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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第四章「盛者必衰」

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第62話「置き土産」

 逃亡の報せが正式に「発覚」したのは、東門が閉じてから三日後のことである。


 三日、である。総帥府預かりの身柄が三日間、誰にも所在を確認されなかった——そんな杜撰が、いまの帝都にあるはずがない。あったとすれば、それは杜撰ではなく、仕事だった。誰かが書類の回付順を三日ぶん組み替え、誰かが点呼簿の写しを差し替え、誰かが厩の出納を「集計中」にしておいたのである。


 総帥ゴーティエ・ド・セルヴィルは、その誰かたちの名を、知らないことにしていた。知らないことは、守れる。それは先日、若い元帥の副官に教えた理屈でもあった。


 執務室の窓から、帝都湾が見える。第一艦隊の帆柱の森が、冬の光の中に、身動きもせず立っている。提督のいない森である。もう、半年になる。


「——総帥閣下。宰相府より、使者がお見えです」


「通せ」


 入ってきた顔を見て、ゴーティエは、内心で小さく嘆息した。


 ジュール中将である。


   ◇


「単刀直入に伺う!」と、使者は単刀直入に怒鳴った。「ジャン=リシュアン・ドゥラクロワの所在について、総帥府の説明を求める! 査問中の身柄が消えるなど、前代未聞である!」


「消えてはおらん」と、ゴーティエは静かに言った。「総帥府預かりの身柄は、軍規に基づき、保護観察下にある」


「ほ……保護観察? では、どこに」


「所在は、軍機だ」


「ぐ、軍機……! な、ならば、観察の内容を伺おう! 何を、観察しておられるのか!」


「動静を」


「動静とは、何か!」


「観察中の身柄の動静を、観察しておる」と、ゴーティエは、心底どうでもよさそうに言った。「中将。軍機というのはな、問いを重ねるほど、答えが短くなる仕組みになっておるのだ。次の答えは二文字だぞ」


 ジュールの顔が、赤くなったり白くなったりした。彼の後ろに控えた宰相府の官吏が、素早く帳面に何かを書き付ける。ゴーティエは、その筆の動きの方を、ジュールの顔より注意深く見ていた。あちらが、本物の使者である。


「で、では、これはどう説明されるか!」


 ジュールが、勝ち誇って書付を突き付けた。


「東方軍道、第三検問所の通過記録! 総帥府発行の通行許可証を持った一団が、あの夜、東へ抜けている!」


「総帥府は年に四百枚からの通行証を発行しておる」と、ゴーティエは眉も動かさなかった。「番号を、言ってみよ」


「ば、番号は——その、検問所の控えが……」


「控えが?」


「……か、火災で、失われて……」


「ほう。それは災難だ」


 ゴーティエの傍らで、それまで置物のように黙っていたジャン=バスティアン・ドゥラクロワ元帥が、初めて口を開いた。


「中将。老婆心から言うておくが、書類の管理はな、燃える前に写しを取るのが軍の作法だ。宰相府の皆様にも、よくお伝えしておけ」


 燃やしたのはどちらの手の者か——それを言わないまま、老元帥の目だけが、静かにそう語っていた。ジュールは何かを察したらしく、しかし何を察したのか自分でも分からぬらしく、口をぱくぱくさせた。


「そ、それでは! ご子息の逃亡について、父君としての説明を——」


「勘当した」


 バスティアンは、こともなげに言った。


「正式な手続き中だ。ドゥラクロワ家の勘当はな、中将、書式が十七種ある。家門法と軍籍法と相続法に跨がるでな。完了までは、半年かかる。……完了した暁には、あれはわしの息子ではないゆえ、説明の義理もなくなる。以上だ」


「は、半年——」


「書式が、多いのだ」


 使者は、来たときの倍の温度で帰っていった。扉が閉まると、二人の老人は、しばらく黙って茶を飲んだ。


「……十七種も、あるのか」と、ゴーティエが訊いた。


「知らん。いま作った」


   ◇


 その日の決裁箱の、いちばん下に、それはあった。


 人事承認案件、第一一九号。起案、宰相府軍務局。——予備役海軍大将エティエンヌ・ラ=マリニエールの、現役復帰について。


 ゴーティエは、その一枚を、長いこと見ていた。それから、バスティアンに滑らせた。老元帥は一読して、唸った。


「……来たか」


「来た」


「罠だぞ、ゴーティエ。起案が宰相府だ。あの男を現役に戻し、海軍の再建を任せ、恩を売り、独裁の看板に据える。『帝国軍は健在なり』のな。……承認すれば、おぬしは宰相に海軍を進呈することになる」


「では、否決するか」


 ゴーティエは、窓の外の帆柱の森を、顎で示した。


「見ろ、バスティアン。あれが帝国海軍の全部だ。メルヴィルは湾に沈んだ。南方派遣艦隊は消えた。残った第一艦隊に、艦はあっても、預けられる頭がない。ヤシマは東でまた騒ぐ。ラ=フェオがどう転ぶかは、おぬしも聞いておろう。……そして、南だ」


 ゴーティエは、決裁箱の脇から、諜報の摘要を一枚抜いて、卓に置いた。


「先月、南の湾で試験航海があった。帆のない船だ。マストは信号檣が一本、煙突が一本。巡航は蒸気、戦闘機動に入ると——同型フリゲート比較で、二倍半で走ったそうだ。壁の上の見物人が、鈴なりで歓声を上げたともある」


「……二倍半」


「うちの水兵が湾で追いかけ回された、あの『帆のない船』の一本槍とも違う。二本差しだ。石炭で歩き、精霊で駆ける。あちらは、もう次の海を造り始めておる。こちらは、提督のいない森を眺めて半年だ。……この状況で否決すれば、わしは帝国から海を捨てることになる。宰相に海軍を渡すのが罠なら、海軍を殺すのは、罪だ」


「取り込まれん保証が、どこにある。あの男とて人だ。免職された身を拾われれば、恩義も湧こう」


「あの男を、知っておるか」


 ゴーティエは、古い人事記録の綴りを開いた。ラ=マリニエール。十六歳、見習士官として第一次攻防戦に従軍、捕虜。宣誓捕虜として敵市内に五年。帰還後、実力のみで大将まで。南方派遣に反対して免職。予備役。ヤシマ戦役で勅許により再登用、和睦の立役者。そして——再び、棚に上げられた。


「この経歴を見て、何か気づかんか」


「……出世と左遷が、交互に来ておるな」


「そうだ。正しいことを言うたびに干され、事態が正しさに追いつくたびに呼び戻される。三十年、その繰り返しだ。それでもあの男は、一度も、言うことを変えなかった。……バスティアン。恩義で転ぶ男は、最初の左遷で転んでおるよ。あれは誰の道具にもならん。海の道具にしか、ならん男だ」


 バスティアンは、腕を組んで、長いこと天井を睨んだ。


「……仮に、だ。仮にあの男が転ばんとして、宰相の思惑どおり『実質上の軍最高司令官』に据えられたとする。軍の頂に、宰相の指名した男が座る。それは体制の完成ではないのか」


「完成に見えるだろうな。あの男が正しくあり続ける限り、体制の中に、正しさが一本、通ってしまうのだからな」


 ゴーティエは、そこで、ふっと目を細めた。


「……なあ、バスティアン。この起案な。宰相府軍務局の筆だが、筋書きに、覚えのある匂いがする」


「匂い?」


「東方の匂いだ。庭いじりの好きな、老人の匂い」


 バスティアンが、目を見開いた。ゴーティエは、綴りを閉じた。


「『東方は人が足りん』と言って預かった男を、皇帝が眠り、わしの首が半分飛びかけた、まさにこの月に返してくる。……偶然なら、天の配剤。仕組んだなら、わしの師匠だ。どちらでも、やることは変わらん」


 彼は筆を取り、承認欄に、署名した。迷いのない、大きな署名だった。


「わしの署名は、高くつくそうだ。宰相どのが、そう言うておった。——ならば、高いものから先に、買っておくとしよう」


   ◇


 署名を終えた総帥は、窓辺に立った。


 自分に残された時間を、彼は正確に測っている。皇帝は目覚めず、官房は半分敵に入れ替わり、査問会の署名の貸しは、いずれ必ず取り立てに来る。総帥ゴーティエ・ド・セルヴィルの帳簿は、遠からず閉じられる。それは、いい。五十年、負け続けた男の帳簿だ。閉じ方くらいは、自分で選ぶ。


 だから、いまのうちに、置いていくのだ。


 東へ、一人。ラ=フェオの庭に、出来の悪くない弟子の、さらに出来のいい世代を一人。そして海へ、一人。あの帆柱の森に、三十年言うことを変えなかった男を、一人。


 誰が拾うかは、知らん。だが、置いたものは、いつか誰かが拾う。それが、置き土産というものである。


「……バスティアン」


「なんだ」


「次の茶は、少し良い葉にしよう。買えるうちにな」


 老元帥は、返事の代わりに、鼻で笑った。窓の外で、提督のいない帆柱の森が、あと数日で終わる静けさの中に、立っていた。

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