第55話「ささやきの聖堂」
夜明け前の精霊聖堂に、鋏の音だけが、静かに響いていた。
聖堂といっても、壁と屋根が主役の建物ではない。主役は、堂の中央に立つ一本の大樹である。屋根は大樹を囲むように輪に組まれ、天は幹の周りだけ、まるく開いている。樹齢は、誰も知らない。リヒテンヴァルトの歴史より、確実に古い。
その大樹の低い枝から、セリナは、若枝を七本、鋏で頂いた。一本頂くごとに、幹に手を当て、古い言葉で断りを述べる。隣で、アルモナが同じように手を当てて、頭を下げた。まだ式服ではない。いつもの普段着に、肩掛け一枚である。
「……ねえ、セリナ。ほんとうに、これでいいの? 金も、宝石も、なにもなくて」
「これで、よいのです」
セリナは、床に布を広げ、若枝を並べた。しなやかで、瑞々しく、朝の光の中で葉の裏が銀色に光る。
「金の冠は、器にすぎません。リヒテンヴァルトの冠の中身は、昔から、これです。——ようく、ご覧なさいませ」
二十年、毎晩髪を編んできた指が、枝を取った。撓め、交差させ、編み込み、葉を残すところは残し、落とすところは落とす。躊躇が、ひとつもない。アルモナは途中から手伝うのを諦め、ただ、見ていた。娘の髪を編むのと同じ速さと丁寧さで、冠は、編み上がっていった。
「……きれい」
「軽うございますよ。生きておりますから」
セリナは、出来上がったそれを両手で捧げ持ち、朝日にかざした。若葉の冠は、光を透かして、緑の硝子のように見えた。
「二十年前の夜、私は、あなたさまを布一枚にくるんで、この国から運び出しました。……今日は、これをあなたさまに載せて、この国へ、お運びいたします。——荷が、ずいぶん軽くなりました」
「重くなったのよ」と、アルモナは笑った。「中身が、育ったから」
「口の減らないところも、お育ちになりました」
◇
即位式は、大公宮では行われない。
精霊聖堂——街の民が「お樹の堂」と呼ぶ、あの場所でである。理由を、この国の子供は誰でも語れる。昔々、まだ国のなかった頃、旅の武人がこの地を通りかかった。武人は、野の真ん中の大樹の下で休み、そして、聞いたのである。葉ずれの奥の、ささやきを。
折しも、蛮族の一隊が、大樹を切り倒して砦の材にしようと、斧を担いでやって来た。武人は一人、大樹の前に立ち塞がり、その場で蛮族を追い払った。なぜ守った、と後に問われて、武人は答えたという。——頼まれたからだ、と。
武人は大樹の下で祈りを捧げ、精霊の加護を得て、この地を治めることになった。それがリヒテンヴァルト大公家の開祖であり、大樹はいまも聖堂の真ん中に立ち、そして——今朝、その低い枝から頂いた若枝が、いま、冠になっている。
つまりこの国の冠とは、代替わりのたびに、開祖の樹から新しく編み直される、生きた約束なのだった。
堂の内には、入りきれるだけの人が入り、入りきれない人々が、聖堂の外を幾重にも取り巻いた。テオドールは軍側の列の先頭に、新しい大公国軍の礼装で立っている。堂の中央、大樹の根元には、二つのものが並んで安置されていた。焦げ跡の残る小さな肩掛け。そして、絹から出された、刃こぼれだらけの一振りの剣——銘、『最後の壁』。
殿軍も、今日、列席しているのだった。
聖堂までの沿道は、夜明け前から場所取りの筵で埋まっていたという。屋根という屋根に人が鈴なりになり、警備のロス少将が「壁より屋根が心配です」と真顔で報告に来たほどである。子供たちは花を持たされ、老人たちは二十年前の話を若い者に聞かせ、菓子売りの親父は——アードラズベルクから馬車を仕立てて駆け付けて——今日は商売をせず、ただ、道端で帽子を胸に当てて立っていた。
鐘が、鳴った。
司祭は、セリナである。深青のローブに精霊石の長杖、銀白の編み髪。付人でも、術大隊長でもない、司祭としてのセリナが、大樹の前に立ち、古い祭文を、歌うように読み上げていく。開祖の物語。ささやきの物語。頼まれたからだ、の物語。参列の子供たちが、知っている箇所を、唇だけで一緒になぞっていた。
そして、扉が開いた。
アルモナが、入場してきた。
飾りの少ない、白い式服。歩調は、練習のとおり。テオドールは、昨夜「転んだらどうしよう」と袖を摘んでいた人が、堂の中央まで一度も目を伏せずに歩き切るのを見た。大樹の前で、彼女は膝をつき、セリナの長杖が、その肩に軽く触れた。
「——問います。何ものとして、ここに来ましたか」
「リヒテンヴァルトの血、アルモナ。……開祖の約束を、継ぎに来ました」
「——問います。何を、誓いますか」
アルモナは、顔を上げた。大樹を、まっすぐに見上げて、彼女は誓った。
「精霊たちに、誓います。この国を、守ります。剣によってではなく、剣に頼る日を一日でも減らすことによって。……そして、この国を、何人のよりどころとします。生まれた者にも、逃れて来た者にも、名を失った者にも——扉を、閉じません。約束が守られる国を、ここに、始めます」
風は、なかった。
なのに、大樹が、鳴った。
梢から根元へ、葉ずれがひとしきり、さざ波のように降りてきて——それは、誰の耳にも、ただの葉音ではなかった。参列の老人たちが、いっせいに目頭を押さえた。開祖が聞いたというささやきを、この国は、二十年ぶりに、聞いたのである。
セリナが、若枝の冠を捧げ持ち、跪いた人の頭に、静かに載せた。
「——リヒテンヴァルト女大公、アルモナ。精霊の証すところ、ここに即位されました」
堂の内の歓声が、外の広場の歓声を呼び、広場の歓声が、街中の鐘を呼んだ。テオドールは、直立不動のまま、目だけで、冠の人を追っていた。緑の冠は、朝の光の下で、まるで彼女の頭に若木が一本、根を下ろしたように見えた。
式の後、宮前の広場で、連隊旗の親授が行われた。新しい旗が、女大公の手から各軍団・各連隊の旗手へ、一本ずつ渡っていく。第一軍団の旗手が受け取った旗には、正式名称の下に、通称が堂々と縫い取られていた。——アードラスヴェーア。
続いて、第二軍団の旗が渡された。
深緑の地に、翼を広げた鷹の紋。正式名称の下の縫い取りは——エルンヴァハト。
受け取りに進み出た旗手の顔を見て、テオドールは、思わず目を細めた。フリードである。開戦の頃、旗手見習いとして、震える手で旗竿を握っていた少年。あの手が、いまは女大公の前で微塵も揺れずに旗を受け、肩幅の変わった体で、軍団旗を高々と、空へ掲げた。深緑の旗が風を孕み、鷹が翼を打った。
震えていた手が、もう、震えていない。それだけのことが、この半年の何よりの戦果に思えて、テオドールは、自分の軍団の旗を、少し長く見上げていた。
◇
祝賀会は、大公宮の大広間で、日が傾くまで続いた。
テオドールは、来賓の列の長さに、途中から数えるのをやめた。解放地の代表団。ギルドと銀行組合。ラ=フェオの使節団。近隣の自由邑の長老たち。アードラズベルクの市議会。それぞれが口上を述べ、それぞれに女大公が応える。彼女は、一人も、おざなりにしなかった。革具工房の亭主が緊張で口上を噛むと、先に笑って助け船を出し、ヨルク翁には椅子を運ばせ、イルザとは何やら屋根の修繕の話で盛り上がっている。
「……見事なものだ」と、隣でレオンハルトが言った。「あれは、社交ではないな。診察だ。来賓を一人ずつ、診ておられる」
「救護院で、二十年やってきたことです」と、テオドールは答えた。「相手の顔色を見て、要るものを聞き出して、説教して帰す。……国が、大きな救護院になっただけですよ」
会が半ばに差し掛かった頃、大広間の入口が、ひときわ騒がしくなった。
潮灼けの大男が、慣れない礼装の襟を毟りながら、大股で入ってきたのである。疎開者の迎え航海から戻ったその足で、着替えだけして馬を飛ばしてきたのだという。ブラム・ノードは、女大公への祝いの口上を、意外なほど折り目正しく済ませ——それから、テオドールを見つけるなり、ずんずん寄ってきた。
「おい、テオ坊」
「お帰りなさい。……間に合いましたね、海軍大将」
「それだ」と、老提督は唸った。「わしの留守に、机の上に、とんでもねえ紙切れが載っておった。満場一致だと? 留守の男を満場一致で大将にする議会が、この世のどこにある」
「ここに」
「……言うようになったな、坊主」
ブラムは、給仕の盆から杯を二つ攫って、一つをテオドールに握らせた。
「で、どうなんだ。尻は」と、テオドールは訊いた。
「むず痒いに、決まっとろうが」
そう吐き捨てて、しかし老提督は、広間の中央——若枝の冠の人が来賓に笑いかけているのを、目を細めて眺めた。
「……だがな、テオ坊。今日だけは、痒くても、我慢のし甲斐があるわい」
その会場の隅で、テオドールは、目配せを受け取った。
リュカである。
◇
宮の裏手、酒蔵の陰。祝賀の楽の音が、壁越しに遠く聞こえる場所で、二人は落ち合った。リュカは礼装の襟元だけを緩め、それでも姿勢は崩さずに立っていた。テオドールが樽を勧めると、「では、失礼して」と、浅く腰を下ろした。生真面目な男、とローレンツ絡みの報告書にはあった。噂のとおりだった。
「良い式でした。元首閣下にも、お見せしたかった。……さて」
使者の顔から、儀礼が、静かに抜けた。残ったのは、手筈を三行で説明する男の顔である。
「式の前に申し上げました。預かりものが山ほどある、と。順に参ります。——まず、一番大きいものから」
リュカは、息を一つ置いて、言った。
「皇帝オーレリアン陛下が、倒れられました」
「————」
「二月前です。政務は、もう執れません。帝国は公式には伏せていますが、隠しきれるものではない。玉座の後ろが空になり、いまあの国は、総帥ゴーティエと宰相オーギュスト——二つの頭が、剥き出しで噛み合っています。近衛は、例の一件で三分の一が消えました。東の海ではヤシマがまた騒がしい。南では、あなた方が、この騒ぎです」
リュカは、葡萄酒を二つ注ぎ、一つをテオドールに差し出した。
「……ここまでが、前置きです」
「……前置き?」
「はい」
使者は、頷いた。祝賀の楽の音の向こうで、その静かな目だけが、妙に張り詰めていた。
「元首閣下の言伝は、ここからです。——どうぞ、お持ちください。素面で伺うには、少々、大きい話ですので」




