第59話「教範の一頁目」
最初の追手は、帝都を出て三日目の夜に来た。
「——来ます。蹄、十五」
先に気づいたのは、カミーユだった。街道の石畳に耳を寄せ、指を折る。「十五。替え馬なし。憲兵の馬装じゃない。私兵ね」
「切通しへ」と、ジャン=リシュアンは即座に言った。半日前に通った地形が、頭の中の地図に残っている。「街道が岩の間で三馬身に狭まる。あそこなら、十五は三にしかならない」
数を、地形で殺す。それが自分にできる唯一の戦いだと、若い元元帥は知っていた。剣は——正直、駄目なのである。幼年学校の剣術教官は、彼の成績表にただ一言、「作戦で解決すべし」と書いた。
切通しに、月が差していた。誰も、馬を降りない。降りる理由がなかった——八騎の逃避行にとって、馬こそが城壁だった。
ラヴァル大尉は、腰の剣を抜いた。
グラディウス。両刃、刃渡り三尺弱。帝国の兵なら誰もが最初に握らされる、なんの飾りもない制式の剣である。大尉はそれを、教範の一頁目に載っている構えに、ただ、置いた。
「二騎一組で、抜けてきた者を。控えは一騎。閣下とご婦人は、切通しの奥へ。——入口は、自分が塞ぎます」
「一人でか」と、ジャン=リシュアンは思わず訊いた。
「岩の間は三馬身。一度に来られるのは、どうせ一騎か二騎です。……なら、数は、関係ありません」
追手が、雪崩れ込んできた。
最初の一騎の斬撃は、上段から来た。速く、重く——そして、教範どおりの受け流しに、逸らされた。逸れた敵の脇腹へ、教範どおりの突きが、一つ。それだけで、一騎目は鞍から消えた。二騎目は下段から掬い上げてきた。半歩の馬体さばきで外して、突き。三騎目は二騎目の陰から槍——柄を叩き落として、突き。
派手さは、何一つなかった。受けて、外して、突く。新兵が最初に習う三つの動きが、ただ、恐ろしく正確で、恐ろしく速いだけだった。抜けた敵は二騎一組の部下が仕留め、入口では同じ三つの動きが、同じ精度で、繰り返され続けた。
一度だけ、それが途切れた。
追手の中に、一人だけ、格の違う剣士がいたのである。馬上で舞うような剣——貴族の決闘剣、第Ⅲ式の相当な遣い手。虚実を織り交ぜた三連の変化が、月明かりの中で花のように開いた。技として、その場の誰より、間違いなく華麗だった。
ラヴァルは、その花に、一切付き合わなかった。
最初に習う受け。次に習う受け。その二つだけで、咲き乱れる変化の中の「本物の一本」だけを、順番に受け続けた。三合、五合、八合——決闘剣士の呼吸が、先に上がった。焦れて、剣先の型が、指の幅の半分だけ、崩れた。
教範一頁目の突きが、その半分の隙間に、正確に入った。
「……基本しか、使っておりません」と、ラヴァルは息も乱さず言った。「基本は、練習した分だけ、裏切りません。英雄の剣は、真似できませんが——基本なら、平民でも、二十年、磨けますので」
四半刻ののち、追手は七つの鞍を空にして、退いた。ラヴァル隊は軽傷二名、馬の損耗、なし。
「……見事なものだ」と、ジャン=リシュアンは心から言った。「Ⅰ式の境地というものを、初めて見た。教範の一頁目が、一番深い頁だったとは」
「皆さん、二頁目からを、お急ぎになりますので」と、ラヴァルは剣を鞘に戻しながら答えた。「自分は一頁目の途中で、二十年、止まっているだけであります」
岩陰から出てきたカミーユが、婚約者の腰の剣を、ちらりと見た。
「……あなた、それ、抜く必要あった?」
「気持ちの問題だ」
◇
国境まで、あと半日——東方軍道が丘陵に差しかかった朝、それは来た。
待ち伏せである。
丘の鞍部を越えた、その先に——銃列が、できていた。
道を塞いで二列横隊、およそ五十挺。すでに膝をつき、すでに構え、すでに狙点をこちらの胸の高さに合わせて、待っていた。丘の両肩には騎兵三十余が、袋の口を縛る形に展開を終えている。今度は私兵ではない。宰相府が抱える元軍人の手練——追われていたのではない。誘い込まれていたのだ。
「——止まれえっ!」
ラヴァルの号令で八騎が手綱を絞ったとき、彼我の距離は二百歩を切っていた。騎兵にとって、最悪の距離である。突っ込めば、届く前に二斉射を浴びる。退けば、背中に一斉射と、丘の騎兵の追撃。地形は開けた鞍部。盾になる岩も、数を殺す狭さも、どこにもない。
ジャン=リシュアンは、頭の中の地図を三度めくって、三度とも、同じ答えに行き着いた。
——道が、ない。
沈黙は、数拍だった。それで、全員に伝わった。八人の元南方兵は、誰も何も言わず、ただ馬上で、静かに姿勢を正した。死は、南方で何度も隣にいた。久しぶりだな、という顔を、彼らはしていた。
「閣下」と、ラヴァルが、恐ろしく平坦な声で言った。「我々八騎で、銃列の右端に突っ込みます。最初の斉射は、我々が全部もらう。煙が上がったら、お二人は左の窪地へ。馬を潰すつもりで駆ければ、あるいは——」
「却下だ」
「閣下」
「却下だと、言った。君たちの命で私が生き延びる作戦は、私の頭の中に、存在しない」
「……では、閣下」
ラヴァルは、初めて、少しだけ笑った。
「作戦で、解決してください。教官殿の成績表どおりに」
銃列の指揮官が、剣を、上げた。
ジャン=リシュアンは、カミーユの頭を胸に抱き込み、その体を自分の外套で覆った。作戦は、なかった。頭の中の地図のどこにも、道がなかった。ただ、この人の耳に銃声を聞かせる順番が、自分の体より後であればいい——考えられるのは、もう、それだけだった。
「……ねえ」と、外套の中で、くぐもった声がした。「柱、数えた?」
「ここには、柱がない」
「じゃあ、私が柱ね。一本きりの」
剣が、振り下ろされ——
斉射は、来なかった。
代わりに来たのは、地鳴りだった。
丘の東の稜線に、旗が立った。見慣れた——そして、ここにあるはずのない旗。帝国近衛の槍旗、その意匠から帝国の紋章だけを外した、白地の旗である。騎兵およそ二十、稜線から一気に丘を下り、槍を揃えて、待ち伏せの騎兵の横腹に突っ込んだ。
先頭の槍騎兵が、すれ違いざまに敵の指揮官を鞍から突き落とし、そのまま銃列を蹴散らして、円陣の前で馬首を返した。日に焼けた顔に、古い矜持が笑っていた。
「帝国近衛騎士団——であったものだ! ギヨーム・ド・シャルネ、元・近衛第一大隊旗手! ローレンツ様の言い付けにより、お迎えに上がった!」
「……迎え?」と、ラヴァルが呆然と言った。「なぜ、我々がここにいると」
「元首閣下が仰った。『あの宰相が先回りを思いつく場所は、三つある。三つとも見張っておけ』——とな! ここは、二つ目だった!」
◇
ラ=フェオの州都は、タシュガラという。
隊商の古い言葉で「石の泉」を意味するのだと、ギヨームが道々教えてくれた。丘の上の街に近づくと、まず音が変わった。三つの言語の呼び売り。火の礼拝堂の鐘と、精霊の祠の風鈴が、同じ通りで鳴っている。市場には東方の香辛料とヤシマ渡りの漆器が並び、その隣で、見覚えのある型の男たちが——背筋だけで元軍人と分かる男たちが、荷運びや店番をしていた。帝国が捨てた男たちが、ここでは、街の景色になっていた。
元首府は、宮殿ではなかった。古い隊商宿を改めた、風通しのいい建物である。その奥の、書物だらけの一室で、ラウル・ド・フォークレランは、二人を待っていた。
老いていた。だが、目は老いていなかった。
ジャン=リシュアンは、一礼し、懐から書状を出した。
「総帥ゴーティエ閣下より、預かって参りました」
ラウルは、封を検め、老眼鏡をかけ、ゆっくりと読んだ。三枚の便箋を、二度読んだ。読み終えて、老人は、笑うのと泣くのの、ちょうど中間の顔をした。
「……あの弟子が、五十年仕えて、初めてわしに借りを申し込んできおった。内容は、一行だ。『この二人を、頼みます』。それだけの用件に、便箋が三枚。あとの二枚半は、全部、詫びだ。……守ってやれなんだ、と。総帥の座にありながら、と。あれは昔から、そういう男だ」
老人は書状を丁寧に畳み、抽斗ではなく、胸の内隠しにしまった。
「よく来た、ドゥラクロワの倅。それと——」と、カミーユへ目を移し、「大陸で一番暇な釣り人が、湖で待っておるぞ。先客とは、話が合うだろう」
◇
その夜、元首府の一室で、ラウルは今後を語った。飾らない、帳簿のような語り口だった。
「独立の布告は、二月のうちに出す。帝国は討伐軍を寄越すだろう。だが、すぐには来られん。西でヴェストマルクと睨み合い、南でおぬしらの旧主と睨み合い、海の主力はもうない。……時間は、こちらの味方だ。その時間で、国の形を作る。人はいる。帝国が捨ててくれた、上物の人がな」
それから老人は、少しだけ、声の調子を変えた。
「ただな、若いの。一つだけ、時間が味方をしてくれんものがある。——わしだ。わしは、長くない」
「閣下——」
「医者の顔をするな。事実の話だ」と、ラウルは笑った。「国というものはな、建てるより、譲る方が難しい。帝国を見ろ。あの国は五十年、譲り方を考えんかった。だからいま、眠った皇帝の周りで、譲られてもおらん男が帳簿を書き換えておる。……わしはこの独立国の頭を、いつか、誰かに譲らねばならん。頭というものは、譲る先を探し始めた日から、本当の仕事が始まるのだ」
老人の目が、ほんの一瞬、卓の向こうの若者の上に、止まった。値踏みではなかった。もっと静かな、種を蒔く者の目だった。ジャン=リシュアンは、その視線の意味を、問わなかった。問うべき夜では、まだ、なかった。
「——最後に、一つ、教えておこう」
ラウルは、葡萄酒を二つ注いだ。
「おぬしら、ラ=マリニエールが帝都に『召喚された』と聞いてきたろう」
「はい。取り込むか、斬るか、と」
「どちらでもない」
老人は、盃を掲げて、こともなげに言った。
「わしが、返したのだ」
ジャン=リシュアンは、盃を持つ手を止めた。
「考えてもみよ。オーギュストに、軍を動かす権限はない。名誉元帥とは、称号であって、統帥ではない。皇帝は眠り、ゴーティエは遠からず職を追われる。陸には、まだバスティアンがおる——だが、海には、誰もおらん。メルヴィルは湾に沈み、南方派遣艦隊は消え、残るは帝都湾の第一艦隊ただ一つ。そして帝国広しといえど、あの第一艦隊を預けられる提督は、もう、一人しか残っておらんのだ」
「……ラ=マリニエール」
「そうだ。独裁者は、軍を欲しがる。欲しがれば、必ず、あの男を『実質上の軍最高司令官』として迎えるしかなくなる。取り込んだつもりで、な」
ラウルは、盃を干した。老いた顔の中で、目だけが、盤面の遥か先を見ていた。
「独裁者の帳簿の、いちばん深い行にな——わしは、正しすぎる男を一人、差し込んでおいた。あの帳簿が閉じられる日、最後の一行を書くのは、オーギュストではない」




