第54話「名前は兵の背骨」
「——断じて、否であります!」
アードラズベルクの議場に、怒号が谺した。
即位式を二日後に控えた、国体会議の最終議程である。議題は、大公国軍再編の承認。軍制の骨格——三分の体制も、年次の軍律法も、戦時条項も、審議は驚くほど滑らかに進んだ。紛糾したのは、誰も予想していなかった一点だった。
書類の、いちばん端の一行である。曰く——アードラスヴェーアは解散し、将兵は大公国軍に編入する。
「解散とは、何ごとか」と、ギルドの顔役が卓を叩いた。「二十年、この街の壁の上に立っておったのは、大公国軍とやらではない。アードラスヴェーアだ!」
「手続きの話です」と、軍政のクラウゼが額の汗を拭いた。「都市の軍を国の軍に移すには、一度、法人格を——」
「手続きで消える名前なら、最初から誇りとは呼ばん!」
傍聴席から、拍手が湧いた。次に立った女将ふうの議員は、静かだった。静かなぶん、議場に通った。
「……うちの人は、破口の戦いで死にました。うちの人が守ったのは、アードラスヴェーアの旗です。大公国軍第一なんとか軍団の旗では、ありません。——名前を、消さないでください。あの名前は、もう、兵のものだけではないのです。この街の、誇りなのです」
議場が、静まり返った。
卓の端で、クルーガー上級大将が、のそりと立った。老将は議員ではない。だが発言を止める者は、いなかった。
「……軍人として、一つだけ。名前は、兵の背骨ですわい。背骨を抜いて編入した四万七千は、ただの四万七千です。背骨ごと迎え入れた四万七千は——まあ、ちっとばかし、うるさい四万七千ですがな」
笑いが起き、議決は、その場で修正された。
——正式名称、大公国軍第一軍団。通称、アードラスヴェーア。旗、歌、点呼の作法、いっさいを継承する。通称は公文書への記載を妨げない。
クルーガーの軍団が、その名を背負うことになった。老将は着席しながら、隣のヴィルヘルムにだけ聞こえる声で言った。
「……うるさい四万七千の親玉が、わしですか。人使いの荒い国ですわい」
◇
続く議題が、ヴィルヘルム自身の話であることを、剣聖は議程表で知っていた。知っていて、なお、気が重かった。
動議は、三つ束になって出された。一つ、ヴィルヘルムのアードラズベルク市長職の辞任を承認する。一つ、大公国宰相 兼 大公国軍最高司令官代理の職を新設し、帝国との終戦までヴィルヘルムを推挙する。一つ、空席となる市長にはレオンハルトを推挙する。
「……申し上げておく」と、ヴィルヘルムは立って言った。「わしは、一時的に任される身にすぎん。宰相と軍権を同じ手に握らせる形は、本来、この国が最も避けるべき形だ。諸君はそれを、分かって推挙しておるのか」
「分かっております」と、ヨルク翁が、杖にもたれたまま答えた。「分かった上で、訊き返しますがの。——アードラズベルクを二度も救った英雄を頂に据えずして、この寄り合い所帯の何がまとまりますかな。姫様は象徴、憲章は背骨。じゃが、当座の舵を握る腕が要る。あんたの他に、誰がおる」
反論は、なかった。ヴィルヘルム自身にも、なかったのが、いちばん苦かった。剣聖は長い沈黙ののち、「終戦の日をもって退く。一日も、延ばさん」とだけ条件を付けて、頭を下げた。
市長の座は、満場一致だった。レオンハルトは短く受諾の礼を述べ、「商人が市長になるのですから、皆さま、請求書だけはよくお確かめください」と付け加えて、議場を沸かせた。笑い声の中で、ただ一人、ヴィルヘルムだけが笑わなかった。
そして、最後の議題が、剣聖の憂いを仕上げた。
——国体会議は、建国の議決をもって当面の役目を終え、戦時の政務は宰相に一任する。議会の新設は、帝国との戦争終結後に選挙を実施し、そこで改めて発足させる。
賛成、多数。
つまり、こういうことだった。終戦の日まで、この国には、議会がない。宰相が政務を握り、軍権を代理し、市長は息子で、大公は義理の娘だ。……ヴィルヘルムが生涯をかけて戦ってきた形に、これ以上似た形は、描こうとしても描けまい。
◇
その晩、荷造りの済んだ市長公舎——もう公舎でもない家の書斎で、ヴィルヘルムは、絹に包まれた細長い荷を、いつまでも見ていた。父の剣である。明日、リヒテンフェルデへ発つ。
茶ではなく、葡萄酒が音もなく卓に置かれた。マルクである。
「……見たか、今日の議決を」と、ヴィルヘルムは荷から目を離さずに言った。「宰相が政務を握り、軍権を代理し、市長は倅で、大公は娘だ。議会は、ない。——二十年前、わしらが壁の上から睨んでおった帝都と、どこが違う」
「違いますとも」
家宰は、澄ました顔で盃を満たした。
「あちらの宰相府には、私めが、おりませんので」
「……なんだ、それは」
「旦那様は、悪の皇帝には、なれませんよ」と、マルクは言った。諭す声だった。五十年、この家の紙と銭と坊ちゃまたちの尻拭いを差配してきた男の、動じない声である。「私がいるのですから。——紙を一枚無駄になされば小言を申しますし、権を一つ余分に握られれば、翌朝の卓で、必ず申し上げます。『旦那様、それは返すものにございます』と。……五十年、そうして参りました。あと十年やそこら、続けられぬ道理がございません」
「小言で、国が守れるか」
「守れますとも」
マルクは、初めて少し、目元を緩めた。
「帝国が滅びかけておりますのは、砲弾が足りぬからでは、ございません。宰相に小言を申す者が、一人もおらぬからでございます」
ヴィルヘルムは、長いこと黙って、それから、盃を干した。
「……明日は、早いぞ。爺」
「はい。もう、荷は積んでございます」
◇
同じ夜、リヒテンフェルデの大公宮の一室では、明日の主役が、まったく威厳のないことになっていた。
「テオ」
「はい」
「明日、転んだらどうしよう」
「転びません。三日、歩く練習をしていたでしょう」
「冠が、ずり落ちたら」
「枝ですよ。軽い。セリナさんが、あなたの頭の形に合わせて編むと言っていました」
「口上を、忘れたら」
「忘れたら、いつもの説教をすればいい。皆、ありがたがって聞きます」
アルモナは、長椅子の上で、テオドールの肩に頭を預けたまま、袖の端をずっと摘んでいた。子供の頃、雷の晩にそうしていたのと、同じ摘み方である。明日、大陸の歴史に名の残る即位式の主役が、である。
「……ねえ。もうちょっとだけ、こうしてていい」
「どうぞ」
「重くない?」
「軽いです。冠より」
ふふ、と肩の上で笑う気配がして、それから、また静かになった。テオドールは、動かなかった。半年前の自分なら、耳まで赤くなって、身の置き場に困っていただろう。いまは、違った。この重さを受け止めるのが自分の役目だと、静かに思うだけである。人は、こういうふうに大人になっていくのかもしれなかった。誰かの一番弱い時間を、黙って預かることで。
「……頼みますから」と、テオドールは天井に向かって言った。「明日の式では、これは、控えてくださいね」
「明日『は』、ね」と、彼女は肩の上で言った。「明後日からのことは、約束してない」
「……国じゅうが、あなたのそういうところを、まだ知らないんですよなあ」
「ふふ。あなただけが知ってるの。——ずるいでしょう」
夜が更けて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。テオドールは外套をそっと掛け、灯りを細くした。窓の外、宮の中庭で、明日の式場の設営が、松明の下でまだ続いている。その灯りのひとつひとつが、二十年ぶんの遅れを取り戻そうとしている国の、心拍のように見えた。
◇
即位式の朝は、よく晴れた。
南の門から、アードラズベルクの一行が入城してきた。ヴィルヘルム、マルク、クルーガー、ヴェストハーゲン——鞍の脇に、絹に包まれた細長い荷。テオドールは門前で出迎え、父と、短く目礼を交わした。多くは語らない親子である。それで足りた。
騒ぎは、その直後に来た。
東の街道から、見慣れぬ隊列が現れたのである。ラ=フェオの意匠の旅装——先頭の若い男が馬を降り、埃を払い、姿勢を正して、一礼した。
「お初にお目にかかります。ラ=フェオ元首府より使者として参りました、リュカと申します。……いえ、正しくは」
若者は、生真面目な顔のまま、少しだけ付け加えた。
「お噂だけは、嫌というほど伺っております。ローレンツ様から」
リュカ——帝都からローレンツと近衛十二騎を、血の一滴も流させずに逃がし、自らも共に東へ奔った、あの元近衛副官である。今日は、正式の使者の礼装を着けていた。居並ぶ将たちの前で、彼は口上を述べた。
「ラ=フェオ元首、ラウル・ド・フォークレラン閣下より、リヒテンヴァルト大公家のアルモナ姫へ。——姫君の帰還と戴冠を、心より喜ばしく思う。以上、閣下の言葉のままに」
一瞬の間のあと、周囲が、騒然となった。
当然である。ラウル・ド・フォークレランは、帝国の先代総帥にして、皇帝の一門に連なる男だ。その男が、帝国が「存在しない」ことにしている大公家の戴冠へ、公式の使者を立て、公式の祝辞を送ってきた。これは祝電ではない。帝国の背骨に走った、亀裂の音だった。
ざわめきの中で、リュカはテオドールにだけ近づき、声を落とした。
「——詳しくは、式の後に。元首閣下からの預かりものが、山ほどございます」
それだけ言って、使者は下がっていった。テオドールは、その背中を見送りながら、朝の晴天の下で、ひとつ、確かなことを感じていた。
東の空の向こうで、何かの梁が、軋み始めている。
帝国という、あの巨大な建物の、いちばん太い梁が。




