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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第四章「盛者必衰」

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第60話「ガイストフリューゲル」

 アードラズベルクは、歌っている。


 戦のあいだは、誰もそれに構う余裕がなかった。だが休戦から半年あまり、この街の楽の音は、もう誰にも聞き逃せないものになっていた。広場の公開演奏会には仕事帰りの職人が立ち見の列を作り、市民楽団は数えて五つに増え、大学校の音楽院は、志願者が門の外まで並ぶ。『アードラズベルク・モルゲンクラング』の世相欄は、この熱気に、少し大げさな名前を付けた。


 ——管弦楽革命、と。


 テオドールも、通勤の道で毎朝それを浴びる。市庁舎への近道の路地には市民楽団の稽古場があり、朝は決まって金管の音階が漏れてくる。市場では、魚屋の女将が仕入れ歌を勝手に二部合唱にし、G787工房の槌の三連符が、それに伴奏を付ける。戦のあと、街には音の空白ができるものだと、教範のどこかで読んだ気がする。この街は、逆だった。空白を全部、音で埋めにかかっていた。


 その革命の中心に、一台の楽器がある。


 ガイストフリューゲル。精霊術共鳴ピアノ——弦の下に精霊銀の共鳴板を張り、奏者の精霊素養にわずかに応えて、倍音の色が変わる。同じ譜面を弾いても、弾く者の血と心持ちで、音が違う。大公国楽派が生んだ至宝であり、だからこそ帝国は、二十年前にこれを禁忌の楽器に指定した。精霊術の禁忌と、同じ理屈で、である。現存するものは大陸に数台。うち一台は音楽院の奥に生き延び——そしてもう一台が、ファルケンハイン商会の倉庫の奥に、荷札も付けられぬまま、二十年、眠っていた。


   ◇


「——で、その眠り姫を、起こすことにした」


 商会本館の応接室で、レオンハルトはそう言った。


 テオドールは、即位式から戻ったばかりだった。第二軍団の編成事務が山積みで、正直、音楽の話をしている暇はない。それが顔に出ていたのだろう、兄はモノクルの奥で、じろりと弟を見た。


「暇はない、という顔だな。……いいか、テオドール。壁と堀と鉄道の話は、もう済んだ。だがな、国というものは、石と鉄だけでは建たん。歌のない国は、旗のない軍と同じだ。形はあっても、誰も命を預けん」


「兄上が音楽の後援とは、珍しいですね。帳簿に載らないものは信じない人だと」


「載るとも。信用、という科目にな」


 兄は、修復工事の指図書を卓に広げた。倉庫のガイストフリューゲルを蘇らせ、音楽院に寄贈する。あわせて商会後援の復興記念公開演奏会を打つ——という段取りである。


「問題は、共鳴板だった。精霊銀の板が湿気で死んでおってな。張り替えの技術は、大陸のどこにも残っていない——と、思っておった」


「あった、のですか」


「灯台下暗しよ。……ノーラの工房だ」


 テオドールは、目を見張った。G787の、精霊合金裏張りの——銃身の内側に合金を焼き付ける、あの技術である。


「銃身に張れる合金が、共鳴板に張れん道理はない、とノーラ翁は言うてな。三月かけて、張った。試しに鳴らした職人が、泣いた。……銃を作った手が、楽器を直した。わしはこの話を、金を払ってでも新聞に書かせるぞ。信用とは、こういう記事のことだ」


「……それで、僕は何を」


「演奏会の目玉を書く男が、おまえに会いたがっておる」


   ◇


 大学校の音楽院は、戦火を免れた古い翼棟にある。


 その一室——譜面と珈琲茶碗の散乱する作曲科の研究室で、テオドールは父子と向き合った。


 ヴァントリース父子。父のバルタザールは音楽院作曲科の老教授で、大公国楽派の楽式を継ぐ、いわば書法の巨匠である。門下から市民楽団の楽長が三人出ている。息子のカスパーは二十四歳、音楽院を出たあと父の椅子を継がず、市民楽団の練習指揮と酒場の編曲仕事で食っている新進作曲家——と、ここまでは、事前にライネルが調べてくれたとおりだった。


 バルタザールには、この街の音楽家なら誰でも知っている、有名な逸話がある。


 特例区の二十年、ガイストフリューゲルは条約の灰色地帯にあった。壊せとは書かれていないが、鳴らせば帝国の監察官が飛んでくる。音楽院は一台を奥の間に匿い、鍵を掛けた。そのあいだ老教授は、作曲科の学生たちに、音の出ない鍵盤で教え続けたのである。板に鍵盤の絵を描いただけの、無音の楽器。学生が「先生、これでは音が分かりません」とこぼすと、彼はこう返した。


「音は、頭の中で鳴らせ。指は、その日のために作っておけ。——楽器はいつか、帰ってくる」


 二十年、その板は擦り切れるたびに描き直され、門下からは三人の楽長が出た。全員、頭の中で鳴らして育った楽長である。


 調べになかったのは、親子の仲である。


「倅の書くものは、音楽ではありません」と、老教授は挨拶より先に言った。「楽式がない。主題労作がない。あるのは世間の物真似だけです」


「父の書くものは、額縁です」と、息子も負けずに言った。「立派な額縁。中の絵は、百年前に描き終わっている」


 テオドールは、席を立つべきか、真剣に考えた。


 だが、カスパーが革鞄から取り出した帳面の束が、彼を椅子に留めた。譜面——しかし曲ではない。頁の端に几帳面な字で、日付と場所。防壁三区、朝。市場通り、正午。練兵場、夕。


「音の帳簿です」と、カスパーは言った。「僕は戦の間じゅう、この街の音を採っていました。一番多く採ったのは——あなたの軍の音です。点呼の、呼ぶ声と答える声の間隔。行軍の足音——アードラスヴェーアの行軍は、他所の軍と拍が違うのを、ご存知でしたか。半拍、揃いすぎていない。元パン屋と元石工と新兵と老兵が混ざって歩く、生活の足音がまだ残っている。それから、鍛冶場の槌。G787の銃身を絞る槌は三連符を打って、工房が並ぶと輪唱になる」


 テオドールは、譜面の束から目を上げられなかった。自分たちが必死で生きていた半年を、まったく別の耳が、一音も取りこぼすまいとして聴いていた。死者の名を借方に書く帳簿なら、自分も持っている。これは——生きて立てた音を、ぜんぶ貸方に書いた帳簿だった。


「演奏会のために、これを一つの曲にします。管弦と、修復されたガイストフリューゲルのための、行進曲を」


「行進曲」と、老教授が鼻を鳴らした。「広場向けの俗曲を、由緒ある楽器の披露目に」


「父さん。その由緒ある楽器は、二十年、誰の音を鳴らしてた? 倉庫の埃の音か?」


 険悪になりかけた親子の間に、テオドールは慌てて割って入り、当たり障りのない質問をした。それで、あなたは僕に何の用が——


「ああ、そうでした」


 カスパーは、初めて、悪戯を企む子供の顔になった。


「完成した曲は、ある方に献呈します。演奏会の当日、舞台の上で発表しますので——大将は、必ず、最前列にいてください。理由は、秘密です」


   ◇


 帰り道、テオドールは商会の倉庫に寄って、修復の済んだガイストフリューゲルを見た。


 黒檀の艶の中に、精霊銀の共鳴板が、ほのかに月の色で透けている。ノーラ翁の職人が、銃身に刻むのと同じ番号を、目立たぬ内側に刻印していた。工房の流儀である。作ったものには、番号を。直したものにも、番号を。


 鍵盤に、指一本で触れてみた。


 音が、鳴った。ただの一音なのに、その音は、彼の中の何かに、かすかに応えた。エルヴァの血に、精霊銀が共鳴したのである。禁忌とは、これのことか、とテオドールは思った。帝国が二十年恐れてきたのは、要するに——血が、音になることだった。


 背後で、レオンハルトの声がした。


「……分かるか、テオドール。あの老教授は二十年、音の出ない板で指を作らせてきた。ノーラの爺さんは二十年、銃身の内側を磨いてきた。二人とも、帰ってくる日のための仕事を、帰ってくる保証もなしに続けた口だ。わしはな、ああいう帳簿の付け方をする人間にだけは、いくらでも金を出す」


「兄上の帳簿には、そういう科目もあるのですね」


「あるとも。……期日なし、担保なし、回収先は次の世代。商人が一生に幾つも持てん科目だ。だから、間違えんように選ぶのよ」

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