第61話「テオドール行進曲」
復興記念公開演奏会の当日、大学校音楽院の大ホールは、開場一刻前に満席が確定した。
入りきれなかった人々のために、商会は急遽、ホール前の広場に楽の音を通す大窓を全部開け放ち、広場には立ち見が——警備のロス少将の概算で、六千。ホールの千二百と合わせ、街の十人に一人が、その場にいた勘定になる。屋根の上は例によって子供たちの桟敷で、菓子売りの親父は、開演前に売り切れて店じまいした。
舞台の中央には、黒檀のガイストフリューゲル。
二十年ぶりに公の場に出た禁忌の楽器を、聴衆は、遠くからでも一目見ようと首を伸ばした。演目は市民楽団と軍楽隊の合同で進み、前半の締めには、バルタザール老教授が登壇して大公国楽派の古典を弾いた。楽式の巨匠の、一分の隙もない演奏である。拍手は、丁重で、長かった。
そして、休憩を挟んで、最後の演目になった。
指揮台に、カスパーが立った。父より頭一つ若い礼服は、袖が少し余っていた。父の若い頃のものだと、あとで聞いた。
新曲。曲名は、伏せられている。
テオドールは、言われたとおり最前列にいた。隣にアルモナ。彼女は大公になってからも、こういう席には救護院のときの顔で座る。反対側にライネル、後ろの列にグレムとフリード。嫌な予感が、開演からずっと、拭えなかった。
棒が、上がった。
曲は、静かに始まった。
最初にあったのは、旋律ではない。拍子木である。壁の見張りの、あの間隔。低弦がその下に、地鳴りのように入る——聴衆の何割かが、その時点で居住まいを正した。体が覚えている音だった。砲声の来る前の、あの夜の音だった。
そこへ角笛が、点呼の呼びかけの音形を吹いた。
誰かの名を呼ぶ形の、二音。すると木管が、答えるのである。はい、ここに、の三音で。呼びかけと応答が折り重なってうねりになり、うねりの中から、行進の主題が立ち上がった。
半拍、揃いすぎていない行進だった。
教練の行進曲は機械のように拍を刻むが、この曲は違った。元パン屋と元石工と新兵と老兵が混ざって歩く、生活の足音の行進である。ずれて、混ざって、それでも同じ方向へ進む。客席の兵たちが膝で拍を取り始め、広場から手拍子が入り、ホールの床が、静かに揺れ始めた。
中間部で、曲は、一度止まった。
ガイストフリューゲルの、独奏である。
弾き手は——バルタザール老だった。前半で退いたはずの老教授が、袖から戻り、息子の指揮の下に、鍵盤へ着いたのである。会場のどこかで、音楽院の学生が息を呑む音がした。楽式の巨匠が、俗曲と呼んだ息子の曲を、弾く。
流れ出したのは、点呼の音形だった。だが今度は、応答がない。
呼びかけの二音。沈黙。呼びかけ。沈黙。精霊銀の共鳴板が、老いた奏者の血に応えて、沈黙のたびに、あるかなきかの倍音を長く長く曳いた。まるで、呼ばれた者の残響だけが、答えているようだった。七千の会場が、水を打ったように静まった。誰もが、応答のない名前を、それぞれに持っていた。
テオドールの隣で、アルモナが、そっと目元を押さえた。後ろの列では、グレムが——声を殺すという発想がそもそもない巨漢が、堂々と洟をすすった。誰も笑わなかった。
沈黙の底から、角笛が、もう一度だけ、呼んだ。
そのとき——広場から、堪えきれなかった兵たちの声が、本物の応答を返したのである。はい、ここに。はい、ここに。楽譜にない合唱だった。ホールの中の兵が続き、市場の職人たちが続いた。カスパーは指揮棒を止めず、振り向きもせず、ただ左手で、窓の外の広場を——楽器の半分を、そっと迎え入れる仕草をした。
行進の主題が、戻ってきた。
今度は全楽器と、ガイストフリューゲルと、七千の手拍子と、屋根の上の子供の口笛と一緒にである。ずれて、混ざって、同じ方向へ。曲は最後に、点呼の呼びかけと応答を全員で三度繰り返して——終わった。
拍手が鳴りやむまでの間に、カスパーは客席へ向き直り、声を張った。
「——本日の新曲を、献呈させていただきます! この曲は、壁の上の半年の、音の記録から作りました! 僕が採ったのは全部、一人の指揮官の軍の音でした! よって曲名は——」
やめろ、と口が動いた。遅かった。
「——『テオドール行進曲』!」
ホールと広場が、同時に、爆発した。
◇
「取り消してもらえ」
終演後の控えの間で、テオドールは開口一番、そう言った。
「無理よ」と、アルモナが涼しい顔で言った。「七千人が曲名ごと覚えたもの。いまごろ広場で口笛になってるわ」
「なぜ僕の名前なんだ。曲はみんなの音でできてるんだ。アードラスヴェーア行進曲でいい。壁の行進曲でも——」
「大将殿」と、カスパーが、少しも悪びれずに言った。「音の帳簿を採っていて、一つだけ、どうしても分からないことがあったんです。あの半年、ばらばらの音たちが、なぜ同じ方向へ進めたのか。パン屋の足音と石工の足音は、本来、揃わない。揃わないのに、進めた。……その『進めた理由』に名前を付けるなら、僕の帳簿では、あなたの名前になる。これは敬意というより、記録の正確さの問題でして」
「記録の正確さ」
「僕は作曲家である前に、記録者ですので」
ぐうの音も出なかった。ライネルが横で吹き出し、クルーガーが戸口から「軍楽隊がもう写譜を始めとりますぞ」と追い打ちをかけた。
「あ、それから」と、アルモナが手を挙げた。「カスパーさん。次のご注文、いいかしら。——円舞曲を、書いてくださらない? 近いうちに、踊る用事が、できる予定なの」
彼女はそう言って、隣の婚約者に、にっこり笑いかけた。カスパーは事情を知らぬまま目を輝かせ、帳面を出した。
「承ります。ついては取材を——お二人の足音を、採らせていただいても?」
「僕の足音は、もういいだろう」
「いえ、大将。行進の足音と、踊りの足音は、別の帳簿ですので」
◇
その晩、音楽院の研究室で、親子は二人きりで、遅い茶を飲んだ。
どちらも、演奏会の話をしなかった。皿が空く頃になって、老教授が、窓の外を見たまま、ぼそりと言った。
「……主題労作が、なっとらん。再現部の和声も、荒い」
「————」
「だが」
バルタザールは、そこで初めて、息子の方を向いた。
「楽式は、あとから生まれるものだ。最初の収穫の歌にも、楽式はなかった。誰かが世間の音を写して、百年かけて、額縁ができた。……お前のあれは、その、最初の方の仕事だ。悪くない。——悪く、なかった」
カスパーは、茶碗を持ったまま、しばらく動けなかった。二十四年間、一度も貰ったことのない言葉だった。何か言おうとして声にならず、結局、若者は立ち上がって、ホールへ降りて行った。ガイストフリューゲルの調律を、しに行ったのである。狂ってもいない弦を、夜中まで。
◇
曲は、翌日には広場の口笛になった。
三日目に、商会系列の印刷所から楽譜が出た。五日目には海賊版の楽譜が出回り、レオンハルトはそれを取り締まらなかった。「信用の広告費だ。刷らせておけ」。十日で、ヴェルダ川の船頭の艪唄に化け、リヒテンフェルデの復興の槌がこの曲の拍子で振られ、ひと月後には東方軍道の隊商が口ずさんでいた。
——そしてこの行進曲が、やがて条約線を越え、あろうことか帝国の兵営で密かに口笛に吹かれ、宰相府が「敵性音楽禁止令」という大陸戦史上もっとも無力な禁令を出す羽目になるのは、もう少しだけ、先の話である。二十年前、帝国は精霊の楽器を禁じた。だが楽器は禁じられても——歌は、禁じられないのだ。
禁じられた歌ほど、よく歩く。それを、この曲はこれから、証明していくことになる。




