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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第三章「王女の名前」

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第56話「東からの書状」

「元首閣下は——独立、なさいます」


 酒蔵の陰で、リュカは、それを手筈の一行目のように言った。


 テオドールは、渡された盃を、飲まずに置いた。


「……独立。ラ=フェオが、帝国から」


「もう、お決めになりました。陛下が倒れられて、閣下の中で、最後の糸が切れたのです。——あの方は、帝国が憎くて出ていかれるのではありません。あの方が忠誠を誓った帝国が、もう、どこにもないのです。オーレリアン陛下は目を覚まされない。宮廷は二頭の噛み合い。東の属領から吸い上げた税は、東に一枚も戻らず、宰相府の戦費に消える。……閣下は二十年、東の民に『自治を守ってやる。だから耐えよ』と仰り続けてきました。その約束が、帝都の側から、破られ続けている。——であれば、答えは一つです」


 リュカは、懐から、油紙に包まれた一通の書状を取り出した。蝋の封印には、ラ=フェオの意匠——そして、フォークレラン家の鷹に似た、けれど東の様式の鳥の紋。


「元首閣下から、あなたの国への、正式な申し入れです。——国交を、結びたいと」


 テオドールは、書状を、両手で受け取った。ずしりと重い。紙の重さではない。


「宛名は、リヒテンヴァルト女大公アルモナ陛下、ならびに大公国宰相ヴィルヘルム閣下。……戴冠の日に間に合わせよ、というのが閣下のご指示でした。最初の国書を、最初に届いた祝辞と同じ手で渡せ、と。ああいう洒落を、あの方は、絶対にお外しになりません」


 リュカは、そこで少しだけ、声を柔らかくした。


「……一つ、お耳に入れておきたいことがあります。玉座の芽吹きの号外が、うちに届いた日のことです。元首閣下は、あの号外を、最後まで黙ってお読みになった。それから杖を突いて庭へ出られて、庭の一番古い樹に向かって——頭を、下げられたのです。長いこと。誰にも、何も仰らずに」


 リュカ自身、その光景の意味を測りかねて、古い側仕えに訊いたのだという。老人は、震える声で答えた。


「——旦那様が頭をお下げになるのを見るのは、兄君の報せが届いた日以来でございます、と」


「……なぜ、私に渡すんです。式典の場で、正式に出せばいい」


「正式に出す前に、中身をそちらの側で揉んでいただけるように、です。国書というものは、受け取った瞬間から、政治になります。受け取る前なら、まだ、相談ごとで済む。——それに」


 リュカは、生真面目な顔のまま、付け加えた。


「あなたが一番、話が早い。もうすぐ旦那様になられるのでしょう、女大公陛下の。号外は、東の街道まで飛んで参りました」


 テオドールは、咳払いで誤魔化した。誤魔化しきれなかった。


   ◇


「ここからは、悪い報せの束です」


 リュカは指を一本ずつ折りながら、東の情勢を並べていった。


「一つ。ゴーティエ総帥の首が、危ない。南方遠征の失敗、艦隊の壊滅、モルゲンロートの失態——負けの帳簿は全部、総帥府に付け回されました。後ろ盾の皇帝は眠ったまま。オーギュストは名誉元帥の肩書で、軍務にまで手を突っ込み始めています。総帥府の官房人事は、この三月で半分が入れ替わりました。全部、宰相府の息のかかった者に。……軍が、頭から順に、乗っ取られていきます」


「総帥は、抗わないのですか」


「抗っておられます。そして、負け続けておられる」


 リュカは、少し、目を伏せた。


「ご存知でしょうか。ゴーティエ総帥は、もともと元首閣下の部下です。閣下が右腕として育て、総帥の座に据えた方だ。だから閣下は、いまも手を貸しておられます。金も、報せも、東の口利きも。……ですが、あの方は」


 元近衛の副官は、言葉を選んで、それから、選びきれずに言った。


「——優しすぎるのです。部下を切れない。責めを一人で被ってしまう。政敵の家族には、決して手を出さない。戦場でなら、全部、美徳です。兵はあの方のためなら死にます。ですが宮廷では、その全部が、負け筋になる。オーギュストは、その逆を、全部やる男です。だから、いつも——ゴーティエ総帥が、負ける」


「二つ。ジャン=リシュアン元帥が、南方方面軍総司令官を解任された」


 テオドールは、顔を上げた。


「解任だけでは、ありません。査問にかけられ、元帥杖を返上させられ、軍籍そのものを追われました。罪状は『独断による撤兵と、敵性勢力への利敵行為』——あなた方と結んだ、あの一年の和平のことです。捕虜を殴らせなかったことまで、帳簿に載せられたと聞きます」


「……あの人は、帝国で一番まともな軍人だ」


「だから、追われたのです。まともであることは、独裁の支度をしている者たちには、一番邪魔な性質ですから。父君の——陸軍総司令官ドゥラクロワ元帥の杖も、ご子息を守るためには振れなかった。振れば、親子まとめて刈られる情勢です」


「彼は、いまどこに」


「うちに、おられます」


 リュカは、こともなげに言った。


「元首閣下の庭で、婚約者どのと二人、毎日、釣りをしておられますよ。大陸で一番若い元帥だった方が、いまは、大陸で一番暇な釣り人だ。……うちの国はいま、帝国が捨てた上物の武人の、置き場のようになっています。ローレンツ様がおられる。元近衛が、私を入れて百と少し。退役兵は、数えるのをやめた頃で四千。——閣下は全員に飯を食わせて、何もお命じにならず、ただ、こう仰るのです。『庭の手入れでもしておれ』と」


 テオドールは、目を閉じた。壁の柱を数えて舞踏会を過ごした男。後悔はしたくない、と言って突撃した男。捕虜二千を殴らせなかった男。その男が、いま、敵でも味方でもなく、東の庭で釣り糸を垂れている。


「それから——これを」


 リュカは、懐からもう一枚——今度は封もない、折り畳んだだけの紙切れを出した。


「釣り人どのから、あなた宛です。国書と一緒にするな、と、えらい剣幕で申しつかりました」


 開くと、几帳面な、しかし急いだ筆跡で、数行だけあった。


 ——貴官の国の新聞を取り寄せて読んでいる。戴冠の記事は二度、婚約の記事は三度読んだ。議場で婚約を発表する君主というものを、私は寡聞にして知らない。教範なら零点の国だ。実に、良い。


 釣りは、思ったより奥が深い。魚は待つ者にしか来ない。いまの私には、それが勉強になる。


 いつか、続きの話をしに行く。それまで、負けるな。誰にもだ。——J=R


 テオドールは、その紙切れを、二度読んだ。それから丁寧に畳んで、国書とは別の、胸の内側の隠しに収めた。敵将としてでも、亡命者としてでもない。ただの、同い年の友人からの手紙として。


「ご返事は、いかがなさいますか」


「——『こちらの湖の方が、大物が釣れる』と」


 リュカは、生真面目に復唱しかけて、途中で、こらえきれずに少し笑った。


「……確かに、お伝えします。お二人とも、よく似ておられる」


「三つ目は」と、テオドールは訊いた。


「三つ。ラ=マリニエール提督が、帝都に再召喚されました」


 リュカの声が、一段、低くなった。


「ヤシマとの和睦をまとめた功労者を、です。名目は『海軍再建の諮問』。ですが、勅許で艦隊を動かした男を、宰相府がこの時機に呼び戻す理由は、二つしかありません。取り込むか——斬るかです。あの提督は、いまの帝国軍で唯一、兵からも民からも人気のある方だ。独裁の仕上げに、一番邪魔で、一番欲しい男、ということです」


「四つ目を、まだ折っていませんね」


「はい」と、リュカは、折った三本の指を、ゆっくり開いた。


「四つ目は、指を折るまでもありません。いま申し上げた全部が、四つ目です。——オーギュスト・ド・レオニエの、独裁体制。皇帝は眠り、総帥は宙吊り、まともな軍人は庭で釣りをして、人気者の提督は召喚状一枚で呼びつけられる。あの国はいま、たった一人の男の帳簿に、書き換えられている最中です。……元首閣下が独立をお急ぎになる理由も、それです。書き換えが終わってからでは、遅い」


   ◇


 その夜のうちに、書状は、宮の小さな書斎で開かれた。


 祝賀の装いのままのヴィルヘルムと、若枝の冠だけ外したアルモナ。マルクが灯りを整え、リュカが立ち会い、テオドールが封を検めた。国書は、東の流儀の美しい手蹟で、しかし驚くほど簡素に書かれていた。ラ=フェオは近く、帝国よりの独立を宣する。ついては新生リヒテンヴァルト大公国との間に、正式の国交と、通商の途を開きたい——。


 末尾の一文だけ、手蹟が変わっていた。ラウルの自筆である。


 ——兄オトマーの守りし家の姫へ。祝着、これに過ぐるものなし。


 アルモナは、その一文を、長いこと見ていた。それから書状を胸に当て、リュカに向かって、女大公としてではない、深い辞儀をした。


「……元首閣下に、お伝えください。大伯父様のお庭の釣りに、いつか私も混ぜてください、と」


「確かに、お伝えします」と、リュカは深く一礼した。「……閣下は、たぶん、お泣きになります。それ」


 ヴィルヘルムは、書状を卓に置き、しばらく黙っていた。それから、算盤を、声に出して弾き始めた。宰相の算盤である。


「……これで帝国は、東にラ=フェオ、南にわしらと、二つの敵を抱えることになる。だが、それだけでは済まん。西の戦線も、あの宰相が実権を握れば、遠からず再開するだろう。あの方面は、あの者の所領のすぐ近くでな——寝所の隣の火事は、独裁者ほど、放っておけんものだ。しかも、その先に座っておるのは、肥沃な穀倉地帯を抱えた、西側最大の国家——ヴェストマルク共和国。議会が軍を握る、麦と鉄の国だ。あそことの小競り合いも、始めるだろうな。……つまり、三正面。帝国の背骨に入る亀裂として、これ以上のものは描けん。願ってもない申し入れ、ということになる」


 だが、そう言う剣聖の目は、喜んでいなかった。


「……リュカ殿。一つだけ、聞かせてもらう。ラウル殿の独立に、帝国はどう出る。眠った皇帝の代わりに、誰が、東征の印を押す」


「オーギュストです」と、リュカは即答した。「そして、押すでしょうな。独裁の完成には、外の敵が要る。内輪の粛清を『戦時だから』で塗り潰せる、都合のいい敵が。——南のあんたらと、東のうちと。敵は多いほど、あの男には好都合だ」


「……つまり、この国書は」


「ええ。同盟の申し込みであると同時に、次の戦の予告状です。爺さんは、それを隠さん人だ。だからこそ、信用できる」


 書斎の灯りが、静かに揺れた。窓の外では、祝賀の楽の音が、まだ細く続いている。戴冠の夜と、次の戦の予告が、同じ一枚の紙で届く——それがこの時代なのだと、テオドールは思った。


 ——さて。


 物語は、ここでしばらく、南の祝祭の灯を離れなければならない。


 東北へ、千里。眠れる皇帝の帝都で、いま、何が書き換えられつつあるのか。宙吊りの総帥は、召喚された提督は、そして帳簿を握る宰相は、それぞれの夜に何を見ているのか。


 次に語るべきは、帝都の話である。

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