第53話「地面を見る」
南の門をくぐった瞬間、テオドールは、馬の脚を思わず止めた。
音が、違うのである。
援軍として駆け付けたあの秋、この街にあった音を、テオドールは忘れていない。銃声と、火の爆ぜる音と、そのどちらでもないときの、耳鳴りのような静けさ。人々は壁沿いを俯いて歩き、目を合わせず、声は囁きより大きくならなかった。占領下の街の音とは、つまり、音のないことだった。
いま、リヒテンフェルデは、うるさかった。
槌音。荷車の軋み。競り の声。学校帰りの子供の群れが騎馬の列に並走して、竜騎兵の胸甲を指さしては歓声を上げる。焦げ跡の残る壁の前に、花売りが台を出している。焦げ跡は、まだ、いたるところにあった。だがその前で、人が物を売り、値切り、笑うのだった。
「……別の街に来たようです」と、ライネルが呟いた。
「別の街になったのよ」と、先頭の馬上から、アルモナが振り向いた。「なってる途中、かな。——ね、あれ」
彼女の視線の先、通りの角の屋根の上に、人影があった。統治代行ともあろう人が、瓦の上に立って、こちらへ大きく手を振っている。イルザである。相変わらず、隙あらば屋根に登る人だった。降りてきた統治代行は、型どおりの出迎えの口上を三語で切り上げて、あとは早口の実務に入った。宿舎、警備、式の日程、水の出の悪い区画——「積もる話は屋根の上で」と言って、アルモナに笑われていた。
大公宮へは、アルモナとセリナが一足先に入った。
宮門の前で、アルモナは一度だけ、足を止めた。二十年前、三歳の彼女が運び出された門である。セリナが、黙って隣に立った。二人はどちらからともなく手を繋ぎ、それから、ごく当たり前の足取りで、敷居を越えていった。式の準備は、あの二人の領分である。
そして、ここからが、こちらの領分だった。
◇
「地面を見に行く」と言い出したのは、レオンハルトである。
商会の当主が、護衛も連れずに街歩きなど珍しい——とテオドールが言うと、兄のモノクルの奥の目が、じろりと動いた。
「金を出す前に地面を見るのは、商人の作法だ。帳面の上の街に金を出す阿呆がどこにいる。……それに、お前たち二人の目が要る。わしは金の目しか持っておらん。兵の目と、馬の目を貸せ」
というわけで、三人で城壁に登った。
登って、テオドールは、アードラズベルクとの違いを、あらためて骨で理解した。
低い——いや、低くはない。壁は立派だ。だが、その外が、どこまでも平らなのである。アードラズベルクは、背中に山を負い、前に海を抱き、壁は岩盤の上に立つ。攻め手は狭い回廊に押し込められ、湾に入れば砲台に囲まれる。あの街は、生まれつきの要塞だった。リヒテンフェルデは、違う。豊かな平野の真ん中に、街道が四方から流れ込む、交易のための街である。富むために生まれた地形は、守るためには、最悪だった。
「良い平地です」と、ライネルが皮肉でなく言った。「攻める側なら、ですが。騎兵ならどの方角からでも展開できます。遮るものが、何もない」
「二十年前、帝国が一晩で落とせた理由だ」と、レオンハルトが言った。「で、軍団長どの。これを守れと言われたら、何が要る」
テオドールは、壁の外の平野を、しばらく黙って見た。
「……壁を、もう一重。いまの壁の外に、稜堡付きの新市壁を回します。それから、水堀。幸い川が近い。引き込んで、新壁の外周に堀を巡らせる。平地で足りない高さは、水と土で作るしかありません。稜堡には融合砲。街道の取り付きには堡塁を四つ——最低でも、それだけやって、ようやく『時間を稼げる街』になります。落ちない街には、なりません。ここは、そういう地形です」
「時間を稼げれば、アードラズベルクから援軍が来る」と、ライネル。「要は、あの半島の軍港とここを、一本の縄で結ぶ発想ですね」
「結構」と、レオンハルトは頷き、懐から手帳を出して、しばらく無言で数字を書き付けた。書き終えて、出てきたのは、深い深い溜息だった。
「……新市壁と水堀と堡塁四つ。城壁修復とは桁が二つ違う。都市開発として大陸でも近年例のない普請だ。国庫は、知ってのとおり空に近い。復興公債は復興の分までしか売れん」
「では、どうします」
「商会が出す。全額だ」
あっさりと、その男は言った。テオドールとライネルが顔を見合わせるのへ、モノクルの位置を直しながら、続けた。
「言っておくが、慈善ではないぞ。わしは商人だ。国は買わん。——国に貸すのだ。壁と堀は、この街の信用そのものになる。信用の上でしか、商いは太らん。つまりこれは、大陸でいちばん確かな投資だ」
——後年、「新大公国の経済は、ファルケンハインの帳簿の中にある」と評される構図は、実にこの壁上の一言から始まるのだが、それはまた、別の話である。この男がやがて商会総裁の座を息子に譲り、精霊連邦王国の初代財務卿として大陸の金の流れを差配することになるのも——それも、まだずっと、先の話である。そして、後世の歴史家の幾人かが、この日の壁の上の出資の申し出から始まる一連の出来事を並べ直し、そこに一枚の盤面を見出して青ざめることになるのだが——それは、もっとずっと、先の話である。少なくともこの日、弟は兄の横顔に、気前のいい商人しか見ていなかった。
◇
防衛の話が済むと、レオンハルトの目の色が、変わった。金の目である。
「ここからが本題だ。壁は守りの話だが、街は守るために在るのではない。……地図を広げろ」
壁上の砲座の平らな石に、大陸図が広げられた。レオンハルトの指が、三点を突いた。アードラズベルク。リヒテンフェルデ。そして東の、ラ=フェオ。
「わしはいま、ラ=フェオとの交易路を拓いている。あちらの元首どのとは、話が早い。東の産物が来て、こちらの鉄と紙が行く。——で、その荷が、どこを通る。海路はある。だが陸路は、必ず、この街を通るのだ。アードラズベルクとラ=フェオを結ぶ線の、ちょうど結び目に、リヒテンフェルデはいる。陸の物流の、ハブだ。……それも、隊商宿と両替の宿場町という古い形では、終わらせん」
レオンハルトの指が、こつ、と地図を叩いた。
「——鉄道だ」
「例の、蒸気で車列を牽くという……」と、ライネルが目を細めた。
「商会で試験線を敷いておる、あれだ。本線を、この街に通す。設計は、こうだ。新しく築く壁の外側に、大規模な交易・運搬用の鉄道駅を置く。大陸中の荷は、すべてそこで降ろす——壁に穴を開けて本線を城内へ引き込むような間抜けは、せん。防衛と商いは、駅の壁一枚で仕切る。そして壁の内側には、駅から速やかに荷を運ぶための、小さな軌道を——トロッコの網を張り巡らせる。その網の結び目、街のへそに、中央交易所を建てる。荷は駅で降り、トロッコで壁をくぐり、交易所で値が付く。……そこが、新しいリヒテンフェルデの、経済の心臓になる」
「有事には、その駅がそのまま兵站の集積所になりますね」と、テオドールは地図の駅の位置を測りながら言った。「壁外なら、最悪、こちらの手で焼ける。トロッコの網は、城内の弾薬と負傷者の搬送に、そのまま使えます」
「軍人はすぐそれだ」と、兄は嫌そうな顔をして、それから認めた。「……まあ、そのとおりに設計させておる。壁と堀に払った金は、駅と倉敷と交易所の実入りで返ってくる寸法だ」
指が、南東へ滑った。
「それから、ここ。マレ=グラヴィス湾」
「あの海戦の……」
「そうだ。あそこは水深がある。……アードラズベルク郊外の造船所は、丸ごと軍港になってしまったからな。民間の船を造る場所と、商いの港が、こちらに要る。湾に新しい民間の造船所と交易港を整備する。そうなればリヒテンフェルデは、陸の結び目であると同時に、南東に海の口を持つ。ハブの完成だ」
「……壁の中で聞いていた『復興』と、ずいぶん景色が違いますね」と、ライネルが感心とも呆れともつかない声を出した。
「復興は、元に戻すことではない」と、レオンハルトは言った。「元より良くして、初めて弔いになるのだ」
それから、テオドールが、地図の北を指した。ずっと、指そうかどうか、迷っていた場所である。
「……兄上。ここは、どうなります」
街道沿いの、小さな点。焼かれて、地図の上では名前に線を引かれた村——スロテン。
壁上が、少し静かになった。テオドールの帳簿の、借方のいちばん深いところにある名を、二人とも知っているのだった。
「見てきた」と、レオンハルトが静かに言った。「集落の跡は、小高い丘になっておる。街道を見下ろす、良い丘だ。北へ行けば、帝国領。……つまりあそこは、帝国との間の、中継の要地だ」
「城塞に、向いています」と、ライネルも頷いた。「丘の肩に稜堡を回せば、北からの軍は、あの丘を無視して南下できません。リヒテンフェルデの北の盾になる」
「大公国軍の城塞を、置きましょう」と、テオドールは言った。声が、少しだけ揺れた。「焼かれて終わった場所のままに、しない。……あそこを、また、人の通る場所にする」
——その丘の城塞が、のちに和平の時代を迎えて市を許され、帝国との物流の中継地「自由都市スロテン」として大陸に名を知られるようになるのは、それこそ、ずっとずっと先の話である。ただ、この日の壁の上で、借方に沈んでいた名前の下に、初めて貸方の一行が書き込まれたことだけは、確かだった。
◇
帰り道は、わざと裏通りを選んだ。
表通りの活気に比べ、裏はまだ、傷が深かった。路地は狭く、風が通らず、焼け残りの梁がそのまま屋根を支えている一角もある。水はけの溝は浅く、井戸は遠い。都市の造り直しは、壁と港だけの話ではないのだった。レオンハルトは手帳に「裏路地——風・水・光」とだけ書き付けた。
「後回しにするなよ」と、テオドールは言った。「壁より先でもいいくらいだ」
「分かっておる。疫病は、砲弾より安く街を落とすからな」
その路地の奥で、洗濯物を干していた女が、竿の向こうからこちらに気づいて——笑って、会釈をした。隣の戸口から出てきた老人が、つられて帽子を持ち上げた。走り抜けた子供が二人、ライネルの長い脚の間を器用にすり抜けて、笑い声だけを残していった。
テオドールは、あの秋のこの街の目を、覚えている。うつろで、地面ばかり見ていた、あの目。
いまは、違った。傷だらけの路地の真ん中で、人々の目は、まっすぐにこちらを見て、笑うのだった。アードラズベルクの市場と、同じ目だった。壁も、堀も、港も、まだ図面のうえの話にすぎない。だが目だけは、もう、再建が済んでいた。
「……なあ、ライネル」
「はい」
「街っていうのは、石でできてるんじゃ、ないんだな」
「いまさらですか」と、副官は笑った。「軍団長どのは、時々、良いことを言いますね。教範に載せておきましょう」
夕暮れの大公宮に、灯がともり始めていた。窓のひとつに、白い前掛けの影がよぎった気がして、テオドールは笑った。式は、三日後である。




