第58話「諮問法廷」
——歴史の話を、少しだけしておかねばならない。
いまの帝国が建つ前、この大陸には、旧王朝と呼ばれる国があった。その末期、王の傍らには、一群の高位聖職者たちがいた。彼らは、気に入らぬ者が現れるたび、こう言った。あの者は、王の御心を乱した、と。
御心を乱した者は、「諮問」にかけられた。諮問法廷——法廷と名は付くが、法はなかった。罪状は事前に示されず、弁護は許されず、答えは、問いより先に決まっていた。将軍が消えた。学者が消えた。金貸しが消え、船主が消え、王に真実を言う者から順に、消えていった。ある者は刑場で、ある者は国境の向こうで。人が出て行くたび、国は目に見えて痩せ細り——諮問法廷が動き始めてから九年で、旧王朝は、地図から消えた。
その骸の上に、いまの帝国は建てられた。だから帝国の法学者は、建国このかた、子弟にこう教えてきたのである。法の外に裁きの箱を作った国は、必ずその箱に食われて死ぬ、と。
——VC786年、冬。
名前だけを変えた同じ箱が、いま、帝都に組み上がろうとしていた。
◇
十七日。宰相府第二庁舎、大会議室。
部屋に入って、ジャン=リシュアンが最初にしたことは、柱を数えることだった。八本。婚約者の言ったとおり、数え終わる頃には、鼓動は平時に戻っていた。
馬蹄形に並んだ査問員席。宰相府から五名——その中央に、宰相オーギュスト・ド・レオニエその人が、臨席していた。名誉元帥の礼装で、である。軍務局から二名。そして証人席に、ジュール中将。書記は速記をせず、時折、思い出したように筆を動かした。議事録は、ここで書かれるのではない。あとで、作られるのだ。
問いは、三時間続いた。
なぜ独断で撤兵したのか。なぜ捕虜二千に兵糧を割いたのか。なぜ敵将と書簡を交わしたのか。なぜ敗北を「敗北」と報告書に記したのか——問いの形をした結論が、次々と積み上げられていく。ジャン=リシュアンは、その一つ一つに、日付と、数字と、命令書の写しで答えた。三時間目に、オーギュストが初めて自ら口を開いた。
「……つまり貴官は、こう言いたいのかね。責任は、貴官にはないと」
「いいえ、宰相閣下。責任の所在を、正確に申し上げたいだけです」
言ってしまった、と思ったときには、口が動いていた。三時間、積まれ続けた「問いの形をした結論」が、若い元帥の中の、何かの箍を外していた。
「南方方面軍は、教範第四巻が二十年間禁じてきた強襲を、勅命によって強要されました。起案は宰相府です。そして、その勅命の根拠となった見立て——敵城壁の損耗は限界にある——の出所は、独断の夜間強襲で八百を失い、梯子を十九本折り、城壁には傷一つ付けられなかった指揮官の、私信でした。同じ日、私は公式の報告書を総帥府へ提出しております。損害八百、戦果なし、当該指揮官の処罰を上申する、と。……宰相閣下。あの二通のうち、宰相府が読まれたのは、どちらでしたか」
「……」
「議事録に、その経緯が一行も残っていないのは、書かれる前に消されたからです。私は帳簿の付け方を、商人の街で少し学びました。消された行は、インクの染みで分かるのです」
ジュールが、椅子を鳴らして立ち上がった。何か喚いたが、ジャン=リシュアンは止まらなかった。止まれなかった。
「そして、これがいちばん申し上げにくいことですが——この査問会が探している『敗因』は、南方にはありません。開戦の日の、帝都にあります。二十年前に滅ぼした国の、生き残りを狩る戦争。特例区の条約を、こちらから破った戦争。……宰相閣下。この戦争には、最初から、大義がないのです。査問すべきは私の撤兵ではなく、開戦の帳簿です。あの帳簿の起案の署名は——どなたのものでしたか」
部屋が、凍った。
オーギュストは、怒鳴らなかった。この男は、怒鳴らない。ただ、手元の書類を静かに揃え、書記に向かって、事務のような声で言った。
「記録せよ。被査問者は査問の席上、開戦の聖断を誹謗し、帝国の大義を公然と否定した。——大逆である」
それから、扉際の衛兵へ、同じ声で。
「取り押さえよ。抵抗すれば、斬ってよい」
衛兵が動いた。剣の鯉口が鳴った。ジャン=リシュアンは、動かなかった。動けば「抵抗」になる。それがこの箱の設計であることを、彼はもう理解していた。ここは戦場ですらない。戦場なら、まだ、作法があった——
そのとき、扉が、外から開いた。
「——待たれよ」
総帥ゴーティエ・ド・セルヴィルが、側近数名を連れて、会議室に入ってきた。老いた足取りで、しかし止まらずに、衛兵と被査問者の間まで歩き、そこに、立った。
「宰相。いま、この者を斬れと命じられたか」
「総帥閣下。これは宰相府の査問の場です。ご退席を——」
「この査問会の開催形式を定めた署名は、わしのものだ」
ゴーティエは、通達の写しを卓に置いた。
「よって本会は、軍の管轄下の手続きである。そしてこの者は、いまこの瞬間も、帝国軍籍にある現役の元帥だ。……軍の管轄の場で、現役の元帥に兵刃を向ける。それは、上官に対する反逆罪、ということで、よろしいかな、宰相」
沈黙が、長かった。
部屋の中の頭数を、誰もが数えていた。宰相府の衛兵、二十余。官吏、五。対して総帥の側近は、四人だった。多勢に、無勢。ゴーティエにこの場でオーギュストを処断する力はなく、オーギュストにも、総帥と元帥を同時に「事故」にする準備は、まだなかった。二頭の獣は、互いの喉の位置だけを確かめて、牙を収めた。
「……身柄は、軍が預かる」と、ゴーティエは言った。「詳しい話は、総帥府で聞く。査問の続きが要るなら、軍法会議を請求されよ。法のある場所でなら、いつでも受けて立つ」
退出の間際、オーギュストの声が、背中に追いついてきた。事務のような、あの声のままだった。
「結構です、総帥閣下。……ですがその署名、高くつきますよ」
足が、止まった。
ゴーティエが振り返るより先に、ジャン=リシュアンが、振り返っていた。
「——宰相閣下。最後に、一つだけ」
声は、大きくなかった。だが、部屋の空気が、変わった。三時間、問いの刃を受け続けた被査問者の声では、もうなかった。二十余の衛兵が、誰に命じられたわけでもなく、半歩、退がった。
「本日この場で、あなた方がなさろうとしたのは、査問ではありません。南方二万余の兵の血の代価を、私一人の帳簿に付け替える作業です。——その全責任を押し付けられることには、納得しかねる。ですが、結構。その帳簿ごと、私が預かりましょう。開戦の大義の欠落も、艦隊を沈めた命令も、消されたインクの染みの一行一行も——全部です。私は、必ず取り立てる。この貸しの、最後の一枚まで。それまで、二度と、私の邪魔をなさらないことです」
オーギュストの、書類を揃えていた手が、初めて、止まった。
「私の家の家訓は『真っ直ぐ立て』という単純なものですが、私個人の流儀も、この際ですから申し上げておきます。——受けた借りは、必ず返す。やられたら、利子を付けて、倍にして、お返しする」
のちにラヴァルは、この瞬間のことを、幾度となく語ることになる。あのとき扉口に立っていたのは、若いだけの元帥ではなかった。もっと別の何か——皇帝と、そう呼ぶほうがふさわしい何かを、生まれて初めてまとった人だった、と。
退出した。廊下の長さが、来たときの半分に感じられた。
◇
総帥府の奥の間に、先客がいた。
カミーユである。旅装で、ジャン=リシュアンの旅嚢を膝に載せて、座っていた。
「……なぜ、君がここに」
「総帥閣下のお迎えが、朝、家に来たの。あなたが査問会に入るより、前よ」
ジャン=リシュアンは、ゴーティエを見た。老総帥は、悪びれもせずに頷いた。
「ああなることは、朝から分かっておった。おまえは正直すぎる。あの箱の中で、正直者がどこまで喋るかも、な。……時間がない。聞け」
卓の上に、二つのものが置かれた。総帥府発行の、東方軍道の通行許可証。そして、封蝋された一通の書状。
「今夜のうちに、帝都を出よ。宰相府の手の者は、査問の再開など待たん。刃の方が、書類より速い国になった。——行き先は、ラ=フェオだ。書状は、ラウル様に。わしの、師だ。……師に借りを作るのは五十年ぶりだが、まあ、あの方は喜ぶだろう。出来の悪い弟子の、最後の宛先がご自分で」
「閣下。私が逃げれば、閣下のお立場が——」
「わしの立場など、とうに詰んでおるよ」
ゴーティエは、初めて、少しだけ笑った。疲れた、優しい笑いだった。
「皆が言う。ゴーティエは優しすぎる、だから宮廷では勝てん、とな。……その通りだ。わしは五十年、その通りに負け続けてきた。だからせめて、優しさの使い道くらいは、自分で選ぶ。今日の使い道は、おまえだ。文句を言うな」
護衛の手勢は、八騎だった。廊下に整列したその先頭に、見慣れた顔がある。ラヴァル大尉。南方以来の部下、七名。全員、志願だという。
「モルネは」と、ジャン=リシュアンは訊いた。
「——知らせておりません」と、ラヴァルは目を伏せた。「総帥閣下のご指示です。あれは、嘘のつけない男です。査問の続きがあの男に及んだとき、『何も知らなかった』が真実であることだけが、あの男を守ります」
「……あとで知ったら、怒るぞ。あれは」
「はい。えらい剣幕で怒るでしょうな。規則の頁を、引きながら」
ジャン=リシュアンは、目を閉じた。法規の虫。南方の半年、彼の理詰めを最後の一行まで支えた男を、何も告げずに、置いていく。——この借りも、帳簿に載った。
◇
夜明け前の東門に、父が待っていた。
ジャン=バスティアン・ドゥラクロワ元帥は、供も連れず、外套一枚で、門の陰に立っていた。息子は馬を降り、父の前に立った。言うべきことを、昨夜から百通りも考えてきて、その全部が、消えた。
代わりに、腰の元帥杖を、鞘ごと外した。
「……父上。これを」
「————」
「宰相府に、奪わせたくありません。返上は、ドゥラクロワの手で。父上から、軍にお返しください」
老元帥は、息子の元帥杖を、両手で受け取った。受け取った手が、杖の上で、一度だけ、強く握られた。
「……わしは、残る」と、父は言った。「わしまで出れば、軍は、まるごとあの男のものになる。誰かが、背骨の残りを、支えておらねばならん」
「はい」
「リシュアン」
「はい」
「幼年学校のとき、おまえに言ったな。ドゥラクロワは帝国の背骨だと。……あれは、少し違った。訂正する」
父は、息子の両肩に手を置いた。
「背骨は、帝国のものではない。おまえのものだ。どこの国にいようと、どんな服を着ようと、真っ直ぐ立っていろ。それが果たせるなら——東だろうと、どこだろうと、行け」
それから老元帥は、一歩下がり、軍帽の庇に手を上げた。総司令官が、軍籍を追われようとしている息子に送る、完全な、教範どおりの敬礼だった。ジャン=リシュアンは、答礼した。手が、生涯で一番、重かった。
答礼の途中で、頬に、涙が伝った。
悲しいから、ではなかった。察してしまったのだ。父のこの敬礼は、「また会おう」の型ではない。旗を渡すときの——「預ける」の型だ。残って支えると言ったこの人は、支えきれない日が来ても、逃げる型を最初から持っていない。息子だけが、知っている。この父の教範には、殿の頁はあっても、退却の頁がないことを。
涙は、拭かなかった。拭けば、察したことが、父に知られてしまう。
抱擁は、なかった。ドゥラクロワの家は、そういう家である。ただ、馬上の人となった息子に、父は最後に、どうでもいい話のような声で言った。
「……庭の栗の木はな、結局、切らずに残した。虫にやられても、根が生きておれば、木は戻る。——そういうものだ」
八騎と二人は、白み始めた東の空へ、駆け出した。
帝都の門が、背後で閉じた。




