第70話「玉座のない騎士たち」
夜明けの西門に、馬が三頭だけ立っていた。
国書を運ぶ使節の門出としては、ありえないほど軽い。護衛二騎と、当人と。それがジャン=リシュアン・ドゥラクロワの注文だった。曰く、行列は的になる。曰く、外交とは着いたときに始まるもので、発つときに始まるものではない——理屈はいつもどおり整っていて、いつもどおり、少しだけ寂しがり屋の照れ隠しが混じっている。
見送りも、二人だけだった。
ラウル・ド・フォークレラン。この生まれかけの国の、元首。そして、ローレンツ・フォン・ハルベルシュタット。かつて帝国近衛騎士団の団長だった男——つまり、玉座を守る仕事を先にやめた男と、あとにやめた男である。
「国書は」
「胸に」
「協定の草案は」
「頭に」と、使節は答えた。「紙は奪えますが、頭は奪えませんので」
「結構」ラウルは肯き、それから、老いた将にしては珍しく、少しだけ間を置いた。「——ジャン=リシュアン。向こうで何を値切られても構わん。だが、決済の条項だけは、一字も譲るな」
「心得ています」
「独立とはな、旗を替えることではない。金の流れを、替えることだ。旗は一日で縫えるが、金の流れは十年かかる。……行け。南の連中に、教わってこい。国というものの、作り方を」
使節は馬上で一礼し、それから、ふと真顔で言った。
「戻るまでに、釣りの穴場を三つ、見つけておいてください。交渉の成果に応じて、いい順から案内していただきます」
「厚かましいやつめ」
笑い声が、朝の門に短く響いて、蹄の音が西へ遠ざかっていった。街道の先が白み始めるまで、二人の騎士は、黙ってそれを見送った。
◇
その足で、二人は南東へ馬を駆った。
供は付けなかった。元首の外出としては論外の軽装だが、この国にはまだ、儀典より先に済ませるべき用事が山ほどある。街道を二刻。丘を三つ越えると、風の匂いが変わり、潮になった。
ローレンツは、気づけば半馬身、後ろに付いていた。
「ローレンツ」前を行くラウルが、振り向きもせずに言った。「並べ。お前が守るべき背中は、もうここにはない」
「……癖でございます」
「その癖で、何年、玉座の後ろに立っていた」
「二十年に、なります」
「わしは、もっと長い」と、老人は言った。「先達として言うがな。抜けるのに、同じだけかかるぞ」
ヴィルメールの港が、丘の下に開けた。
白い家並みと、乾ドックの木組みと、そして——帆柱の林。かつて帝国第二艦隊と呼ばれた艦隊が、いまはこの湾を仮の住処にしている。
近づくと、その帆柱に、旗が一枚もないのが分かった。帝国の旗は降ろされた。だが、代わりに揚げるべき旗が、まだこの世に存在しない。布告の日まで、艦隊は裸の帆柱のまま、風に骨だけを鳴らしている。ローレンツは、その音を、しばらく黙って聞いた。
旗は変えられる。船体は変わらない。そして変わらないということは、傷んでいくということである。帝国の規格で造られた艦は、帝国の規格の部品と、帝国の規格を知る職人がいなければ、二年で港の置物になる。
今日の用事は、それだった。
◇
ラ・メール家の屋敷は、港を見下ろす白亜の館だった。
当主ジュール=エティエンヌ・ド・ラ・メール。サン=ヴァラン家の一門で、本家が北で金を扱う間、この一門は代々、東の海で船を扱ってきた。還暦近い小柄な男で、握手より先に見積もりが出てくると評判の商人貴族である。
実際、卓に着くなり、書類が三つ並んだ。
「乾ドックの使用契約。職人六十名の派遣契約。それから、部品の調達契約——帝国規格の艤装品は、正規の経路では、もう手に入りません。ですが」と、ラ・メール卿は事もなげに言った。「非正規の経路なら、私どもの家は、百年前から持っております」
「頼もしいことだ」
「商売ですので。……ただし元首閣下、一点だけ。お支払いは、ファルケで願います」
聞き慣れない言葉に、ローレンツは眉を寄せた。
「ファルケ?」
「南のターラーですよ、騎士団長どの。アードラズベルクの造幣所が打つ金貨です。貨面に商会の鷹が刻まれておりましてな、海の連中はあれを『ファルケ』と呼びます。——この海では、もう帝国の金貨より、あの鷹のほうが速く飛ぶ」
ラウルが、愉快そうに髭を揺らした。
「決済条項の先取りか。抜け目のないことだ」
「商売ですので」と、ラ・メール卿は同じ調子で繰り返した。
契約は、昼までにまとまった。
◇
昼餐のあと、屋敷の奥の間に、もう一人の客がいた。
旅装のままの、五十がらみの男。北の言葉の抑揚で、しかし声を低くして名乗った。
「アントワーヌ=ヴィクトール・ド・サン=ヴァラン。父アルマン=アレクサンドルより——手紙に書けぬ分は口頭で、と申し付かって参りました」
ローレンツは、静かに息を呑んだ。サン=ヴァラン家の長子。帝国の北方連合太守、その人である。北の統治を預かる現職の太守が、供も連れず、商人の旅券で東へ下りてきている。その事実だけで、北の空気は知れた。それでも、聞かねばならなかった。
「北の統治は、いまどうなっている」
「うまくいっております」
意外な答えだった。太守は、皮肉の色もなく続けた。
「税は期日どおりに集まり、街道は舗装され、裁判所は毎朝きちんと開きます。私の任地に限れば、この二十年で最も整った統治です。……だからこそ、申し上げにくい」
「何がだ」
「壊れているのは、統治ではございません。統治される側の、辻褄です」
太守は、卓の上の海図を指で北へ辿った。大陸の北岸。その先の、細い海峡。
「ここを、一晩で渡ってこられます。向こうはヴィーレホルムの氷原——十年続きの不作と、何一つ決められぬ評議会。逃げたくなる気持ちは、私にも分かる。……ですが、数が違うのです。二十年前は年に数十人でした。いまは月に千。多い月で、二千」
「宰相府は、何と」
「移民は宝だ、と」太守は、その言葉を口にするとき、初めて表情を動かした。「レオニエ宰相のお言葉です。労働力が要る、徴兵の頭数が要る、北の空いた村に人を入れねばならぬ。だから定住金を出し、五年の免税を与える。——一方で、帝国臣民に課される税は、いま五割に達しております」
ローレンツは、思わず声を出した。
「五割」
「働いた者の手元に、半分しか残らない。その同じ国で、まだ何も納めていない者に、定住金が出ます。……これを、私の管区の農夫にどう説明すればよいのです。私は太守です。説明するのが、私の職務なのです」
「法は」
「法は、もっと悪うございます」太守の声が、少しだけ低くなった。「新しく来た者が罪を犯したとき、私の下の検事は、起訴をいたしません。無能だからではない。賢いからです。あれを起訴すれば『摩擦事案』として上申せねばならず、上申は宰相府の方針への批判と読まれ、担当者の考課に残る。不起訴なら、何も残らない。……私の管区の犯罪の数は、この五年、下がり続けております。実に美しい数字です。私が作らせた数字です。村を焼かれた者には、その数字は読めません」
誰も、口を挟まなかった。
「そうなればどうなるか。出ていくのです。臣民のほうが。若い者から順に。空いた村に、また新しい者が入る。そしてその村の数字も、やがて美しくなる。……古来、自国の民を数えるのをやめた国は、必ず、数えられる者の国になります。ラウル閣下。これを末期と呼ばずに、何と呼べばよいのか、私には分かりません」
ラウルは、長いこと答えなかった。
「……誤解なさらぬようお願いします」と、太守は付け加えた。「私は北方連合の太守です。私の管区には、七つの言葉と、四つの信仰がございます。異なる者と共に生きることの値打ちは、誰よりも承知しているつもりだ。問題は、来た者ではありません。自分の民を数えるのをやめた国の、その帳面の付け方です」
「耳が痛い話だな」ラウルが、ようやく言った。「ご存じのとおり、これから我々が旗を立てる国も、多くの民の国だ」
「ですから、申し上げに参りました」と、太守は言った。「よい多民族の国と、悪い多民族の国は、生き別れの兄弟のように似ております。分かれ目は、たった一つだ。——自国の民を、最後まで数え続けられるかどうか」
「軍は」
「軍は肥えています。ただし、餌が悪い。……宰相府は、戦費のために、金貨の目方を削り始めました。まだ僅かです。僅かですが、両替商は目方で生きております。我々が最初に気づき、我々が最初に、逃がし始めた」
「それが、南の金貨というわけか」
「価値は、殴られない場所に置くものです」と、太守は言った。「アードラズベルクのターラーは、憲章と、艦隊と、商会の帳面が守っている。いまの大陸で、あれより硬い金はありません。……我が家は既に、動かせるものから東へ、南へ、移し始めております。決済条項の件も——望みどおりに書いていただけたようで。ドゥラクロワの御曹司が、七日ののちには、南の卓で読み上げてくださるでしょう」
短い沈黙のあと、ラウルが低く言った。
「……御舎弟のことは、聞いている」
「クレマンは、軍人として死にました」太守の声は、揺れなかった。「南を恨んではおりません。ただ——あの子を南へやった署名と、あの子の死を三行で済ませた官報のことは、忘れておりません」
そうして、協定の話になった。
サン=ヴァラン家が差し出すもの。北の金融の目と耳。宰相府の戦費調達への、目立たぬ非協力——遅延、目減り、書類の迷子。そして、南の金貨を東へ流す水路の維持。
ラ=フェオが差し出すもの。事が終わったのちの、家門の地位と資産の保全。そして万一の日——来ぬことを互いに祈る日——には、一門を丸ごと受け入れる港と、屋敷。
紙は、一枚だけ作られた。写しはなし。署名は二つ。保管はラ・メール家の金庫。立会人は、元近衛騎士団長が一人。
ペンを置いたあと、太守は、初めて統治者でも商人でもない顔をした。
「……祖父は、よく申しておりました。金貸しは国を選べない、と。ですが閣下、選べないのと、選ばないのとは、違う。我々は今日、初めて選びました」
◇
帰り道は、夕日だった。
街道が西へ延び、二人の影が、馬の前に長く倒れていた。しばらく、蹄の音だけが続いた。
ローレンツは、太守の最後の言葉を反芻していた。
ラ=フェオは、多くの民の国である。帝国に捨てられたという一点だけで、言葉も神も違う者たちが集まった国だ。旗を立て、国境を引けば国になる——そう思っていた。だが、旗と国境は器にすぎない。何がこの国を国たらしめるのか。それを、あとふた月で決めねばならない。
そして、不意に南のことを思った。
大公国は——あれは、エルヴァ人の国だ。二十年前に焼かれ、大陸中に散らされたエルヴァ人が、立ち上がった旗を見て、街道と船を埋めて帰りつつある。あれは流入ではない。帰郷だ。彼らは文字を持ち、工房を持ち、ギルドの作法と誓いの作法を持って散っていった民で、その作法をどこの国の隅でも捨てなかった。
そして——これが肝心なのだが——寄る辺なく流れ着いた先でも、その土地の法と作法に、まず頭を下げた民でもある。異郷の祝日には店を閉め、異郷の神には帽子を取り、異郷の裁きには黙って従った。約束の期日を破らず、借りた金は返し、居着いた町の橋が落ちれば、真っ先に石を運んだ。だから追われることが少なかった。追われた土地でさえ、去ったあとに「あの連中は、誠実だった」という評判だけが残った。ローレンツは帝国近衛として二十年、大陸中の州を巡回して歩いたが、エルヴァ人の職人区で厄介事の始末書を書いた覚えが、一度もない。
誠実で、慎ましく、紳士であり淑女である。それは血の話ではなく、二十年、他人の家の軒下で暮らしながら守り抜いた作法の話だ。だから戻れば、たちまち国になる。ああいう民は、何度焼かれても、二十年かけて自分の国を建て直すのだろう。
北の岸に着く小舟は、それとは違う。西の海を渡ってくる者たちも、違う。同じ「移る」という一語で括るには、あまりに別の事柄だ——ローレンツはそう思い、思ったことを、口には出さなかった。
やがて、前を行く老人が、独り言のように言った。
「——マルク=オレル帝の治世であれば、こんな小細工は、要らなかった」
ローレンツは、手綱を握り直した。その名を、生きた声で聞くのは久しぶりだった。
「……大賢帝、ですか」
「わしがまだ、隊付きの将校だった頃の陛下だ」と、ラウルは言った。「あの御世にはな、ローレンツ。査問会がなかった。密約も、要らなかった。金は明るい場所を流れ、軍は誇りで足りた。名君というのは、いてくださるだけで、こういう日帰りの小細工を全部、不要にしてくださるものなのだ」
「……どのような、お方でしたか」
「妙なことばかり覚えている」老人は、少し笑ったようだった。「新しい金貨を打たせるたびに、あの方は市場の広場に天秤を運ばせた。新しい貨と古い貨を、皆の見ている前で釣り合わせて、目方が同じであることを確かめさせるのだ。毎年、必ずだ。わしは若造だったから、皇帝のなさることではないと思っていた。……今日、太守の話を聞きながら、ようやく分かったよ。あの方は毎年、天秤の上に、帝国の信用を載せておられたのだ」
「…………」
「廃されて、二十年余りになる。あのとき、まだお若かった。……生きておられれば、いまが働き盛りだ。どこの空の下で、何をしておられるのやら。……なあ、ローレンツ。あのお方と、その父君が、あのまま帝国を統治しておられたら——」
言葉は、そこで途切れた。老人は続きを言わず、ローレンツも、問わなかった。
何とも言えない気持ちが、胸の底に残った。悔いに似て、悔いではない。憧れに似て、憧れでもない。自分が二十年守り続けた玉座は、思えばあの名が去ったあとの玉座だった。守っていたのは、空の椅子だったのかもしれない。それならば、いま自分がしていることは、裏切りではなく——帰り道、なのかもしれない。
夕日が、二人の背を染めた。
玉座を守って生きた二人の騎士が、玉座のない国の門を、並んでくぐった。




