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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第四章「盛者必衰」

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第64話「連合艦隊」

 再建に取りかかって、まず突き当たったのは、艦齢だった。


 第一艦隊は、陛下直轄の艦隊である。それは名誉であると同時に、呪いでもあった。観艦式の花形。儀礼の艦隊。艦長職は名門の子弟の箔付けの席で、艦は美しく——古かった。新機軸の艦はどこにあるのかといえば、「実験は東方で」という二十年来の方針のもと、蒸気補助も新型砲も、すべて第二艦隊に回されてきたのである。


 その第二艦隊は、いま、東の湊で「照会中」の艦隊になっている。


 帝国は、二十年かけて自分の右腕に最新の武器を持たせ、その右腕ごと、東に置き忘れてきたのだった。


 対して、南である。


 諜報摘要は、月を追うごとに厚くなった。帆のない船の試験航海。同型比二倍半。半島の軍港には乾ドックが二十四——帝国海軍工廠の三倍。読み上げる参謀の声が途中で掠れたのは、数字のせいばかりではあるまい。造艦競争は、始める前から答えが出ていた。追いつけない。


「——ですから、追いつきません」


 作戦会議の席上、エティエンヌは、そう言った。


   ◇


「追いつかず、勝ちもせず、負けないことに徹します」


 海図の上に、彼は三つの円を描いた。帝都湾。西岸沿いの航路。そして南の海域。


「南の新造艦は速い。恐るべき速さです。ですが、速い艦は大飯食らいだ。——これは推測ではありません。マレ・グラヴィスで精霊駆動の艦を率いたのは、皆さんもご存知のとおり、この私です。あの脚は、確かに海の文法を壊す。ですが戦闘機動に入って半刻で、触媒計は赤に落ちました。私は勝ち戦の最中に、燃料の残りで転舵を決めていたのです。南の二本差しは、巡航を蒸気に分けた分だけ利口ですが、駆ける方の脚が短い理屈は、変わらない。——ならば戦い方は一つ。艦隊決戦を避け、狭水道と湾口で足止めし、洋上の補給路を断つ。敵の速さを、敵の重荷に変えるのです。ファルケンハインの軍は、賢い。賢い敵には、賢い戦をするしかありません」


 会議室が、ざわついた。ざわつきの中心は、卓の奥に居並ぶ古参の艦長たち——第一艦隊の伝統そのものである、老齢の男たちだった。


「……お待ちなされ、司令官殿」


 最古参のロシュフォール大佐が、白い眉を逆立てて立ち上がった。


「足止め? 補給路を断つ? それは海軍の戦ではありませんぞ。海賊の戦だ。帝国海軍には二百年の礼法がある。戦列を組み、旗を掲げ、正面から砲門を開く。それが陛下の艦隊の戦い方だ。小細工を弄して、それで勝って、何の名誉になりますか」


「名誉は」


 エティエンヌは、少し考えて、言った。


「生きて帰った水兵の数で量るものと、私は教わりました」


「詭弁を! だいたい、先ほどから聞いておれば、司令官殿は敵を『ファルケンハインの軍』と呼びなさる。あれは南方の反乱軍である! 帝国軍人が敵に敬称を使うなど、士気に関わりますぞ!」


「大佐。では、アードラス湾で我々の主力を半日で沈めた相手を、何とお呼びになる」


「そ、それは……」


「呼び方は、敵の値札です。安く呼べば、安く見積もる。安く見積もった艦隊がどこでどうなったか——私より、皆さんの方がよくご存知のはずだ」


 老艦長たちは鼻白み、しかし、退かなかった。会議は三度開かれ、三度、物別れに終わった。伝統は、理屈では動かない。エティエンヌはそれを責める気になれなかった。二百年その伝統で飯を食ってきた男たちに、明日から海賊の戦をしろと言っているのは、こちらなのである。


 だから彼は、命令で艦隊を割ることをやめ——別の艦隊を作ることにした。


   ◇


 人集めは、静かに始まった。あては、あった。


 敗残兵である。


 アードラス湾で艦隊が半日で溶けたとき、それでも生きて帰った者たちがいる。マレ・グラヴィスの湾で彼が収容し、殿戦で守って帰した、あの男たちが。帝都に戻った彼らを待っていたのは、英雄の帰還ではなかった。「負け艦隊の生き残り」。桟橋の警備や倉庫番に回され、古参からは目を逸らされ、半年、そういう扱いを受けてきた男たちである。


 その男たちの兵舎を、新司令官は、一人ずつ回った。


「私を、覚えているか」


 覚えていない者は、一人もいなかった。


「諸君は、負けた。私も、三十年、負け続けてきた。……負けた者だけが、知っていることがある。どこで、なぜ、どうやって負けるかだ。次の海戦で役に立つのは、それを知っている者からだ。名誉を挽回したい者は、明朝、第七桟橋に来い。楽な役ではない。だが——二度と、倉庫番はさせん」


 翌朝、第七桟橋には、集めるつもりだった数の、三倍が並んでいた。


 その列の一番端に、若い士官が一人、直立していた。


 バティスト・レニエ少尉——といっても、少尉になったのは先週である。アードラス湾のとき、彼はまだ士官学校の学生だった。旗艦の伝令士官見習い。降伏信号の直前、メルヴィル元帥は、この少年を通信文と共に僚艦へ移した。「若い者から運ぶのが、伝令の決まりだ」——柑橘を回してくれた老元帥から受けた、それが最後の命令だった。


 少年の運んだ通信文の宛名を、エティエンヌは忘れていない。マレ・グラヴィスの収容艇の上で、ずぶ濡れの候補生が、油紙に包んで胸に抱えていた、あの一通である。


 ——E・L・M提督ヘ。貴官ハ正シカッタ。


 死んだ元帥の遺言を、十七の少年が、沈む艦から沈む艦へ、三月抱えて運んできたのだ。エティエンヌはその通信文を受け取った日から、この少年の行き先を、ずっと目の端に置いてきた。士官学校に戻り、繰り上げで任官し、そして今朝、誰より早く桟橋に立っていた少尉を、彼は自分の副官に指名した。


「理由を、伺ってもよろしいですか」と、レニエ少尉は生真面目に訊いた。


「伝令の決まりを、正しく教わっているからだ」と、エティエンヌは答えた。「私の艦隊では、それが一番の学歴になる」


 彼らを核に、艦隊が編まれた。帝都工廠で建造途中のまま予算凍結されていた新造戦艦二隻——エティエンヌは復帰時の三条件を盾に人事と予算をねじ込み、工期を再開させた——それに、小型快速艇四隻。合わせて六隻。第一艦隊の建制の外に置かれた、司令官直率の直営艦隊である。


 伝統の艦隊は、戦列の礼法のままに。直営艦隊は、足止めと遮断のために。二つの艦隊は互いに軽蔑し合いながら、それでも同じ湾で、訓練を始めた。現実がよく見えている将兵と、現実しか信じない司令官——理は、最初から一致していた。


   ◇


 その老人が訪ねてきたのは、直営艦隊の初帆走の日である。


 供も少なく、飾りもない馬車で桟橋に現れた客を見て、レニエ少尉が息を呑んだ。アルマン=アレクサンドル・ド・サン=ヴァラン公爵。三大銀行の一角サン=ヴァラン家銀行の総帥にして、造船と港湾と官営貿易を一族で握る大貴族——宮廷の陰では「帝国経済の黒幕」と囁かれる、その人である。


 老人は、型どおりの挨拶を全部省いて、言った。


「——倅が、世話になった」


 エティエンヌは、黙って、深く頭を下げた。クレマン・サン=ヴァラン。南方派遣艦隊副司令。飢えた回航の途中、金貨を積んでも水一樽買えないことに愕然としていた財閥の御曹司は、アードラス湾で、燃える旗艦に最後まで残った。


「三男坊の最後の手紙にはな、提督。妙なことが書いてあった。『樽の数え方を、覚えました』と。……儂は息子らに、金の数え方しか教えてこなんだ。樽の数え方を教えたのは、あの艦隊が初めてだ。それがあれの、最後の学問になった」


 老人は、桟橋の先の、二隻の新造艦を見た。


「弔いを、したい。坊主に経をあげさせる弔いではない。倅が死んだ理由を、二度と作らせないという弔いだ。政治の日程で艦隊を出す者らに、二度と海を触らせるな。——金は出す。船も出す。一門の分家——造船のド・ラ・メール、港湾のマリノー——の各領地に、護送用の武装艦が四十からある。錬度は商船並みだが、船体は確かだ。全部、貴官の指揮下に入れよう」


「……宰相府が、黙っていないでしょう。財閥が軍に艦を出すなど」


「レオニエの小倅が、か」


 老人は、初めて笑った。氷のような笑いだった。


「あれの寄越した日程が、儂の息子を殺した。黙っていないのは——こちらの方よ」


 なお、この老人がこのときすでに、東方のある人物と静かな文通を始めていたことは、帝都の誰も知らない。それはまた、先の話である。


   ◇


 かくして、その季節の終わりまでに、帝都湾には奇妙な光景が生まれた。


 伝統の第一艦隊。敗残兵を核とする直営艦隊。そしてサン=ヴァラン一門の武装艦、四十余。三つを合わせて、人はいつからか、連合艦隊と呼び始めた。数の上では、帝国海軍は南の若い海軍を、いまや圧倒する。整備兵、造船工、港湾の補助要員まで数えれば、その人員は膨れに膨れ——陸軍に対する海軍の比重は、帝国史上、例のない水準に達しつつあった。


 人が集まる場所には、力が生まれる。


 そして、いまの帝都でその力は、奇妙な位置に立っていた。皇帝は眠り、総帥は宙吊りにされ、陸軍は静かな動揺の中にある。——そこへ、誰の派閥にも属さず、金と艦と人望を備えた第三の極が、湾の上に静かに育っている。宰相府の窓から、それがどう見えるか。


 その週の終わり、宰相府の最奥で、オーギュスト・ド・レオニエは書記官長ひとりを残して人払いをし、ある布告の起草を命じた。


 表題を読んだ書記官長は、生涯で初めて、宰相の指示を二度、聞き返したという。


 ——それが何であったかは、次に語らねばならない。

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