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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第四章「盛者必衰」

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第63話「帆柱の森」

 着任の前夜、エティエンヌ・ラ=マリニエールは、海軍省の現況綴りを一晩かけて読んだ。


 最初の頁に、帝国海軍の全容があった。すなわち——第一艦隊。


 それで、終わりだった。


 第二艦隊の欄には、几帳面な官僚の字で、こうあった。「所在、東方。状態、照会中」。照会中、と提督は声に出して読み、それから独りで、短く笑った。三十年海軍にいれば、この四文字の意味は分かる。還ってこない、という意味である。


 実情は、綴りの外にある。第二艦隊は東方属国監視の艦隊として、母港も、修理の工廠も、水も食も炭も、二十年、ラ=フェオの土地に置いてきた。ヤシマ戦役で傷ついた艦は、ラ=フェオの船渠で直された。乗員の補充は、東方の湊の男たちで埋められてきた。艦隊は帝国の旗を掲げたまま、根と幹と枝を、すっかり東の土に張ってしまっていたのである。


 そこへ、ラ=フェオ独立の風聞である。


 旗だけが、帝国のものだった。その旗も、独立の布告と同時に、おそらく静かに降ろされる。砲声は一発も要らない。第二艦隊は、失われるのではない。居場所の側が、国ごと変わるのだ。帝都の官僚はそれを「照会中」と書くしかなく、そして照会の返事は、永遠に来ない。


 ——このことを、エティエンヌは、書類で知っているのではなかった。


 あの艦隊の一部を、率いていたのは、自分である。


 ヤシマ戦役。勅許の指揮権。霧の海峡の和睦。その帰投の途上で南方の敗報に接し、彼は勅許のまま艦隊の一部を率いて南下した。マレ・グラヴィスの湾で、逃げてきた帝国の敗残艦を収容し、追撃してきた敵の老練な艦隊を、殿戦で振り切った。あのとき旗艦の甲板で操舵輪を握っていた男たちの顔を、彼は一人ずつ言える。東方の湊の生まれの、よく笑う男たち。戦が終わると、彼は艦を東の母港に返し、男たちに敬礼して、そして自分だけが、また棚に上げられた。


 あの男たちは、還ってこない。彼らの家も、女房の市場も、子供の学校も、ぜんぶ、東の湊にあるのだ。旗が変わる日、彼らは裏切るのではない。ただ、家にいるだけである。それを裏切りと呼ぶ資格は、二十年、艦隊を東に置き捨ててきた帝都の側には、ない。


 つまり、帝国の海は、いま、帝都湾の第一艦隊がすべてだった。


「……道理で、私なのだな」


 異端児は綴りを閉じ、その夜は、よく眠った。


   ◇


 着任の朝、帝都湾は晴れていた。


 桟橋に、水兵たちが整列していた。動員できる全乗員——およそ七千。半年、頭のいなかった艦隊である。整列は乱れていなかったが、目が乱れていた。期待と、不信と、飢えの混ざった目である。この半年、彼らは新聞で自分たちの艦隊の悪口だけを読んできた。


 新任の司令官が桟橋に立つと、七千の目が、一斉にそれを測った。


 免職された予言者。反乱都市かぶれ。南方派遣に反対して外され、その南方派遣が予言どおり海に消えた男。ヤシマを退けて和睦をまとめ、また棚に上げられた男。——水兵というものは、新聞より正確な履歴書を、口伝えで持っているものである。


 エティエンヌは、用意された式台に、上がらなかった。


「式は、後だ」


 それが、着任の第一声だった。


「勲章の話も、訓示も、後でいい。——旗艦から順に、艦を見せろ。案内は水兵長でいい。士官は書類を持ってついてこい」


   ◇


 案内に立った旗艦の水兵長は、五十がらみの潮灼けた古株で、歩き出してすぐ、遠慮のない目で新司令官を眺めた。


「……閣下。自分は、南方派遣の、生き残りであります」


 エティエンヌは、足を止めた。


「マレ・グラヴィスまで、逃げた口か」


「はい。ぼろ船で、北へ北へと。追手の帆が水平線に立ったとき、艦長は降伏旗の支度を命じました。——そこへ、湾口に、貴艦隊が現れた。閣下の旗艦は、自分らを湾の奥へ入れて、ご自身が追手の正面に、立たれた」


「殿は、艦隊で一番頑丈な艦の仕事だ。それだけのことだ」


「はい。それだけのことで、自分は、家に帰れました」


 水兵長は、それだけ言うと、あとはもう何も訊かなかった。査察の間じゅう、彼の背筋が一寸伸びたままだったことだけが、返事の続きだった。


 査察は、三日かかった。


 新司令官は、艦を、歩いた。士官の説明は半分も聞かず、自分の手で索具を握り、自分の目で帆の縫い目を検め、艦底に降りて、溜まり水の匂いを嗅いだ。砲甲板では遊底を自分で開け、火薬庫では樽の刻印を一つずつ読み、厨房では竈の火の色を見て、水兵の飯を、水兵の列に並んで食った。


「索具、三分の一が死んでいます」と、旗艦の水兵長が観念したように申告した。「換え時を、二年、超えております」


「知っている。握れば分かる」


「帆布の備蓄は、帳簿上は定数ですが……」


「実物は七割、だろう。倉の奥の梱を三つ開けた。空だった」


 水兵長は、首をすくめた。横流しの疵は、どの軍港にもある。新司令官は、しかし犯人捜しを始めなかった。代わりに、桟橋に七千を集めて、査察の結果を、兵の前で全部読み上げたのである。死んだ索具の数。空の梱の数。使える艦の数。使えない艦の数。士官たちが青ざめる横で、水兵たちの目の色が、変わっていった。悪い数字を、隠さずに全部聞かせてもらえる——それがどれほど久しぶりのことか、この半年の艦隊にいた者にしか、分かるまい。


「——以上が、我々の現在地だ」


 読み上げを終えて、エティエンヌは言った。


「ひどい数字だ。だが、絶望的ではない。私は絶望的な数字を、南方派遣のときに見た。あれと比べれば、これは直せる数字だ。半年で、外洋に出られる艦隊にする。一年で、恥ずかしくない艦隊にする。……諸君がすることは一つ。今日から、本当のことだけを報告しろ。悪い報せを持ってきた者を、私は昇進させる。良い報せの水増しを持ってきた者は、その場で降ろす。以上だ。——解散。飯にしろ」


 整列が解けたあと、桟橋のあちこちで、水兵たちが妙に晴れた顔をしているのを、士官たちは見た。


   ◇


 宰相府の「歓迎」は、五日目にあった。


 オーギュスト・ド・レオニエは、執務室の奥から、事務のような声で祝辞を述べた。復帰を喜ばしく思う。海軍の再建は帝国の急務である。ついては、貴官には実質、軍の頂に立ってもらうことになろう——恩と椅子が、絹に包んで差し出された。


「身に余ります」と、エティエンヌは型どおりに受け、それから型を外した。「ついては宰相閣下、三つ、お約束いただきたい」


「……ほう」


「一つ。艦隊人事は、海軍の内で決める。二つ。出撃の可否は、海図と兵站の数字で決める——政の日付では決めない。三つ。私への命令は、書面で頂く。口頭の命令は、聞かなかったことにいたします」


 部屋の空気が、二度ほど冷えた。オーギュストは、書類を揃える手を止めずに、静かに切り返した。


「……相変わらずだな、提督。あの街に飼われた男は、条件の付け方まで商人じみている」


「宰相閣下」


 エティエンヌは、まったく動じなかった。


「私の履歴のあの五年を、宮廷の皆様は染みと呼ばれます。結構。ですが申し上げておくと——三十年の履歴の中で、読む価値のある頁は、あの五年だけです。あの五年で私は、城壁が破れても都市が破れない理由を、内側から見ました。いずれ閣下にも、あの頁の講義が必要になる日が参りましょう。……そのときは、格安でいたします」


 オーギュストは、初めて手を止め、値踏みの目で提督を長く見た。それから、事務の声のまま、言った。


「……結構。三つとも、呑みましょう」


「ご英断です」


「ただし、提督」


 宰相は、羽根筆を、音もなく置いた。


「私は、書面を実によく書く男でしてね。三つ目の条件は、貴官が思っているより、貴官の首を絞めることになる。……楽しみにしていなさい」


「望むところです、閣下。私も、書面を実によく読む男ですので」


 使える。だが、危険だ——退出する提督の背中を見送る宰相の目には、そう書いてあった。そして提督の側も、廊下を歩きながら、まったく同じことを考えているのだった。


   ◇


 総帥府への挨拶は、最後に回した。それが礼儀だと思ったからではない。一番長居をしたかったからである。


 ゴーティエ・ド・セルヴィルは、老けていた。復帰承認の署名の主は、しかし背筋だけは伸ばして、提督を迎えた。


「……砲声の中でしか会わん男と、執務室で会うのは、妙な気分だな」


「総帥閣下。署名に、御礼を申し上げに参りました」


「礼はいらん。あれはわしの職務で——」


「閣下」


 エティエンヌは、静かに遮った。


「私は三十年、人事の紙を読んで生きてきました。あの承認が、職務の紙か、覚悟の紙かの区別は、つきます」


 ゴーティエは、しばらく黙った。それから、窓の外の帆柱の森へ目をやって、一言だけ、言った。


「——海を、頼む。陸の始末は、まだ、わしの仕事だ」


 それ以上は、何も言わなかった。提督は完全な敬礼を送り、退出した。廊下を歩きながら、彼は考えていた。あの署名の代金を、あの老人はこれから、どんな形で払わされるのか。……考えて、やめた。予言者と呼ばれることの一番の不幸は、悪い予言ほど、よく当たることである。


   ◇


 その晩、旗艦の司令官室で、エティエンヌは南方の諜報摘要を、もう一度読んだ。


 帆のない船。二本差し。同型比、二倍半。壁の上の、鈴なりの歓声。


 摘要の余白に、彼は自分の字で、短い覚え書きを足した。設計者に会ってみたいものだ——と。それから、窓の外の暗い湾を見た。半年眠っていた七千の森が、明日から、また鳴り始める。いつか、南の新しい海と、この森が出会う日が来る。そのとき自分がどちら側の水平線に立っているのか、予言者の目にも、それだけは、まだ見えなかった。

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