第69話「続きの話」
歓迎の宴は、早めに切り上げられた。
外交使節ジャン=リシュアン・ドゥラクロワの希望である。曰く、旅塵のついた体で女大公陛下の御前に長居するのは礼を失する。曰く、明日の会合に備えて書類を読み直したい——どれももっともらしく、どれも口実だった。宴のあと、使節は迎賓の館の露台にテオドールだけを誘い、葡萄酒を二つ注いで、こう言ったのである。
「——さて。約束の、続きの話だ」
夜風の中で、二人の同い年は、再び差し向かいになった。
「まず、何から聞きたい」
「全部です」と、テオドールは言った。「新聞と諜報の紙でしか、いまの北を知らない。……あなたの目で見た帝国を、聞かせてください」
ジャン=リシュアンは、少し黙り、それから話し始めた。
査問会の部屋の柱が八本だったこと。議事録が「あとで作られる」国になっていたこと。罪状のない令状。保護という名の拘束。総帥府の廊下の匂いが香料に変わっていたこと。父が元帥杖を振れなかった夜のこと。逃げる馬車の中で、婚約者が査問会の構成を諳んじてみせたこと——。
テオドールは、途中から相槌を忘れて聞いていた。紙で知る独裁と、人の声で聞く独裁は、別物だった。紙は事実を運ぶが、声は温度を運ぶ。友の声で運ばれてきた帝都は、想像より、ずっと寒かった。
「……お父上は」
「帝都だ」と、友は短く言った。「陸軍総司令官の椅子は、まだある。だが、その上に新しい椅子が一つ作られて、決裁の紙は、そちらを通るようになった。……役職だけが残って、仕事が抜き取られた形だ。父はいま、誰も読まぬ報告書を、毎朝きちんと書いているらしい。動かない。動かないことで守れるものが、まだあると信じている人だからな」
その声には、諦めと、誇りが、同じ分量で入っていた。テオドールは、それ以上聞かなかった。
「……いまの帝国はな、テオドール。強いか弱いかで言えば、まだ強い。だが、健やかかどうかで言えば——あれは、病人だ。それも、自分の病名を告げる医者を、片端から追放してきた病人だ」
「あなたも、その一人だ」
「私は追放されたのではない。転院しただけだ」と、使節は真顔で言った。「いまの病院は、診察を釣り場でやる。……悪くない療養だった」
それから彼は、盃を置き、少しだけ声の調子を変えた。
「一つだけ、忠告を置いていく。海に、気をつけろ。……エティエンヌ・ラ=マリニエール。帝国軍総司令官の座に就いたあの人は、敵に回すには、大陸で一番厄介な男だ。あの人は、あなた方の街を五年、内側から見ている。あなた方の海の癖も、たぶん、あなた方より知っている。……そしてあの人は正しい。正しい敵ほど、怖いものはない」
◇
翌日の大公宮は、儀典と実務が続いた。
国書の奉呈は、玉座の間で行われた。ジャン=リシュアンは使節の礼法どおりに国書を捧げ、アルモナは大公の作法どおりにこれを受けた。ただ、受け取りの言葉の最後に、女大公は作法にないことを一つ足した。
「——遠いところを、ようこそ。あなたの婚約者の御本、救護院の図書棚に入っています。よく借りられる一冊です」
使節が一瞬、外交官の顔を落として素の顔になったのを、居並ぶ一同が目撃した。カミーユ=マリーヌ・ド・アルジューの戦史随筆は、この国で密かに読まれているのである。
続く会合は、宰相府の大会議室で開かれた。
宰相ヴィルヘルム。財務卿マルク。内務卿イルザ。外務卿クラリッサ。軍務卿クラウゼ。法務卿ケルン。市長として陪席するレオンハルト。——憲章の国の政府と、生まれたての隣国の使節が、初めて同じ卓に着いた。
ジャン=リシュアンが持ち出したのは、交易協定だった。
東方軍道の関税の相互引き下げ。マレ・グラヴィス湾経由の海路の航行保証。度量衡の相互承認。決済通貨の取り決め。隊商の保護と、駅逓の相互乗り入れ——条項は実務的で、数字は精密だった。読み上げが進むにつれ、マルク財務卿の相槌が、儀礼のそれから本気のそれに変わっていくのが、傍目にも分かった。
「……決済の項ですが、使節どの」と、マルク財務卿が紙面から顔を上げた。「両国間のすべての決済を、当方の——アードラズベルクの造幣所が打つターラー建てとする、と。ラ=フェオは、帝国通貨の国のはずですが」
「でした」と、使節は過去形で答えた。「理由は三つございます。第一に、実利。大陸のどの街へ行っても、両替商より先にファルケンハイン商会の支店がある。多くの民族を束ねる市場では、いちばん顔の広い金で払うのが、いちばん喧嘩が少ない。第二に、政治。帝国の通貨を使い続ける限り、我々がどれだけ稼いでも、その金の値打ちの元栓は帝都が握ったままです。……独立とは、旗を替えることではなく、金の流れを替えることだ——うちの元首の、受け売りですが」
「第三は」
「第三は——」使節は、そこで初めて、わずかに言葉を選んだ。「すでに東の市場には、貴国の通貨が流れ始めている、という事実です。出所は、この場では申し上げかねますが」
マルクが、ヴィルヘルムと目を見交わした。帝国の内側から、南の通貨を静かに東へ流している手——その指の持ち主の見当が、この部屋の何人かには、付いていた。
「……なるほど。しかし使節どの、これは値切るどころか、当方が受け取りすぎの条項ですな。受け取りすぎの取引ほど、あとが高くつくものはない」
「最初の協定は、相手に少し得をさせておくものです」と、使節は即答した。「二本目の協定を、こちらの望む分野で結びやすくなる。……安い先行投資です」
「ほう。……宰相、この使節どのは、値切ってはなりませんぞ。値切ると、こちらの手の内を読まれる」
「もう遅いかと存じます、卿」と、クラリッサが涼しく言った。「先ほどから使節どのは、我々の顔色を条項の順番で測っておられる」
「——外務卿どのには、敵いませんな」
卓に、抑えた笑いが起きた。生まれたての国と、生まれたての国。手練れ同士の探り合いは、しかし敵意ではなく、奇妙な同志感を帯びていた。二十年、同じ帝国の影の下にいた者同士の同志感である。協定の骨子は、その日のうちに仮合意に達した。
◇
密談は、その夜に来た。
場所は、テオドールの執務室である。ジャン=リシュアンは従者も付けずに現れ、扉が閉まると、外交官の顔を、今度こそ完全に脱いだ。
「ここからは、国書にない話だ」
「……独立、ですね」
「聞いていたか」
「リュカ殿から、匂いだけは」
「匂いではなくなった」と、友は言った。「日取りが、決まった。ふた月後の、精霊祭の朔の日。ラ=フェオは独立を布告する。布告文は、もう刷り場にある」
テオドールは、息を整えた。聞いていた。予期していた。それでも、動き出した歴史の音は、腹に響いた。
「帝国は、来ますか」
「来る」と、ジャン=リシュアンは断言した。「オーギュストには、外の敵が要る。内側の軋みを塗り潰すための、都合のいい敵が。独立布告は、あの男にとって、待ち望んだ口実だ。……東征になる。規模はまだ読めないが、独裁の看板を懸けた戦だ。小さくは、ならない」
「昼の、協定は……」
「持参金だ」と、友はあっさり認めた。「国は、旗だけでは食えん。布告の朝に、隣国との交易の骨子が既にある——それが、生まれてくる国への、私にできる餞だ」
「それに、食い扶持のあてなら、実はもう一つある」と、友は少し声を落とした。「ヤシマだ。海の向こうの八洲と、裏で細々と、行き来を始めている。……これは国書にも、昼の協定にも、どこにも書いていない話だがな」
テオドールは、目を瞬いた。地図の東の、そのまた外——海の向こうの列島の名は、この半年で聞いたどの名前よりも、遠かった。
「……備えは。ラ=フェオの、軍は」
「人はいる。ラウル様がいて、ローレンツ卿の剣がある。旧近衛の古株が百、退役の古兵が四千、それに私と、私について東へ下った騎兵たちだ。質は、悪くない。だが——」
使節は、地図を卓に広げた。東の国の、長い長い国境線。
「軍としての形が、まだ、ない。個の武勇と、国の軍は、別物だ。あなたが一番、知っているはずだ。あなた方は半年かけて、誓いと勢いの軍を、制度の軍に作り替えた。我々には、そのふた月しかない。……そこで、だ」
ジャン=リシュアンは、顔を上げた。
「兵を、貸してほしい」
「————」
「正規軍は、駄目だ。大公国の軍団が国境を越えれば、その瞬間、この国は交戦国になる。帝国に、南と東——二正面の口実を与える。……だから、借りたいのは正規軍ではない。書類の上で除隊した志願者の集まり——義勇兵団だ。旗は大公国のものを掲げない。給金はラ=フェオが払う。死んでも、大公国の戦死者名簿には載らない。……むごい頼みだと、分かって言っている」
「……当てが、あるんですね。どの兵団か」
「ある」
友は、地図の上に、静かに指を置いた。
「第四軍団。——生まれたばかりで、建制の紐が一番緩く、書類の工作が利く。復帰兵と新兵の軍団だから、正規の三個軍団と違って、抜けても国防の骨格が崩れない。そして指揮官は、教範を書いた男だ。軍の作り方を教えられる軍団は、大陸にあそこしかない。……我々が借りたいのは、剣ではない。軍の、作り方だ」
テオドールは、長いこと、地図を見ていた。
第四軍団。急造と呼ばれ、演習でその名を返上した、あの七千。ライネルの軍団。シュポルクの、ラングの、ブレフの、ラウシュの——顔と名前の分かる、あの軍団。
その初陣が、これになるのか。
自国の戦ではない。旗も掲げられない。名簿にも載らない。それでも、隣で生まれた国の産声を守るための、戦。
そして、もう一つ。喉の奥に、苦いものが残った。憲章は、軍を嘘から遠ざけるために書いたものだ。統帥も、予算も、進退も、すべてを紙の上で明るみに置くと決めた。その軍を——嘘の除隊書類で、国境の外へ出す。ケルン法務卿が聞いたら、眉一つ動かさずに、しかし決して忘れない顔で、条文を三つ挙げるだろう。
「……それは、兵の貸し借りの話では、ありませんね。この国の憲章に、最初の嘘を書き込むかどうかの話です」
「そのとおりだ」と、友は目を逸らさずに言った。「だから、あなたに最初に話した。書類で誤魔化せる相手なら、書類で頼んでいる」
「……即答は、できません。宰相と、元帥と、常務委員会と——それに、ライネル自身の意思がいる」
「当然だ。今夜は、種を蒔いただけだ」
ジャン=リシュアンは、地図を畳み、それから、ふと窓の外を見た。リヒテンフェルデの夜。復興の槌音が止んだあとの、静かな街。どこか遠くの酒場から、聞き覚えのある行進曲が、風に千切れて届いていた。
「……いい国だ、ここは」と、友は言った。「うちも、こういう国にしたい。だから、来た」
——ここから先は、独立の戦の話である。




