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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第四章「盛者必衰」

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第65話「毒の椅子」

 報せは、夜明け前に来た。


 旗艦の司令官室の扉を叩いたのは、レニエ少尉である。差し出された書付には、封蝋も署名もなかった。ただ一行、几帳面な商館の筆跡で、こうあった。


「今暁、宰相府親衛隊二個中隊、セルヴィル邸へ。名目は保護」


 保護。近頃の帝都で、これほどよく働く言葉もない。


「馬を」と、エティエンヌは言った。「それと、直営艦隊の陸戦隊を一個小隊。武装は最小限、軍旗は正式のものを持て。……いいかレニエ。今日やるのは戦闘ではない。示威だ。旗の見せ方で勝負が決まる」


   ◇


 セルヴィル邸の門前は、松明で明るかった。


 宰相府親衛隊——軍ではない。宰相府が「庁舎警備」の名目で膨らませてきた、私兵に近い部隊である。その二個中隊が邸を囲み、門の内では、老いた家令が両腕を広げて立ち塞がっていた。指揮官が令状らしき紙を振りかざして怒鳴っている。


 そこへ、二つの方向から、蹄と靴音が来た。


 東の街路から、ジャン=バスティアン・ドゥラクロワ元帥と陸軍総司令部の憲兵一個中隊。港の方角から、エティエンヌと直営艦隊陸戦隊。二つの正規軍の旗が、松明の灯りの中に、静かに割り込んだ。


「これはこれは」と、バスティアンが、恐ろしく平坦な声で言った。「宰相府の皆様が、朝も早くから、現役の元帥のお宅に何のご用かな」


「ほ、保護であります! 元帥閣下の身辺に危険が迫っているとの情報があり——」


「奇遇だな。我々も同じ情報を得て、駆けつけたところだ」


 バスティアンは馬を降り、親衛隊の指揮官の前に立った。老元帥の胸の徽章を、若い指揮官はまともに見られなかった。


「保護というなら、話は早い。軍人の身柄は、軍が保護する。それが軍制というものだ。——引き取られよ」


「し、しかし、宰相閣下のご命令で……」


「ならば訊くが」


 エティエンヌが、馬上から静かに口を挟んだ。


「その命令書に、罪状はあるか。現役の元帥を兵で囲む以上、相応の罪状があるはずだ。読み上げていただこう。ここには正規軍の将官が二名いる。証人には、事欠かない」


 指揮官は、手の中の紙を見た。長いこと見た。それから、何も読み上げなかった。読み上げられる中身が、書かれていないのである。


 親衛隊が引いたあと、邸の奥から、ゴーティエが出てきた。旅装だった。卓には、飲みかけの茶が二つ。彼は最初から、全部予見して、茶を淹れて待っていたのである。


「……遅かったな、二人とも」と、元総帥は言った。「茶が、冷めた」


   ◇


 クーデターは、失敗した。だが、オーギュストという男の恐ろしさは、その先にあった。


 彼は、失敗の上に、最初から次の階段を用意していたのである。


 正午、布告が出た。第一の布告——総帥府は、本日をもって廃止する。軍務の統括は、眠れる皇帝の「御委任」により、宰相がこれを担う。ゴーティエ個人を潰すのではない。総帥という制度そのものを、消したのだ。権威ある個人は捕らえ損ねても、その個人が座る椅子を壊してしまえば、権威は宙に浮く。


 だが宰相は、軍というものを知っていた。制度を消せば、軍は必ず反旗を翻す。文官に統帥される軍隊など、この大陸のどの軍も呑んだことがない。


 だから、第二の布告が、同日に出た。


 ——帝国軍総司令官職を、新設する。陸海全軍の作戦指揮を統括する、軍人の最高職である。初代総司令官には、海軍大将エティエンヌ・ラ=マリニエールを任ずる。


 絶妙の一手だった。軍には「軍人の頂点は軍人」という体裁を返し、湾に育つ第三の極は頂点ごと体制に組み込み、そして任命の恩は、まるごと宰相府に積み上がる。断れば、湾の連合艦隊は「宰相に逆らった艦隊」になる。受ければ、独裁の看板になる。毒を塗った椅子である。


 その夜、旗艦の司令官室には、直営艦隊の主だった者が詰めかけた。


「お断りください」と、参謀長が言った。「これは椅子ではありません。首輪です」


「受ければ、提督は独裁の飾りにされます。お断りを」


「断れば艦隊が潰されます。ですが、それでも——」


 エティエンヌは、皆の言葉を最後まで聞いた。聞き終えて、窓の外の帆柱の森を、しばらく見た。それから、言った。


「——受ける」


 室内が、凍りついた。


「諸君の言うとおり、これは首輪だ。だが考えてもみよ。私が断れば、この椅子は消えるか? 消えない。別の誰かが座るだけだ。あの宰相の犬が座り、諸君の艦隊は犬に率いられて、政治の日程で海に出ることになる。……あの航路を、私はもう一度見る気はない」


 彼は卓の海図を、指の腹で、ゆっくりと撫でた。


「毒の椅子なら、毒に慣れた者が座ればいい。……それに」


 その先を、彼は言わなかった。言わなかった部分こそが決断の本体であることを、部屋の誰も知らなかった。


 散会のあと、司令官室に残ったレニエ少尉が、遠慮がちに口を開いた。


「……閣下。一つだけ、伺ってもよろしいですか。亡くなられたメルヴィル元帥は——この決断を、なんと仰ると思われますか」


 エティエンヌは、少しだけ黙った。それから、机の抽斗を開けた。油紙に包まれた古い通信文が、そこにある。三月、沈む艦から沈む艦へ運ばれてきた、あの一通が。


「同じ文句を、もう一度書いてくださるだろうよ。……ただし今度は、結果を見てからだ。あの方は、そういう方だった。——下がってよし。明日から、忙しくなるぞ」


   ◇


 受諾の返書を出した夜、エティエンヌは、目立たない辻馬車で帝都の高級街区へ向かった。


 サン=ヴァラン公爵邸である。


 通されたのは、広間ではなく、地下の葡萄酒蔵に続く小さな書斎だった。灯りは燭台が二つきり。そこに、先客が三人、いた。


 アルマン=アレクサンドル・ド・サン=ヴァラン公爵。当主自ら、葡萄酒の栓を抜いている。


 ゴーティエ・ド・セルヴィル。公爵家の庇護下に入って三日、幾らか顔色が戻っていた。帝都直轄区の司令官は公爵家の次男である。宰相府の手の者が公爵邸に踏み込むには、直轄区の検問を三つ越えねばならず、そのすべてが、サン=ヴァランの検問だった。


 ジャン=バスティアン・ドゥラクロワ。軍服ではなく、地味な平服で。


 そして、四人目——書記の身なりをした若い男が、燭台の陰から進み出て、生真面目に一礼した。


「お久しゅうございます、提督。……いえ、総司令官閣下と、お呼びすべきですか」


 エティエンヌは、目を細めた。サン=ヴァラン家東方商館の書記。そういう触れ込みの、その顔を、彼は東の湊で見たことがある。ローレンツと十二騎を帝都から逃がした、あの元近衛の若者——リュカである。公爵と東方の「文通」の、これが配達人だった。


「東の元首閣下は、息災か」


「庭の樹が、今年はよく茂ったと仰せです」と、リュカは言った。「それから、閣下がたへの言伝を、一つだけ預かって参りました」


 卓の上の燭台が、四人の顔を、下から照らした。


「『看取りの支度を』——以上です」


 誰も、すぐには口を開かなかった。やがて公爵が、五つの杯に葡萄酒を注ぎ終えて、口火を切った。


「……端的に参ろう。この国は、死につつある。それも、悪い死に方をしようとしている。皇帝は眠り、制度は今日、一つ消えた。あの宰相は遠からず、内側の軋みを塗り潰すために、外に大きな戦を始める。そして、負ける。ここまでは、この卓の全員の見立てが一致しておると思うが」


 異論は、出なかった。ただ、バスティアンが一つだけ、公爵に確かめた。


「……卿。この面子を、卿の邸で集めるということの意味は、分かっておられような。露見すれば、直轄区のご子息まで巻き添えになる」


「巻き添えではない」と、公爵は眉一つ動かさなかった。「あれには、何も知らせておらん。あれの仕事は、検問を規則どおりに運用することだけだ。規則どおりの検問が、結果としてわれらを守る。……子を守る一番の方法は、子に何も持たせないことだ。倅を一人、持たせすぎて亡くした男の言うことだ。聞いておいて損はない」


「問題は、その先だ。国が悪く死ぬとき、巻き添えになるのは誰か。——民だ。それから、正直に働いた者から順に、だ。われらが今夜ここで結ぶのは、謀反の盟約ではない。……言うなれば」


 公爵は、杯を持ち上げた。


「看取りの、支度である」


 その夜、蔵の上の書斎で語られたことの、すべてをここに記すことはできない。


 ゴーティエが古い軍法の条文を一つ、卓に置いたこと。バスティアンが、ある会戦の図面を袖から出したこと。リュカが東の湊の水深を諳んじたこと。公爵が「金は、旗より長生きする」と言って笑ったこと。そして最後に、エティエンヌが受けたばかりの新しい職名を指でなぞりながら、静かに一つの約束を口にし——他の四人が、杯を置いて、順にそれに頷いたこと。


 その約束が何であったか。


 それが明らかになるのは、ずっと後のことである。帝国が予見のとおりに大きく躓き、誰かが瓦礫の前に立って、この国の後始末を引き受けねばならなくなる——その日、エティエンヌ・ラ=マリニエールは、この夜の杯を思い出しながら、約束の続きを実行することになる。


 だが、それはまだ、先の話だ。


 今夜のところは、五つの杯が、燭台の灯りの下で静かに合わさった音だけを、記しておけば足りる。

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