第67話「五つの椅子と一本の杖」
憲章の発布は、雨の日だった。
派手な式典は、なかった。大公宮の広間で、アルモナが最初の一部に署名し、写しが刷られ、街々の掲示板に貼り出される。それだけである。革命の国の憲法は祝砲で生まれるというが、この国の憲章は、印刷機の音で生まれた。テオドールは後年、それをこの国らしいと思うようになる。
だが、発布に続く「任命の日」は、静かでは済まなかった。
最初の議事が、誰も見たことのないものだったからである。
◇
広間の中央に、ヴィルヘルムが進み出た。宰相の礼服ではない。軍服だった。
——といっても、その軍服は、まだ真新しい。
この国に正式の軍服というものができたのは、軍隊創設法から、まだ二年に満たない。その前の四十年、この人が着ていたのは、傭兵団の革外套と、剣術の師範の稽古着である。剣聖の呼び名は道場と戦場で育ったもので、軍服は、いわば一番新しい皮だった。着慣れない詰襟の剣聖は、だから、ほんの少し窮屈そうに見えた。脱ぐ日の姿としては、かえって、それがふさわしかった。
「憲章第三章、第七条」と、元帥は静かに読み上げた。「軍籍にある者は、政務の長に就くことができない。——本条に基づき、宰相ヴィルヘルムは、本日をもって軍籍を返上する」
自分で書いた条文で、自分を斬る音だった。
彼は大公の前に進み、元帥杖を、両手で捧げた。新軍制とともに授かってから、一年に満たない杖である。アルモナは、それを受け取る手を、一瞬だけ、ためらった。受け取って、彼女は小さく、義父にだけ聞こえる声で言った。
「……お疲れさまでした、お義父様」
「なに。皮を一枚、脱ぐだけだ。……着慣れる前の皮だ、惜しくもない」
宰相の礼服に着替えて戻ってきたヴィルヘルムは、痩せて見えるどころか、むしろ一回り大きく見えた。四十年ぶんの稽古着の上に、紙で縛った権力を羽織った男の、奇妙な身軽さだった。
続いて、後任の任命である。
「大公国軍最高司令官に、オイゲン・クルーガー上級大将を任ずる。……あわせて、憲章の定める手続きにより、同人を元帥に叙する」
進み出たクルーガーに、広間がどよめいた。誰もが知っている経歴だからである。
二十一年前の第一次攻防戦——あの壁の上に、この男は曹長として立っていた。生き残り、特例区の二十年を支隊の古参曹長として勤め上げ、二度目の戦の開戦とともに第一歩兵連隊長。二度目の壁を、今度は率いる側で守り抜き、新軍制で上級大将。そして今日、この国でただ一人の、元帥になる。爵位も、家名も、後ろ盾もない。あるのは軍歴だけ——その軍歴だけで、壁の上の曹長が、軍の頂まで上がったのである。
アルモナは、いましがた義父から預かったばかりの元帥杖を、そのままクルーガーに授けた。杖は、前の持ち主の手の温もりが残ったまま、次の手に渡った。
クルーガーは、それをしばらく、無骨な手の中で眺めた。
「……一言、よろしいですかな」
「どうぞ」
「わしは太鼓叩きの小僧から数えて、半世紀近く、軍の階段を一段ずつ上って参りました。飛ばした段は、一段もありませんわい。——最後の段が」
新しい元帥は、杖を軽く掲げた。
「一番、膝にきますな」
広間が、笑いと拍手で割れた。壁の上の曹長が、元帥になる国。それがこの国の、何よりの自己紹介だった。
空いた第一軍団司令官には、ベルンハルト・ロス中将が任じられた。元石工組合の親方。攻防戦で市壁の区画指揮を執り、駐留部隊を預かってきた男が、アードラスヴェーアの名を継ぐ軍団の頭になる。ロスは任命の口上を受け、一言だけ返した。
「壁を積んだ手に、旗を持たせていただきます。……落としません。壁も、旗も」
◇
軍の任命が済むと、次は、五つの椅子だった。
行政の章の定める、五卿である。テオドールは軍側の席から、その顔ぶれが読み上げられるのを聞いた。
財務卿——マルク・エーベルト。
読み上げの瞬間、当のマルクは、広間の隅で給仕の監督をしていた。名を呼ばれても動かず、二度目に呼ばれて、初めて自分のことだと気づいた顔をした。進み出た家宰は、大公の前で深々と一礼し、それから宰相の方へ、恨みがましい目を向けた。
「……旦那様。伺っておりませんが」
「言えば断ったろう」
「当然でございます。私は家の財布を預かる者で——」
「その財布が、国の大きさになるだけだ」と、ヴィルヘルムは言った。「三十年、わしの無駄遣いに小言を言い続けた男だ。国の無駄遣いにも、言えるだろう」
マルクは、長い沈黙ののち、観念して二度目の礼をした。
「……では、お受けいたします。ただし旦那様、申し上げておきますが——財務卿の小言は、宰相にも届きますので」
「知っておる。だから選んだ」
内務卿——イルザ・ヴァルトルート。
リヒテンフェルデの屋根の上から降ろされてきた統治代行は、任命状を受け取りながら、率直に訊いた。「これ、屋根に登る暇はありますか」「公務であれば」と大公が真顔で答え、内務卿は満足して席に着いた。解放地の隅々まで、役所より先に頼られる人。繋ぐのが上手いやつが、内側を束ねる。誰も異論を挟まなかった。
外務卿——クラリッサ。
商会の情報部門を長く率いてきた女史は、外交と情報を一つの窓口に束ねる卿として立った。就任の弁は短かった。「外交とは、相手を知ることです。知ることなら、二十年やってまいりました」……テオドールは子供の頃から「テオドール坊ちゃん」と呼ばれてきた人が卿になるのを、妙な感慨で眺めた。
軍務卿——エリアス・クラウゼ。
開戦以来、軍政一筋の生粋の文官——軍服を一度も着たことのない男である。予算、徴募、調達、駐屯——軍の「暮らし」の全部を、文民として握る。統帥はクルーガー元帥、軍政はクラウゼ卿。剣と財布を分けて持つのが、この国の軍の形だった。
そして法務卿——ユストゥス・ケルン。
国体会議の紛糾のたび、条文の一字一句で議場を静めてきた、あの法律家議員である。カタリーナ・ヴィンターの「裁きの章」を行政の側から支える役目で、就任の弁もまた法律家らしかった。「私の仕事は、皆さまが法を破れないようにすることではありません。破ったときに、何が起こるかを、あらかじめ全員が知っている国にすることです」
五つの椅子が埋まり、憲章の国の、最初の政府ができた。
◇
午後は、軍制の実務だった。
元帥府の会議室で、ヴェストハーゲン総参謀長が、新体制の図面を広げた。
「整理します。統帥——作戦、指揮、教育——は元帥府。軍政——予算、徴募、調達——は軍務卿の官房。両者は対等で、接点は一つ、大公陛下の統帥名義と、民会の予算だけです。元帥府が軍務卿に命令することはできず、軍務卿が作戦に口を出すこともできません」
「揉めるぞ、それは」と、クルーガーが言った。
「揉めます」と、ヴェストハーゲンは即答した。「揉めるように、作ってあります。剣と財布が仲良くなりすぎた国が、東にございますので」
「次に——頭の痛い議題を」
総参謀長は、ひときわ分厚い綴りを開いた。
「入隊希望者の件です。先月、二千を超えました」
会議室が、静かにざわめいた。開戦の頃、この軍の総数は一万に届かなかった。半年前の軍議で「月六百」と報告されて驚いた数字が、いまや月二千である。
「勝った軍隊に人が集まるのは、承知しておりました。ですが、憲章と、戴冠と——あの行進曲が、少々、効きすぎました。訓練所は三交代でも溢れ、教官が足りず、装備の更新計画は月に三度書き直し。新兵の半数は、装備より先に寝床を待っています。総参謀本部は目下、戦の計画ではなく、入隊者の寝床の計画に忙殺されております。……嬉しい悲鳴、という言葉がありますが、悲鳴は悲鳴です」
「対策は」と、クルーガー元帥。
「受け皿を、作るしかありません。——第四軍団の新設を、上申します」
図面が、卓に広げられた。定員一万二千。幹部将校は既存の三個軍団から抽出し、兵員は、傷が癒えて原隊を離れていた復帰兵と、新兵とで満たす。骨は熟練、肉は新参——急造の軍団である。
「将校は、第二軍団から特に多く出していただきます」と、ヴェストハーゲンはテオドールを見た。「兵は抜きません、将校だけです。理由は、二つございます。一つは単純です——貴軍団には、傭兵部門の頃からの熟練将校が、軍でいちばん多く残っております。新兵一万を骨のある軍団にするには、その骨を分けていただくのが早い」
「……もう一つは」
「率直に、申し上げます」
総参謀長は、帳面を閉じた。
「第二軍団は、いずれ大公配となられる方の軍団です。精強な人材が一つ処に集まり続ければ、遠からず、誰かがそれを『私兵』と呼び始めます。事実がどうであれ、呼ばせた時点で、憲章の負けです。——人は、回すべきかと」
会議室が、少し張り詰めた。言いにくいことを、言うべき場所で言う。それがこの総参謀長の値打ちだった。沈黙は、短かった。
「……道理です」と、テオドールは言った。「持っていってください。骨も、作法も」
「……将校を出した上に、教範もですか」
「はい。ライネル大佐には新兵教範の起草を。貴官が、いまこの軍でいちばん『型』をお持ちですので」
ライネルが、静かに手を挙げた。
「素人の質問ですが。……休暇という制度は、この軍制の、どこに書いてありますか」
「良い質問です」と、総参謀長は眉一つ動かさなかった。「第四軍団が建ちましたら、書きましょう」
そして、軍団長の人事である。読み上げたのは、クルーガー元帥だった。
「第四軍団司令官には——ライネル・ベリク大佐を少将に進め、これを任ずる」
会議室が、一拍、静まった。当のライネルは、瞬き一つ分だけ黙り、それから立ち上がって、一礼した。
「……教範を書かせたのは、このためでしたか」
「よい教範は、書いた者が振るうのが一番安くつきます」と、ヴェストハーゲンが涼しい顔で言った。「兵は、快癒して原隊を離れていた復帰組と、新兵で満たします。骨は将校、肉は新参——急造の軍団です。それを形にするのは、教範ではなく、貴官の仕事です」
「なお、少将」と、総参謀長は、先の質問の答えを、このとき返した。「休暇の制度は、第四軍団が建ったら書く約束でした。……ご自分の軍団になりましたので、ご自分で、お書きください」
「————一本、取られました」
残る人繰りも、その場で決まっていった。ライネルの転出で空く第二軍団の副官には、軍事館でテオドールの一年下だったニクラス・フェルト少佐——兵站の虫で、在学中から「戦は輜重で決まる」と言い続けて浮いていた男である。主任参謀には、同じ軍事館の先輩、オスヴィン・レッタウ中佐。万年参謀と呼ばれ、呼ばれた本人がその渾名に満足している。技術と砲術の参謀には、あの検算のマリアが、少佐に上がって入る。そして胸甲竜騎兵——アイゼンヴィントは、ライネルの古参副長、ダフィト・ブレンネル大佐が預かることになった。人事表の上で、軍が一回り、組み替わっていく。
散会のあと、廊下で、ライネルがテオドールに並んだ。十五の歳から、いつも半歩後ろにいた男が、今日から半歩、横にいる。
「……妙な気分です。貴方の隣以外の場所で、軍を率いるのは」
「妙なのはこっちだ。振り向いて、おまえがいない軍議は初めてになる」
「すぐ慣れますよ。それに——」
新任の少将は、少しだけ笑った。
「次の演習で、お相手します。急造の軍団が、どこまでやれるか。……教範の著者が直々に仕込むのです。半年前の帝国軍くらいには、すぐなります」
軍法会議の設置。参謀本部の定員。士官学校二期生の募集。演習規定。動員計画の年次見直し——議題は夕方まで続き、テオドールは第二軍団に関わる項目のたびに署名した。署名の数だけ、軍が「制度」になっていく。半年前まで、この軍は誓いと勢いでできていた。いまは、紙でできていく。寂しいような、頼もしいような、両方だった。
散会の間際、クルーガー元帥が、テオドールとロスを呼び止めた。
「若いの。それと、壁の。……一つだけ、爺の小言を置いておく」
クルーガーは、真新しい元帥杖で、広げたままの大陸地図を、こつ、と突いた。北の、条約線の向こうを。
「制度は、できた。良い制度だ。だがな——制度が試されるのは、平時ではない。あちらさんが次に来るとき、この紙の全部が、本物かどうか試される。……そのときまでに、紙を血肉にしておくのが、わしら軍人の仕事ですわい。演習を、増やすぞ」
◇
夜、テオドールが宰相府に父を訪ねると、ヴィルヘルムは書斎で、軍服に油紙をかけているところだった。
真新しいままの軍服である。着たのは、二年に満たない。その隣には、四十年物の、肘の擦り切れた稽古着が畳まれていた。新しい皮と、古い皮。そして絹に包まれた、あの刃こぼれだらけの剣——祖父の剣と、父の二枚の皮が、同じ棚に仕舞われていく。
「……いいのですか」と、テオドールは訊いた。「本当に、脱いでしまって」
「憲章が、そう書いておる」と、父は言った。「わしが書いたのだからな。……それにな、テオドール。剣も軍服も、仕舞い場所ができただけだ。棚というものは、出すためにもある。——出す日が来ないことを、宰相として祈るがな」
油紙の包みが、棚に納まった。
その翌朝、南の門に早馬が着く。ラ=フェオの正式使節が国書を携えて発ち、数日のうちに入城するという先触れであった。




