第72話「順番の話」
公爵邸の書斎に、四人が集まった。
アルマン=アレクサンドル・ド・サン=ヴァラン公爵。その次男で帝都直轄区司令官のジュリアン=アルマン。元総帥ゴーティエ・ド・セルヴィル。そして陸軍総司令官ジャン=バスティアン・ドゥラクロワ元帥。
卓の上には、宰相府から回ってきた紙が一枚。
南方方面軍の編成命令。総司令官、ゴーティエ・ド・セルヴィル元帥。副司令官、ジャン=バスティアン・ドゥラクロワ元帥。名誉挽回の機会を与える、と、前文にはそう書かれていた。
「美しい文章じゃのう」と、公爵が言った。「わしは八十年生きたが、これほど親切な言葉で書かれた死刑宣告は、初めて読んだわい」
「公爵」ジュリアン=アルマンが、たしなめるように言った。
「事実を申しておるだけじゃ」
ゴーティエは、紙を裏返して、また表に返した。おそらく三度目である。それから、静かに言った。
「兵は、西へ回した残りでしょう」
「員数の足りない三個軍団と、旧式砲。ざっと三万五千」と、バスティアンが答えた。彼はまだ陸軍総司令官の椅子にいる。決裁は通らないが、数字だけは回ってくる。「南は、五万を超えています。それに海軍」
「一・五倍の敵に、古い砲で当たれと」
「そうです。それと——編成表の末尾に、一行だけ足されております」
バスティアンが、紙の下の方を指した。
「近衛騎士団より一個大隊を、方面軍司令部付として派遣する。名目は儀仗と伝令」
「近衛の」ゴーティエが、片眉を上げた。「名簿は」
「大隊長以下、全員がレオニエ公爵家に連なる者です」
「……儀仗にしては、面子が濃い」
「濃うございます。あれは我々の護衛ではない。我々の見張りです。司令部の中に、宰相府の目が三百」
「なるほど」ゴーティエは、少しだけ笑った。「これは、負けろという命令ですな」
誰も否定しなかった。
「勝ってしまえば、それはそれで困るのでしょう。私どもの名が上がる」と、バスティアンが言った。「負ければ処分でき、勝てば手柄は宰相府のものになる。……よくできている。あの方は、こういう紙を書かせるのが、実にお上手だ」
「お二方」と、公爵が言った。「——拒まれるかの」
「拒めば」ゴーティエが即答した。「別の者が行きます。私より若く、私より下手な者が。……その者に三万五千を預けるくらいなら、私が預かります」
バスティアンも、肯いた。
「兵は指揮官を選べません。せめて、選べる側が逃げぬことです」
公爵は、しばらく二人を見ていた。それから、卓に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
◇
「では、わしも、身の振り方を申しておかねばなるまいのう」
「父上」
「ジュリアン。この屋敷を出る」
次男の顔が、変わった。
「北の館へ、荷を移す。……年寄りが居場所を変えるというのはの。それだけで、一つの布告じゃ。誰にも説明せずに、みなに伝わる」
公爵は、窓の方へ、ゆっくりと歩いた。歩き方が、この一年でまた遅くなっている。
「八十年も生きるとの、ジュリアン。人はだんだん、先の話をせんようになる。代わりに、順番の話ばかりするようになるものじゃ。——わしはこの屋敷で、父を送り、兄を送り、家扶を三人送った。みな、順番どおりじゃった。順番どおりなら、悲しゅうても、腹は立たん」
「……父上」
「順番を違えたのは、一度きりじゃ」
書斎が、静かになった。
「クレマンは、三十二じゃった」と、公爵は言った。「あれは、お前たちとは母が違う。わしが齢をとってからの子じゃ。末の子というのは、どうしても甘やかされる。……それを、お前は一度も言わなんだ」
「弟です」ジュリアン=アルマンが言った。「母は、関係ありません」
「……礼を言ったことが、なかったな」
公爵は、窓の外に目をやったまま、少しの間、黙っていた。
「北のことも、申しておこう。アントワーヌ=ヴィクトールは、五十を越えた。あれは真面目な男じゃ。真面目すぎる。……真面目な男に、真面目に不正を執行させる。あれが、人を壊す最も確かなやり方でな。あれはいま、毎月きちんと、自分の署名で自分の管区を痩せさせておる。几帳面に、一枚も落とさずにの」
「兄上は、そういう方です」
「そうじゃ。だから壊れる」公爵は言った。「その様を、わしは帝都の椅子に座って眺めておった。眺めるだけなら、隣の家の年寄りにもできる。父親のすることではないわい」
「もう一つは」
「お前だ」
公爵は、次男を振り返った。
「この屋敷の門前には、お前の兵が立っておる。検問を三つ抜けねば、宰相府の手の者はここへ入れぬ。……その三つは、お前の判子で立っておるのじゃ、ジュリアン。ここに元帥が二人匿われておる限り、いずれ問われるのはわしではない。お前じゃ。倅が父を庇うて縄を受けるのは、順番が違う。……順番を違えるのは、もう御免こうむる」
「父上、私は四十五です。庇われる齢ではありません」
「四十五じゃろうと、六十じゃろうと、倅は倅じゃ」
公爵は、次男の肩に手を置いた。骨の目立つ、しかしまだ大きな手だった。
「お前が初めて馬から落ちた日のことを、わしはまだ覚えておる。あのときわしは、駆け寄らなんだ。自分で立て、と言うた。……あれから四十年、わしは一度もお前に駆け寄っておらん。今日ぐらいは、父親らしいことを、させい」
ジュリアン=アルマンは、何も言えなかった。
「公爵閣下」と、ゴーティエが口を挟んだ。「私はこの三月、この屋敷の茶を頂いて生き延びております。閣下が発たれるとなれば——」
「日取りは、合わせてある」
公爵は、こともなげに言った。
「お二方に南への命が下るのは、今月中と読んでおった。読みどおりじゃったの。……お二方が南へ発たれ、わしが北へ発つ。屋敷は空く。空いた屋敷は、誰も襲えぬ。わしが居座っておれば、いずれ誰かが踏み込む口実になる。老いぼれが身を退くのはの、逃げるためではない。的を消すためじゃ」
「……周到なことです」
「八十年、勘定だけで生きてきた男でな」
「宰相府が、許可を出しますか」と、バスティアンが尋ねた。
「もう出ておる」
公爵は、懐から一枚の紙を取り出して、卓に置いた。通行の許可と、儀仗の護衛付き。宰相の署名がある。
「……どうやって」
「褒めたのよ」
公爵は、椅子に戻りながら、何でもないことのように言った。
「宰相府へ、伺うてな。北の移民の御事業、まことに天晴れである、と。ただ一つ、老爺として気掛かりなのは、定住金の払いが現地で滞ることだ。役人は数えるのが下手だから、せっかくの御事業が、金の遅れで台無しになる恐れがある。——ついては、この老いぼれが北へ下り、当家の資力をもって立替払いの差配をいたしたい。無論、名誉は宰相閣下のものでございます、と」
ゴーティエが、思わず茶を吹きかけた。
「あの御方は、たいそう喜ばれた。ご自分の名を刻んだ記念碑を、北の町ごとに建てる話まで始められての。わしが『それは費えが』と申し上げたら、『金など、いくらでもある』と仰せられたわ」
「よく、笑わずにおられましたな」
「これでも商人の家じゃ」公爵は、初めて少し笑った。「あの手の御方を、いい気分にさせるのは造作もないわ。自分より賢い者はこの世におらぬと思うておられる方はの、褒め言葉の出所を、決して疑われぬ。……疑うには、自分が褒められる理由を、一度、自分で数えてみねばならん。あの御方は、それをなさらぬ」
「一つ、伺っても」と、バスティアンが言った。「宰相府は、閣下のお申し出を、何として記録いたしましたか」
「献策として」
「では閣下は、本日をもって、宰相府の協力者ということになりますな」
「左様」公爵は、深く肯いた。「わしを疑う理由が、一つ減ったわけじゃ。……元帥どの。貴殿は数字の話には向いておられんと聞いておったが」
「向いておりません。ただ、書式は読めます」バスティアンは言った。「三十年、紙で人が殺されるところを見てまいりましたので」
ゴーティエが、低く笑った。
「私はいまの話で、一つだけ得心がいきました。……閣下、我々が受けた命令書の前文も、たぶん同じ手で書かれておりますな。名誉挽回、と。あれも、褒め言葉の顔をしている」
「そちらは、褒め言葉ではない」と、公爵は言った。「あれは、値札じゃ」
ジュリアン=アルマンが、低く言った。
「父上。北で、何をなさるおつもりです」
「立替払いの差配じゃ」公爵は、真顔で答えた。「宰相閣下に、そう申し上げてきた」
それから、ほんの少しだけ、付け加えた。
「……北の館には、港がついておってな。あそこから船を出せば、帝国の街道を一度も通らずに、東へ着く」
誰も、それ以上は聞かなかった。
東には、ラウル・ド・フォークレランがいる。当家の長子が、ひと月前にヴィルメールで署名した紙が一枚、ラ・メール家の金庫に眠っている。写しはない。北へ下る老人が、その紙のもう一方の端に座りに行く——それが何を意味するかは、この部屋の四人には、聞くまでもないことだった。
帝国の背後で、北と東が、静かに繋がろうとしていた。
◇
別れ際に、公爵は二人の元帥の前に立った。
「東へ、文を出す。書けぬことは書かぬが、書ける分は書く。……ドゥラクロワ元帥。御子息への言伝、お預かりいたそうか」
バスティアンは、しばらく黙っていた。
「……いえ。結構です」
「よろしいのか」
「手紙は、証拠になります」と、老元帥は言った。「あれはいま、生まれかけの国の外交使節です。帝国の元帥から文が来たと知れれば、あれの言葉の重さが、その日から半分になる。……父親からの言伝で、息子の仕事を軽くするわけには参りません」
「……承知いたしました」
「代わりに、一つだけ」バスティアンは、少し考えて言った。「もし何かの折に、あれの顔を見ることがございましたら。——痩せていないか、見てやってください。それだけで結構です」
公爵は、深く頭を下げた。八十の老人が、こういう下げ方をするのを、ゴーティエは初めて見た。
「必ず」
◇
公爵と次男が去り、屋敷が急に広くなった。
残された二人は、しばらく黙って、卓の上の命令書を見ていた。名誉挽回の機会を与える。値札の付いた紙である。
「ゴーティエ殿」と、バスティアンが言った。「これから、御予定は」
「三月ぶりに、外を歩けます。それ以外は何も」
「では、うちへ来られませんか」
ゴーティエが、意外そうに顔を上げた。
「使用人には、先月、暇を出しました。誰もおりません。……茶なら、私が淹れます」
「貴方の茶は、薄い」
「存じております」老元帥は、真面目な顔で言った。「だから、来ていただきたいのです」




