だ。急造だから抜きやすい、建制が緩いから工作しやすい。……つまりあれは、いちばん新しい軍団だから捨て札にしやすい、と言われておるのと同じだ。ライネルの兵は、そういう扱いを受けるために、あの泥の中で立っておったのか」


「金の側も、申し上げておきましょう」


 マルク財務卿が、手元の紙に目を落とした。


「派遣の費えは、給金・糧秣・弾薬・馬匹の補充を含めて、月に十二万ターラー前後。全額を先方が持つと申し出ておられますが——その金は、必ずこの国の両替商を経由します。月十二万ターラーの東からの流入は、市場で隠せる額ではありません。三月で、勘のいい商人は気づく。同じ頃、参事院は次の年次承認でこう問うでしょう。なぜ軍費が減ったのに、兵は減っていないのか、と」


「……隠しきれないと」


「隠しきれません。断言します」財務卿は静かに言った。「嘘は、いつも金の側から露見します。私は三十年、それだけを見てきました」


   ◇


 沈黙が下りた。


 法は駄目だと言い、軍は論外だと言い、金は隠せないと言った。三方から塞がれて、卓の上には、断るという結論だけが残っていた。


 テオドールは、卓の木目を見ていた。


 東の国は、ふた月後に旗を上げる。旗を上げれば、帝国が来る。来ることが分かっていて、我々には差し出せるものがあって、それでも差し出さなかった——そう記録される国に、この国はなるのか。


 二十年前、誰も来なかった。


 その一行が、腹の底から上がってきた。あの冬、リヒテンフェルデには誰も来なかった。大陸中の国が、条約を理由に、正規軍を出せぬ理由を並べて、動かなかった。そして街は焼かれた。理由はどれも、正しかったのだ。


「宰相」


 テオドールは、顔を上げた。


「一つだけ、伺わせてください。……二十年前、我々を助けに来なかった国々は、間違っていましたか」


 ヴィルヘルムは、それまでずっと黙っていた。


 彼は、湯気の消えた茶碗を脇へ寄せ、ゆっくりと組んでいた手をほどいた。


「間違ってはおらん」


「……そうですか」


「間違ってはおらんが、正しくもなかった」老人は言った。「正しい理由で動かなかった国と、間違った理由で動いた国と、どちらが多く人を殺したか。わしは四十年、その計算ばかりしてきた。答えは出ておらん。だが、一つだけ分かったことがある」


「何でしょう」


「動かなかった国は、あとで自分を責めることすらできんということだ。責める理由が、書類の上に一つも残らんからな」


 ヴィルヘルムは、法務卿のほうを見た。


「ケルン。できぬ、で終わらせるな。——できることを、探せ」


   ◇


「では、順序を戻します」


 ケルンが、紙を一枚めくった。今度は、束の一番下から引いてきた紙だった。


「先ほど大将は、こう仰いました。使節どのは『借りたいのは剣ではない、軍の作り方だ』と言った、と。……であれば、そもそも七千を送る必要が、どこにあるのですか」


 部屋の空気が、動いた。


「軍を貸すのは、できません。ですが——武官を置くことは、できます」


「駐在武官か」と、クルーガーが言った。


「はい。国交のある国に武官を常駐させるのは、どこの国もやっていることです。武官は軍籍のまま派遣され、階級も名簿も動きません。旗は掲げず、部隊も率いない。任務は観戦、報告、そして——先方が望むなら、教導です」


 ケルンは、指を折った。


「第一に、合法です。除隊の偽造も、名簿の細工も要りません。第二に、交戦国になりません。武官は自国の軍を指揮しないからです。第三に、隠す必要がない。公報に一行載せれば済みます。——大公国は、ラ=フェオに駐在武官を派遣する。以上」


「費えは」と、マルクが言った。


「一人分です」


「……財務卿としては、反対する理由が一つもありませんな」


「私もです」ケルンは肯いた。「ただし、危険は申し上げておきます。国交のある国が、ふた月後に戦争になります。武官はその国に居続けることになる」


   ◇


「一人か」


 クルーガーが、低く言った。


「一人で、軍が作れるか」


「作れます」と、テオドールは答えた。


「言うたな」


「元帥。半年前、この国の軍もそうでした。教範が一冊あって、それを教えられる人間が数人いた。それだけです」テオドールは言った。「——ただ、一人では足りません。武官に、教導将校を数名付けたい。歩兵と砲兵と工兵、それに輜重を一人ずつ。十名で足ります」


「十名で、七千の代わりになるか」


「なりません。七千の代わりにはなりません」テオドールは言った。「ですが、七千を作る側にはなれます」


 クルーガーが、しばらくテオドールを見ていた。


「……教範を書いた国、というのは、そういう意味か」


「はい」


「よかろう。では人選だ」クルーガーは、卓に肘をついた。「ライネルは、出さん」


「元帥——」


「駄目だ。あれは軍団を一つ、作りかけておる。あれを抜けば第四軍団は止まる。それに」クルーガーは言った。「教範を書いた男を送っても、教範は増えん。書いた男は国に置け。送るのは、教えられる男だ」


「その二つは、違いますか」


「違う。まるで違う」クルーガーは、初めて少し笑った。「書ける男は、自分の頭の中を紙にできる男だ。教えられる男は、他人の頭の中を作れる男だ。……お前のところに、おらんか。第二軍団に」


 テオドールは、答えを用意していた。


「一人、おります」


   ◇


 ゲオルク・アイヒベルク中佐。二十一歳。第二軍団第二歩兵連隊長。


 目立つ経歴ではない。去年の攻防戦のとき、彼はまだ市民兵だった。しかも配置は前線ではなく、区画長の下の書記である。彼がやったのは、市壁の各区画に何人いて、弾がいくつ残っていて、誰がどこで交代したかを、走り回って書き取り続けることだった。百五十三日、それをやめなかった。おかげで戦後、あの防衛戦の内部が唯一まともに再構成できたのは、彼の帳面が残っていたからである。


 軍が制度になったとき、彼は最初の教官の一人になった。ライネルが書いた教範を、最初に「教科」として組み直したのがこの男である。文章を章に割り、順序を入れ替え、新兵が最初の三日で何をどこまで覚えられるかを実測して、その通りに直した。


 教え方に、癖がある。答えを言わない。問い返す。


「なぜ、そこで止まった」


「なぜ、その号令を出した」


「では、次に同じことが起きたら、どうする」


 そして、自分の失敗も同じ帳面に書く。表紙にはこう書いてある——「失敗簿」。


「私の教範は、失敗しか書いておりません」というのが、この男の口癖だった。「うまくいった話は、覚えなくてもまた起きます。失敗は、書いておかないと必ず二度目が来ますので」


 クルーガー元帥は、名前を聞いて、少し考えた。


「……あの、書記の小僧か」


「ご存じでしたか」


「壁の上で三度、すれ違った。走っておった。伝令かと思ったら、数を数えておった」クルーガーは言った。「あのときわしは思うたよ。この小僧は、戦の真ん中で紙を持っておる。——大物になるか、早死にするかのどちらかだとな」


「どちらでした」


「まだ分からん。だから、行かせてみるのだろうが」クルーガーは、少し間を置いた。「……いくつになった」


「二十一です」


「連隊長が、二十一か」


「私と、同い年です」


 クルーガーは、卓の上で指を組んで、しばらく黙っていた。


「この国は、若造ばかりだな」


「はい」


「よい国だ」クルーガーは言った。「古い者が全部やってしまう国は、次の戦で負ける。……行かせろ」


   ◇


「一点だけ、詰めておかねばなりません」


 ケルンが、また紙をめくった。


「武官は部隊を率いない、と申し上げました。これは原則です。……ですが、原則には必ず、破れる日が来ます」


「と、申されますと」


「たとえば、彼が駐在している場所が、攻められた場合です」


 部屋が、静かになった。


「武官は自国の軍を指揮しません。ですが、先方の軍を、先方の要請で指揮することは、法の上では別の事柄です。それは大公国の派兵ではなく、ラ=フェオの人事になる。……この線引きだけは、行く前に文書にしておかねばなりません。現場で考えさせては、彼が背負いすぎます」


「文書に、何と書く」


「三行です」ケルンは言った。「一、武官は大公国の部隊を指揮しない。二、駐在先の防衛にあたっては、先方政府の要請ある場合に限り、先方の部隊の指揮を受任できる。三、受任した場合は、事後、遅滞なく本国に報告する。——以上」


「二の条は、ずいぶん親切ですな」と、マルクが言った。


「親切ではありません。予測です」ケルンは表情を変えなかった。「戦争になる国に武官を置くのですから、いずれ必ず、その場面は来ます。来てから慌てる国と、先に三行書いておく国と、どちらが兵を死なせずに済むか。……私は法務卿ですので、後者を選びます」


   ◇


 大公宮の玉座の間で、アルモナはそれを聞いた。


 説明は宰相が行った。四人が持ち寄った案は、一枚の紙にまとまっていた。駐在武官一名。教導将校十名。軍籍は保持。旗は掲げず。費用は一人分。公報に一行。そして、三行の条文。


 女大公は、その紙を長いこと読んでいた。


「……宰相。二つ、足していただけますか」


「何なりと」


「一つ。この者たちは、命じて行かせるのではなく、本人の承諾を得て行かせること。断った者の名は、名簿にも記録にも残さないこと」アルモナは言った。「断った者の名が残る国は、断れない国です」


「——仰せのとおりに」


「二つ」


 女大公は、紙から目を上げた。


「必ず、帰す算段を先に立ててください。行かせる算段より先に」


 ヴィルヘルムが、深く頭を下げた。


「……陛下」


「わたくしの父は、国を守る算段だけを立てて、逃げる算段を立てませんでした」アルモナは、静かに言った。「立てておけばよかったのです。臆病だと笑われても」


   ◇


 その日の夕刻、テオドールは第二軍団の司令部でアイヒベルクを呼んだ。


 小柄な男である。軍服の袖口に、いつもインクの染みがある。彼は敬礼をして、テオドールの話を、一度も口を挟まずに最後まで聞いた。


 聞き終えると、こう言った。


「二つ、伺っても」


「言え」


「一つ。教範は、持って行ってよろしいのですか」


「持って行け」テオドールは言った。「写しを取らせても構わん。——教範は、渡しても減らん」


 アイヒベルクの口の端が、ほんの少し動いた。


「二つ目は」


「私は、そこで戦ってもよろしいのですか」


 テオドールは、三行の条文を思い出した。それから、こう答えた。


「戦うなと言われて、行けるか」


「いいえ」


「では、そういうことだ」


 中佐は、もう一度敬礼をした。廊下を出て行く背中が、驚くほど普通だった。


 ——三月後、彼が滞在することになる東の城塞が、帝国軍の攻撃を受ける。そのとき城塞の中で最も高位の職業軍人が、旗も部隊も持たない大公国の駐在武官一名であったことを、この日、この部屋の誰も知らない。

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