第66話「権力の消し方」
宰相府の書斎で、ヴィルヘルムは紙の山と戦っていた。
憲章の、起草である。
国体会議から引き継いだ骨子はある。憲章を最上位に、大公は象徴に、常備軍は議会の統制に。だが骨子を条文にする段になって、剣聖の筆は、しばしば止まった。難しいのは、権力の書き方ではない。権力の、消し方だった。
「マルク。……宰相職の項だがな。任期と、解任の手続きと、それから職権の限界を、どこまで細かく書くべきだと思う」
「旦那様の職の話で、ございますな」
「そうだ。わしは終戦の日に辞める。だが問題は、わしの次だ。この椅子は、書き方を誤れば、あの帝都の椅子と同じものになる。……帝国の宰相は、皇帝の眠りに乗じて『御委任』を僭称した。委任の中身を誰も書かなかったからだ。この国の宰相は、逆にする。できることの全部を、先に紙へ書いてしまう。書いていないことは、できない。……わしはいま、自分の職を、憲章で縛り上げる作業をしておる。存外、骨が折れるものだな。自分の檻を編むのは」
「編み上がりましたら、私めが検分いたしましょう。緩い箇所があれば、小言を申し上げます」
「頼む。……おぬしの小言より厳しい検分を、わしは知らん」
「では、早速ひとつ」
マルクは、卓の端の条文草案を、断りもなく取り上げた。軍制の章である。常備軍の存立は国体会議の年次承認による、承認なくば軍は法の上から消える——軍議で固めた、あの骨子だった。
「この条項、緩うございます」
「……緩い? どこがだ」
「消えませぬよ、旦那様。軍というものは」
家宰は、条文を卓に戻して、給仕のような静かさで続けた。
「西のヴェストマルクで、百年ほど前に一度、軍律法が更新されぬまま一年切れたことがございます。議会が揉めたのでございますな。——して、共和国の軍は消えましたか。消えませなんだ。兵は兵舎で飯を食い、士官は俸給を待ち、軍はそこに在り続けた。消えたのは、法の面目だけで。……紙の上で消えることになっている軍が、実際には消えぬ。これが一番危のうございます。法と実体がずれた瞬間こそ、悪しき者が入り込む隙間ですので」
「では、どう書けと言う」
「逆さに、なさいませ」
マルクは、指を三本立てた。
「一つ。常備軍は、常備の名のとおり、常に在るものと書く。存立を毎年問うてはなりませぬ。恐れながら旦那様、帝国が倒れたとて、この大陸は静かになりませぬ。崩れ兵は野に散り、海賊は湊を狙い、北も西も落ち着かぬ。軍のない一年を作れる情勢では、ございません。二つ。指揮権は、大公陛下に帰属させる。軍は『大公の名において』動くと決めたのですから、統帥の宛先として、はっきり書いておく。兵の忠誠に、曖昧な宛先ほど毒なものはございませんので。そして三つ——毎年問うのは、存立ではなく、予算に、なさいませ。飼い葉でございますよ、旦那様。軍は在る。指揮は大公が執る。されど一粒の麦、一足の軍靴に至るまで、金は議会が毎年承認せねば出ない。……存立を人質に取る統制は、切れた日に嘘になりまする。財布を握る統制は、一日たりとも嘘になりませぬ。三十年余り、この家の財布を握ってきた爺の申すことでございます」
ヴィルヘルムは、長いこと、条文と家宰の顔を見比べ、それから軍制の章を頭から書き直した。書き終えて、ぼそりと言った。
「……軍議で三度揉めた条文が、茶を三杯飲む間に直ったぞ」
「軍議には、財布を握った爺がおりませなんだので」
◇
午後、大公が客を連れてきた。
アルモナは近頃、週の半分を宰相府で過ごす。象徴とは飾りのことではない、条文は自分の名で施行されるのだから中身を全部知っておく——というのが本人の言い分で、ヴィルヘルムはそれを止めない。止まる人でもない。
「お義父様。会ってほしい人が、いるの」
連れられて入ってきたのは、五十がらみの、質素な外套の女性だった。物腰は静かで、目だけが、条文の山を素早く、貪欲に読んでいた。
「大学校の、カタリーナ・ヴィンター先生。精霊術学と、市民哲学の」
ヴィルヘルムは、筆を置いた。その名は知っている。総合大学校で二十年、「人はなぜ従い、なぜ裁くのか」を講じてきた学者。著書は帝国で禁書、この街で教科書になった人である。
「先生が、憲章に足りない章があると仰るの。——私、聞いていて、鳥肌が立った。だから連れてきたわ」
「足りない章、とは」
カタリーナ・ヴィンターは、挨拶を短く済ませ、卓の条文を一瞥して、言った。
「裁きの章です、宰相閣下。……この草案には、国の作り方と、軍の縛り方と、金の流れ方が書いてある。良い草案です。ですが、書かれていないことが一つある。——この国で人が人を裁くとき、何に基づいて裁くのか、です」
女史は、外套の下から、自分の綴りを出した。
「帝国をご覧なさい。あの国に法がないのではありません。法はある。ただ、法の外に裁きの箱を作ることが許されている。勅命、査問、諮問——名前を変えた箱が、いつでも法を追い越せる。箱に入れられた者は、罪状も知らされずに消える。……私の申し上げたいことは一つです。この国は、裁きの箱をすべて、法の内側に置く。身分で裁きを分けない。信仰で分けない。出自で分けない。裁くのは人ではなく、あらかじめ書かれて、誰でも読める法である——それを、憲章の章に」
書斎が、静かになった。
ヴィルヘルムは、二十年前の炎の夜を思った。あれも、裁きだった。法のどこにも書かれていない裁きだ。それから、東の査問会の噂を思った。名前を変えた箱は、いまも人を呑み込み続けている。
「……軍は、どうなさる。兵の罪を市中の法廷で裁けば、軍が保たん」
「軍人は、軍法会議で。ただし軍法もまた、あらかじめ書かれた法であること。箱ではなく、法であること。——そこだけは、譲れません」
「先生」と、ヴィルヘルムは訊いた。「この章はな、いずれ、わしら自身を裁く章になるぞ。宰相も、将軍も、大公すらも、法の下に置かれる。……それでも、書くか」
カタリーナ・ヴィンターは、初めて、少しだけ笑った。
「閣下。裁く側が裁かれない国を、私たちはもう一つ、知っております。……二つも要りますまい」
その日、憲章に「裁きの章」が加わった。のちに大陸の法学者たちが「この一章だけで、あの国は建てた甲斐があった」と評することになる章である。起草者の欄には、ただ一行——大学校教授、カタリーナ・ヴィンター。
◇
夕刻には、ヨルク翁が杖を突いて現れた。呼んだのは、議会の章のためである。
老人は草案の「大公国民会・二院制」の項を、眼鏡を上げ下げしながら三度読み、それから唸った。
「……下の院は、民会。国じゅうの選挙で選ぶ。上の院は、参事院。わしらの国体会議を改組して、豪商だの、ギルドだの、信仰だの、学者だのの寄り合いを、そのまま再考の府にする、と。……つまり、あれか。祭りのあとの寄り合い所帯に、家紋を付けて残す、ということかの」
「そうだ。あの寄り合いは、二十年ぶんの知恵の置き場だ。選挙は数を集めるが、数だけでは足りんものがある。……翁。参事院の初代議長、受けてもらうぞ」
「年寄りをこき使う国じゃわい」と、翁は言った。まんざらでもない声だった。「……ええじゃろ。ただし条件が一つ。議場の椅子は、尻の痛うならんやつにせい」
◇
夜、灯りを落とす前に、ヴィルヘルムは書き上がった章の束を、順に読み返した。
大公の章。宰相の章。民会の章。裁きの章。軍の章。……最後に、行政の章。宰相の下に、五つの卿を置く。財務、外務、内務、軍務、法務。小さな政府である。卿の任免、職掌、これも全部、紙に書いた。
そして、その行政の章の中ほどで、彼の目は、一つの条文の上に止まった。
自分で書いた、文民統制の条項である。
——軍籍にある者は、政務の長に就くことができない。
ヴィルヘルムは、その一行を、長いこと見ていた。それから、隣の部屋で帳面を繰っている家宰に、声をかけた。
「……マルク。この条文はな。よく読むと、わしを斬るぞ」
「はい」
マルクは、顔も上げずに、答えた。
「よく書けた条文の、証でございます」




