第68話「演習の日」
夜明けの霧の中を、第二軍団エルンヴァハトは、静かに進んでいた。
リヒテンフェルデ北方、スロテンの丘を望む平野である。想定は、単純にして最悪——帝国軍が再び条約線を越え、北から南下してくる。それを平野で受け止め、遅滞させ、リヒテンフェルデの新市壁まで下がりながら敵の脚を削る。大公国軍が生まれて初めての、軍団規模の野戦想定演習だった。
この演習は、初めての軍団対抗演習でもあった。
紅軍は、先任の第二軍団エルンヴァハト。青軍は——新設の第四軍団である。定員一万二千にはまだ遠く、動員できたのは七千。傷が癒えて戻ってきた復帰兵と、行進曲で門を叩いた新兵と、各軍団から抜かれてきた熟練将校。継ぎ接ぎの、急造の軍団だ。その七千で、先任の一万五千に仮設敵として挑む。無謀なお披露目である、と誰もが思っていた。
テオドールは紅軍、すなわち防ぐ側を率いる。
そして青軍を率いるのは、その軍団長——ライネル・ベリク少将である。
「本気でやれ」と、テオドールは演習前夜に言った。「手加減した演習は、兵に嘘を教える」
「後悔しますよ」と、新任の軍団長は請け合った。「私は帝国の教範を、貴方より正確に覚えていますから。……それに、うちの連中は、見せたがっています。急造と呼ばれた軍団が、どこまでやれるか」
その言葉に、嘘はなかった。
青軍は、恐ろしく帝国だった。行軍序列も、砲兵の置き方も、伝令の間隔さえも、教範第七版の写しのように動く。ライネルの見取りの才は、剣だけのものではないのだ。一度見た型を、軍全体の規模で再現してみせる。霧の切れ目から現れた青軍の戦列を見て、古参の兵たちが低く唸った。半年前、壁の下で見たものと、同じ形がそこにいた。
そして——テオドールは、午前のうちに、二度殴られた。
一度目は右翼だった。士官学校一期生が小隊長を務める新編中隊が、教範どおりの佯動に釣り出されて、突出した。崩れを消し止めたのは、第一擲弾兵連隊のヘルマ・ヴェッターシュタイン中佐である。元は市壁の消防組頭——攻防戦の百五十三日、砲火の下で延焼を三度消し止め、そのまま兵になった女傑だ。崩れかけた戦列を彼女は「火事場」と呼び、城壁の端まで通る声で、火事場のやり方で立て直す。「下がるな、囲め! 火は、囲めば死ぬ!」
二度目は中央で、G787の更新が済んだばかりの大隊が、慣れない新型銃の装填間隔を敵に読まれ、斉射の谷間に騎兵を差し込まれた。差し込んできたのは、第四軍団の新編騎兵大隊——エーファ・ラング少佐の隊である。元は東方軍道の駅逓を差配した女駅長で、馬の齢を歯で当て、脚の善し悪しを歩様三歩で見抜く。半分は先月まで松葉杖だった復帰兵、半分は乗馬三月目の新兵——のはずの騎兵が、恐ろしく綺麗な楔を打ってくる。教範を書いた男が鞍の上で直伝し、馬を見る目が馬を選んだ。それだけで、騎兵はここまで変わるのだった。
「……ひどい目に遭っているな、うちの軍は」
丘の上の統裁部で、テオドールは呻いた。隣で審判長のヴェストハーゲン総参謀長が、眉一つ動かさずに記録を付けている。
統裁部には、真新しい顔ぶれが並んでいた。着任したばかりの副官フェルト少佐は、地図と兵棋の間を落ち着きなく往復し、三度、輜重の位置だけ直しに戻ってくる。主任参謀のレッタウ中佐は、開始からずっと同じ姿勢で、戦況図の一点だけを見ている。判定数値の読み上げは、マリア少佐の担当だった。検算の速さは、砲術の頃と少しも変わらない。
「右翼、損耗判定三割。中隊長は——判定、戦死です」
先輩と、一年下と、昔なじみ。軍学院の教室がそのまま幕舎に引っ越してきたような顔ぶれである。半年前まで誓いと勢いでできていた軍が、いまは同窓の名簿でも編めるようになった——それが良いことなのかどうか、テオドールにはまだ、分からなかった。
「結構なことです。実戦で初めて負けるより、演習で百回負ける方が、安くつきますので」
午後、テオドールは立て直した。
教範どおりに来る敵は、教範どおりに強い。ならば、教範にないものをぶつけるまでである。彼は新市壁の工事現場をそのまま演習に組み込んだ。実行したのは工兵大隊のバルドゥル・クレープス少佐——元運河浚渫の請負親方で、百五十三日の対坑道戦を「土の下の音を聴く男」として支えた無口な現場屋である。クレープスの工兵は半刻で導水堰を三つ開け、乾いていたはずの掘りかけの堀に、膝までの泥水を張った。地形が変わり続ける戦場は、どの教範にも載っていない。
誘い込まれた青の騎兵が泥に脚を取られたところで、ロベルト・ダール中佐の砲兵連隊が判定射撃の白旗弾を頭上に張り——元花火師の弾着は、祭りの仕掛けのように正確だった——グレムの突撃大隊が土塁の陰から立ち上がり、ブレンネル大佐のアイゼンヴィントが側面から蓋をする。
だが青も、ただでは沈まなかった。泥の中で踏み止まったのは、ヘンリク・ブレフ大尉の復帰兵中隊——左脚に鉄の副木を入れた中隊長が率いる、兵の半分が古傷持ちの、通称「松葉杖中隊」である。彼らは泥に膝を突いたまま隊形を解かず、判定死を宣告されるまで一歩も退かなかった。統裁部の記録係が、その粘りに三重丸を付けた。
「痛みは、古参の証明だ」と、ブレフ大尉は判定死のあとで、泥だらけのまま笑ったという。
もっとも、その突撃大隊は少々本気を出しすぎて、演習用の模擬柵を三つ、本物の戦斧で叩き割った。
「グレム少佐。演習です」
「すまん。体が、覚えとらんのだ。……手加減の方を」
もっとも、同じ手は二度きかなかった。日没前の最後の突き合いで、青軍は工事現場を大きく迂回し、あろうことか掘りかけの堀を、逆にこちらの退路を塞ぐ障害として使ってみせた。迂回の先導は隻眼の古参、ギュンター・シュポルク中佐——第二軍団から抽出された傭兵三十年の男で、抽出を「貸し出し」と呼んだ主計官を「貸し出しじゃない。婿入りだ」と睨み返した逸話が、もう軍中に広まっている。囮を務めたのはミヒェル・ラウシュ少尉の新兵小隊——士官学校一期の次席、行進曲を聴いて志願した口だと公言する十九歳が、囮の役を寸分の狂いなく務め上げた。
最初にそれを嗅ぎつけたのは、紅軍のアルヴィン・ハーネマン中佐である。猟兵連隊長——元は条約線の森の密猟者で、二十年、帝国の巡察を欺いて森を歩いた男だ。報告は例によって、こう始まった。「森が言うには——鳥の立ち方が、おかしい」。その報告が四半刻早かったおかげで、紅軍は退路の半分を確保できた。逆に言えば、半分は塞がれた。教範どおりに始まった仮設敵が、夕方には教範を捨てて、こちらの手口を写し始めていたのである。
日暮れ、終了の喇叭が鳴った。ヴェストハーゲンの講評は、勝敗より長かった。新編中隊の練度差。新型銃の装填教育の遅れ。伝令網の重複。旗手フリードの旗位置だけが「教範に載せてよい」と褒められ、当の本人は直立のまま耳を赤くした。
判定は辛勝——先任の一万五千が、急造の七千を相手に、夕暮れまで攻めきれなかった。数字だけ見れば紅軍の勝ちだが、この日の本当の勝者が誰かは、統裁記録を読んだ者なら全員が知っていた。急造、という言葉を、この日を境に、第四軍団に対して使う者はいなくなった。
撤収の道すがら、ライネルが馬を寄せてきた。青い腕章を外しながら、少将は少し笑っていた。
「午前の私は、半年前の帝国軍でした。教範どおりに動いて、教範どおりに強い。……ですが午後の私は、貴方の手口を写して、打ち返し始めた。教範を捨てる帝国軍——もし向こうに、見取りのできる将が一人でもいたら、次に来るのは、ああいう軍です。ご用心を」
「次の帝国軍、か」
テオドールは、北の空を見た。条約線の向こうで、いま帝国が何をしているか。届いてくる報せは、どれも軋んだ音ばかりだった。総帥府の廃止。新しい総司令官。眠り続ける皇帝。……次に来る帝国軍が、どんな形をしているのか、それはまだ、誰にも分からなかった。
◇
同じ週、アードラズベルクでは、一つの継承が完了していた。
市庁舎での市長就任の宣誓は、三分で終わった。商会本館での当主継承の儀は、もっと短かった。リヒテンフェルデから届いた小箱に、ファルケンハイン商会の当主印と、父の短い手紙が入っていた。手紙は、一行だった。
——商会を頼む。父より。
レオンハルトは、その一行を長いこと眺め、それから印章を執務机の抽斗に納めて、鍵をかけた。
市長にして、商会当主。街のすべてと、商いのすべてが、この日から正式に、二十五歳の双肩に載った。窓の外には港が見える。ファルケンホルストへ向かう補給船。音楽院の方角から風に乗って届く、聞き覚えのある行進曲の断片。大学校の新学期。鉄道試験線の杭打ちの音。——その全部が、いまや彼の帳場だった。
夕刻、決裁を終えた市長のもとに、番頭が最後の一枚を持ってきた。東方航路の保険料率の改定案である。レオンハルトはモノクルを直し、数字を三秒眺め、書き込みを一つ入れて返した。
「東方航路の保険は、来月から料率を下げる。戦時割増を、外せ」
「よろしいので? 東は、独立したばかりで先が読めませんが」
「読めるとも」
若き当主は、机の上の大陸地図に目を落とした。そこには、彼にしか見えない線が、何本も引かれている。
「東の湊は、これから大陸で一番安全な湊になる。……理由は、そのうち新聞が書く」
◇
そして、その日が来た。
リヒテンフェルデの南の門から、ラ=フェオの使節団が入城した。東方の意匠の旅装、隊列の中央に国書の箱を捧げ持つ官人たち。沿道は、初めて見る「新しい隣国」の色に鈴なりになった。
迎えの任は、第二軍団司令官たるテオドールにあった。門前に儀仗の兵を並べ、彼は使節団の先頭に立つ人物を待った。馬を降りたその男は、旅塵を払い、まっすぐにこちらへ歩いてくる。
外套の襟元から覗くのは、軍服ではない。文官の礼装である。だがその歩き方を、テオドールの体は覚えていた。壁の下で、捕虜交換の卓で、そして和平の署名の間で、幾度も向かい合った歩き方だ。
男は、テオドールの前で足を止め、少し考えるように間を置いてから、握手でも敬礼でもなく——こう言った。
「——約束どおり、続きの話をしに来た。ついでに、国書も持ってきた」
ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ。
元・帝国元帥。現・ラ=フェオ外交使節。かつての敵将が、新しい隣国の名代として、そこに立っていた。




