第57話「査問会という名のもの」
帝都の門は、半年前と同じ石で、別の街のように立っていた。
ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ元帥、二十三歳。南方方面軍の残務——捕虜交換の完了、駐屯地の引き継ぎ、戦没者名簿の照合、遺族への書状——その全部に署名を終えて、若き元帥は幕僚八名と共に、陸路千里を北上してきた。
隊列の先頭には、二つの顔がある。副官のセドリック・ラヴァル大尉——平民あがりの叩き上げで、戦没者名簿三万余の清書を、誰にも任せず一人で仕上げた男。そして参謀のアンリ・ド・モルネ少佐——軍法と兵站規則を頁ごと諳んじる、貴族出には珍しい生粋の実務屋である。南方の半年を最後まで付き合ったのは、この二人だった。
条約線を越えたあたりから、空気が変わった。検問が、倍に増えていた。検問に立つのが兵ではなく、宰相府の徽章を付けた官吏であることに、幕僚たちは眉をひそめた。街道の宿場では、人々が声を低くして話していた。陛下は、もう三月も玉座にお出ましにならないらしい。聖焔教会の鐘が、毎夕、平癒祈願に鳴る。鳴るたびに、街は少しずつ、静かになっていくのだった。
占領地で聞いた静けさに、似ている——と、ジャン=リシュアンは思い、その考えを、慌てて頭から追い出した。ここは帝都だ。故郷だ。凱旋、とまでは言わずとも、任務を果たした軍人が帰る場所のはずだった。
救いは、道中に、幾度もあった。
街道の畑で、鍬を握っていた男が、通り過ぎる一行に気づいて、直立した。軍人の直立だった。除隊したばかりの、南方帰りである。男は無言で、教練どおりの敬礼を送ってきた。次の村でも、その次の宿場でも、同じことが起きた。鍛冶場の前で。水車小屋の脇で。子を抱いたまま、片手だけで。——三万八千。自分が署名して、家に帰した男たちが、道の両側に、点々と立っているのだった。
「……元帥閣下」と、ラヴァルが声を詰まらせた。「これは」
「勲章だよ」と、ジャン=リシュアンは前を向いたまま言った。「宰相府には、発行できない種類のだ」
門をくぐったところで、それは待っていた。
「ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ!」
憲兵が二個小隊。その先頭に、見知った顔があった。ジュール中将。頬の傷——あの近衛司令に衆人環視で殴られた痕は、もう薄れていたが、目の中の何かは、あの日より濃くなっていた。
「宰相府令により、貴官の身柄を拘束する! 武装を解除し——」
「令状を」
ジャン=リシュアンは、馬上から静かに言った。
「拘束というからには、令状があるはずだ。宛名と、発行者と、罪状を確認したい。手続きだよ、ジュール中将。我々が蛮族でないことの、唯一の証明だ」
ジュールの顔が、朱に染まった。懐から書付を引き抜こうとした、その手が——止まった。
蹄の音である。
門の内側から、騎馬の一団が現れた。先頭の老将の胸に、元帥の徽章。手に、使い込まれた元帥杖。帝国陸軍総司令官、ジャン=バスティアン・ドゥラクロワ。
父だった。
「……令状の宛名を、読み上げてみよ、中将」と、老元帥は静かに言った。「そこには『元帥ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ』とあるはずだ。元帥の身柄を、中将が路上で縛る——帝国軍制のどこに、その条文がある」
「じ、自分は宰相府の——」
「わしは軍の総司令官だ。現役の元帥は、軍のものだ。査問の場に出頭させる義務があるなら、わしが連れて行く。……道を、開けよ」
元帥杖は、振り上げられもしなかった。ただ、そこにあった。ジュールは長い数秒ののち、歯を軋らせて馬を引いた。すれ違いざま、精一杯の捨て台詞が、降ってきた。
「い、いいか、言っておくが! 南方の敗北に、私の責任は、一切ないからな! 議事録を読め、議事録を! 私の名は、負けの側には一行も書かれておらん! ……じゅ、十七日を、楽しみにしていろ、若造!」
蹄の音が、慌ただしく遠ざかっていった。
「……あの方も、南方におられましたよね」と、ラヴァルが真顔で言った。
「いたとも」と、ジャン=リシュアンは言った。「そして、議事録に書かれる前に、いつも上手に消える。……あれはあれで、一つの才能だよ。得難くは、ないが」
◇
総帥府は、匂いが変わっていた。
紙と革と煙草——軍の建物の匂いの中に、香料が混じっている。廊下ですれ違う官房の顔ぶれの半分が、知らない顔だった。軍服の着方で、分かる。軍人の服ではない。宰相府から来た者たちの、着せられた軍服である。
総帥ゴーティエ・ド・セルヴィルは、執務室で二人を迎えた。
半年で、十年ぶん老けていた。それでも背筋は伸びており、ジャン=リシュアンの報告——南方の実情、和平の判断、撤兵の経緯——を、一度も遮らずに聞き終えた。聞き終えて、最初に言った言葉は、こうだった。
「……よく、兵を連れて帰った。三万八千。おまえが署名した名簿の数だ。それが、おまえの戦果だ。誰が何と言おうとな」
「恐れながら、閣下。誰が、何と言うのですか」
ゴーティエは、すぐには答えなかった。机の抽斗から一枚の通達を出し、卓の上を滑らせた。
ラヴァルが読み上げた。声が、途中で一度、つかえた。
「——ジャン=リシュアン・ドゥラクロワの南方における職務執行につき、査問会を開催する。日時、来る十七日。場所、宰相府第二庁舎。構成、宰相府より五名、軍務局より二名……」
執務室が、静まり返った。
「……査問会、とは」と、モルネ参謀が、たまりかねたように言った。法規の虫が、頁を繰るまでもない、という顔をしていた。「軍法会議では、ないのですか」
「ない」と、ゴーティエは言った。
「軍法会議であれば、軍法があります。罪状の事前提示、弁護人、証人喚問の権利、判例——手続きが、あります。査問会には」
「何もない」
総帥は、静かに認めた。
「規則も、前例も、被査問者の権利も、何も定められていない。定められていないものは、その場で定められる。問う側の、都合のいいように」
「そのようなものに、元帥を出頭させるのですか。場所も、軍ではなく宰相府の庁舎です。これは軍人の処遇ではありません。これでは、まるで——」
幕僚は、そこで言葉を呑んだ。まるで、罪人の呼び出しだ。誰もがその続きを頭の中で言い、誰も口に出さなかった。
ジャン=リシュアンだけが、通達の紙面から目を上げて、別のことを訊いた。
「閣下。一つだけ、伺います。この通達の起案は宰相府ですが——開催形式を『査問会』とした署名は、閣下のものです。なぜですか」
ゴーティエは、若い元帥の目を、しばらく見ていた。
それから、目を、伏せた。
「……十七日には、分かる」
それ以上は、何も言わなかった。優しい人だ、と昔から言われている総帥の、その優しさが、今日はなぜか、ひどく疲れて見えた。
◇
ドゥラクロワ邸の食堂で、親子は二人きりで卓を囲んだ。
母が早くに亡くなってから、この家の食卓は、いつも二人か、一人だった。今夜は久しぶりの二人である。父は葡萄酒を注ぎ、息子の杯が空くたび、黙って注ぎ足した。戦の話は、しなかった。庭の栗の木が虫にやられた話。厨房の老婢の腰痛の話。どうでもいい話だけを、老元帥は選りすぐって並べた。
食後、父は書斎の暖炉の前で、ようやく本題の縁に触れた。
「……おまえの報告書を、読んだ。『城壁ハ破レルモ、都市ハ破レズ』——あれをそのまま上げたのは、おまえが初めてだ。この国の軍人は五十年、負けを勝ちと書き換えて出世してきた。おまえは、負けを負けと書いた」
「事実ですので」
「そうだ。事実だ。だからな、リシュアン」
老元帥は、暖炉の火を見たまま言った。
「おまえの書いたものは、この帝国で、いま一番、危険な文章なのだ。正確な報告は、嘘の上に建てた家の、土台を蹴る。……わしはおまえを、路上でなら守れる。元帥杖は、まだそのくらいは利く。だが十七日の、あの部屋の中では」
父の声は、そこで少しだけ、掠れた。
「——守って、やれん」
「父上」
ジャン=リシュアンは、火を見ている父の横顔に、静かに言った。
「僕は幼年学校で、教官たちにこう教わりました。ドゥラクロワの家の者は、帝国の背骨だと。……背骨の仕事は、真っ直ぐ立っていることです。守られることでは、ありません」
老元帥は、何も言わなかった。ただ、空になっていた息子の杯に、最後の一杯を、たっぷりと注いだ。
◇
その夜、遅く。
カミーユは、婚約者の顔を見るなり、抱擁も口づけもすっ飛ばして、こう言った。
「査問会ですって? 構成、読んだわ。宰相府五、軍務局二。定足数の規定なし、記録の公開規定なし。……ねえ、これ、歴史のどれに似てると思う?」
「……君は、本当に変わらないな」
「答えて。戦史の問答は、うちの家憲でしょ」
ジャン=リシュアンは、外套を脱ぎながら、少し考えた。この人と話すときだけ、頭の中の疲れた部分が、静かに片付いていく。幼年学校の舞踏会で、壁の柱を数えていた頃から、そうだった。
「——旧王朝末期の、『諮問法廷』。法で裁けない者を、法の外で裁くために作られた箱だ。あれが動き出してから、王朝は九年で終わった」
「九年ももったのは、王様がまだ起きてたからよ」と、カミーユは言った。「うちの陛下は、寝てる」
それから彼女は、ようやく、婚約者をきちんと抱きしめた。半年ぶんの力で、長いこと。
「……帰ってきたのね」
「帰ってきた」
「ねえ。あの舞踏会の柱、何本だったか、覚えてる」
「二十六本。南側の一本にだけ、ひびが入っていた」
「正解」と、彼女は婚約者の胸に顔を埋めたまま笑った。「……あなたが査問会の部屋に入ったら、まず柱を数えなさい。数え終わる頃には、落ち着いてるわ。昔から、そうでしょ」
「痩せたわ。南の連中、あなたにご飯も出さなかったの」
「敵は礼儀正しかったよ。こちらの糧食が不味かっただけだ」
「じゃあ今夜は、うちのが世界一だって分からせてあげる」
窓の外で、平癒祈願の鐘が、今夜も鳴っていた。鐘の音は、これから来る十七日のことも、査問会という名の箱のことも、何も知らない顔で、静かに帝都の屋根を渡っていった。灯りは、それからほどなく、消えた。
半年ぶりの夜に、戦史の話は、もう出なかった。




