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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第五章「東の旗」

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第71話「私戦の陣立て」

 宰相府の廊下は、香料の匂いがした。


 南方産の香を、惜しげもなく焚いている。エティエンヌ・ラ=マリニエールは、書く男の癖で、それを一行に畳んだ。——建物は、住む者の職業を、匂いで白状する。


 彼自身の職場は、こうではない。海軍府の西翼を借りた三部屋——木札を一枚打っただけの、仮設の帝国軍総司令部である。タールと墨と、石炭の煤の匂いがする。陸海全軍の作戦を統べる部署が、廊下の突き当たりの三部屋というのは、いささか慎ましい。もっとも、慎ましいのは間取りだけではなかった。


 そして、かつて総帥府と呼ばれた建物は、ここから三筋離れた場所に、まだ立っている。制度は消え、建物だけが残された。いまはレオニエ公爵家に連なる者たちの——宰相府親衛隊の詰め所である。先日、用があって前を通った。大陸中の兵站表が貼られていた作戦室の、あの大窓に、洗濯物が干してあった。


 帝国軍総司令官。陸海全軍の作戦を統括する、軍人の最高職。その職にある男が、宰相府に呼び出されて廊下を歩いている。それが何を意味するかは、廊下の匂いより雄弁だった。


「おお、来たか、提督」


 執務室のオーギュスト・ド・レオニエは、上機嫌だった。上機嫌の宰相は、不機嫌の宰相よりも遥かに厄介である。これも経験から得た一行だ。


「整ったぞ。北が、整った」


「氷原の件でございますか」


「評議会が折れた」宰相は、卓の上の地図を指で叩いた。「ヴィーレホルムの老いぼれどもは、この十年、不作と口論しかしておらん。こちらは渡ってくる者を止めぬと約し、向こうは渡ってくる者を止めぬと約した。——同じ文言だ。だが片方は施しで、片方は降伏だ。文書というのは、実に面白い」


「北の岸は、これで静かになりますな」


「静かになる。人手も入る。空いた村が埋まり、徴兵の頭数も揃う。何より——」宰相は、心底愉快そうに笑った。「北方軍を、まるごと空けられる」


 そこが本題だと、ラ=マリニエールは理解した。


「定住金と免税の費えは、相当なものと拝察しますが」


「金か」宰相は手を振った。「金など、いくらでもある。帝国の庶民から、むさぼり取ればよい。あれらは不平を言うだけで、決して動かん。羊は毛を刈られるたびに鳴くが、柵から出ようとはせんのだ」


「現在の税は、五割と伺っておりますが」


「五割で、暴動が一件も起きておらん」宰相は、そこを誇った。「提督、これは統治の勝利だぞ。先代の御世は三割で騒がれた。私は五割で騒がれておらん。取れるということは、取ってよいということだ」


 ラ=マリニエールは、そのとき初めて、微笑した。


 宰相は、それを同意と受け取ったらしい。だが微笑の中身は別だった。——この男は、去年の我々を、そっくり真似ている。あのとき我々は、南の都市を、金と船で買えるものと数えていた。数えられていたはずの民が、市壁の上に登ってきて、我々の艦隊を焼いた。柵から出ようとしない羊など、この世にいない。出ないのではない。まだ、出ていないだけだ。


 言わなかった。言えば、この上機嫌が消えるだけである。


   ◇


「そこで、西だ」


 宰相は、地図の左側に手を置いた。ヴェストマルク共和国。麦と鉄の国。


「戦を、再開する」


「休戦協定がございます」


「協定は、こちらから破らずとも破れる」宰相は薄く笑った。「国境の村が焼ければ、それは向こうの仕業だ。焼く手配は、既に済んでおる」


 ラ=マリニエールは、何も言わなかった。


「これは、陛下の勅命である」


 卓の上に、一枚の書状が滑ってきた。


「——拝見しても」


「無論だ」


 紙を取り、印を確かめた。玉璽は、本物だった。年号も、書式も、正しい。ただ末尾に一行、御委任の条項が添えてある。眠り続ける皇帝に代わり、宰相が軍務を統括する——先の布告で、宰相自身が作らせた条項である。


 嘘ではなかった。嘘でないことが、いちばん恐ろしかった。この国の書式は、もはや正しく機能している。正しく機能して、一人の男の私事を、勅命という名の紙に変換している。


「総司令官として、陣立てをせよ。それが、貴官の職務だ」


「承知いたしました」と、ラ=マリニエールは言った。「では、司令部の編成案を、三日で」


「その必要はない」


 宰相は、二枚目の紙を寄越した。


   ◇


 人事は、すべて決まっていた。


 紙の一行目を読んだところで、ラ=マリニエールの指は止まった。


 西方方面軍総司令官——ジュール・ド・レオニエ中将。


「……御子息ですな」


「二十九だ。若すぎると言いたいか」


「若さは、申し上げておりません」


 言えることと、言えないことの間には、細い水路がある。ラ=マリニエールはその水路を、五年の捕虜生活で泳ぎ慣れていた。ジュール・ド・レオニエ。スロテンで何をした男か、この大陸で知らぬ軍人はいない。武人としては、家柄の分だけ甘やかされた中の上。それが、方面軍の総司令官である。


 だが、二枚目の紙を最後まで読んで、ラ=マリニエールは、認識を改めた。


 この人事は、愚かではない。


「宰相閣下。……西を選ばれた理由を、伺ってもよろしいか」


「言うてみよ。貴官の見立てを」


 試されている。ラ=マリニエールは、応じた。


「西は、共和国です。軍を握っているのは議会だ。動員には議決が要り、議決には会期が要り、会期には日取りがある。国境が焼かれてから、あの国の軍が動き出すまで——早くて六週間、私の見立てでは八週間。その間、こちらは無人の野を進める」


「続けよ」


「南は違います。あちらは大公が統帥し、参事院は予算を承認するだけで、軍そのものには手を触れない。動員は布告の翌朝に始まる。……つまり南は難しく、西は易しい。武功を積ませるには、西でなければならない」


「よく分かっておるではないか」


 宰相は、機嫌よく肯いた。


「加えて、西の穀倉は肥えている。占領地から上がる麦は、そのまま北の定住金になる。移民には麦を、庶民には税を、息子には勲章を。……一つの戦で、三つ取れる。提督、戦とはこう使うものだ」


 ラ=マリニエールは、内心で、この男の値踏みを書き直した。


 愚物ではない。この男は、恐ろしく賢い。ただし、その賢さが向いている方角に、国が一つも入っていないだけだ。賢い者が私事のために賢さを使うと、愚物より遥かに多くの人間が死ぬ。


「幕僚の名簿も、拝見しました」


「何か不足か」


 不足だらけだった。参謀長も、各軍団長も、砲兵監も、すべて公爵家に連なる者か、宰相府の宴に出入りする者で埋まっている。軍歴の欄が薄く、社交の欄が厚い。砲兵監に至っては、砲台を一度も預かったことのない伯爵家の三男である。おそらく彼は、砲を美しいものだと思っているだろう。実際には、砲とは重いものだ。八頭の馬と、二十人の男と、雨で緩んだ道の話である。


 だが最も雄弁だったのは、書かれている名ではなく、欠けている職だった。


「兵站監の名が、ございません」


「そのようなものは、現地で調達すればよい」


 ラ=マリニエールは、紙を置いた。これは軍ではない。宮廷が、鎧を着て歩いているだけである。そして鎧の中身は、若い兵たちだ。


 拒否権はない。それを弁えている程度には、あの五年で賢くなった。だから彼は、争わずに、話を横へずらした。


   ◇


「では閣下。北方軍を西へ回すとして——南方は、いかがなさいます」


 宰相の指が、地図の上で止まった。


「南だ、な」


「大公国は、この半年で常備軍を整えました。三個軍団に、新設が一個。海軍も持っております。北方軍を抜いた状態で南に何かあれば、二正面になる」


「二正面には、ならんよ」宰相は、微笑した。「南には、当てる者がおる」


「……と、申されますと」


「ゴーティエ・ド・セルヴィル。それに、ジャン=バスティアン・ドゥラクロワ」


 ラ=マリニエールは、表情を動かさなかった。動かさぬために、少し力が要った。


「両元帥は、いま」


「一人は公爵邸で茶を飲んでおる。もう一人は、椅子はそのままに、部屋だけ移された。……哀れなものよ。あの二人には、名誉挽回の機会を与えてやろうと思うてな」


 名誉挽回。実に美しい言葉だ、とラ=マリニエールは思った。この宰相府では、言葉というものが、こうやって一つずつ、意味を裏返されていく。保護が拘束になり、委任が独裁になり、名誉挽回が——。


「勝てば」と、宰相は言った。「帝国の得だ。あの二人の名は、まだ軍で通る。使えるうちに使うのが、道理というものだろう」


「兵は、どこから」


「西へ回した残りだ」


 ラ=マリニエールは、地図の数字を頭の中で引き算した。西へ北方軍を丸ごと回したあと、南に残るもの——員数の足りない三個軍団と、装備の古い予備。二人の名将に、負けるように編んだ軍を持たせる。それを名誉挽回と呼ぶ。


「負ければ」


「負ければ」宰相は、そこで初めて、声の温度を落とした。「帝国は、二人の元帥への未練を、きれいに片付けられる」


   ◇


 廊下は、来たときと同じ香料の匂いがした。早く、墨と煤の三部屋へ帰りたかった。


 副官のバティスト・レニエ少尉が、扉の外で待っていた。十七になったばかりの、律儀な男である。上官の顔を見て、何も聞かずに歩調を合わせた。この副官の、そういうところが良かった。


「閣下。……その、西の件は」


「勅命だ」


「はい」


「レニエ。私は、この陣立てを止められない」


 少尉は黙って歩いた。ラ=マリニエールは、階段の踊り場で足を止め、窓の外を見た。帝都の空は、灰色だった。北の岸には氷原からの舟が着き、西の国境では、これから村が焼かれる。南では二人の元帥が、名誉挽回という名の処分場へ送られる。すべて、正しい書式の紙の上で。


 軍人の最高職。陸海全軍の作戦を統括する職。


 その職にある男にできることは、もう、ほとんど残っていなかった。ほとんど、である。全部ではない。


「レニエ。一つ、書け」


「はい」


「西方方面軍に、兵站監を置く。人選は私がする。総司令官の職権で置ける職を、私は一つだけ知っている。……名簿にない職を足すのは、名簿を書き換えるより、遥かに揉めん」


「宰相府は、何と」


「気づかんよ。あの方々は、麦を数える役目を、名誉だと思っておられない」


 少尉が、走り書きの手を止めて、上官を見た。


「よろしいのですか。……あの軍を、助けることになります」


「軍は助けん」と、ラ=マリニエールは言った。「兵を助ける。あの若い連中に、罪はない。指揮官を選べる兵など、この世におらんのだ」


 彼は、窓から目を離した。


「それに、レニエ。これは職務だ。私は、負ける戦の準備をしろとは命じられていない。——勝てる形に整えろと、勅命で命じられている」


 初めて、その日の彼は、心から笑った。


 書く男の癖で、彼は最後の一行を胸の内で書いた。——この国は、正しい書式で滅びる。ならば私も、正しい書式で抗おう。

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