第52話「冠は枝から」
ファルケンハイン商会の第三倉庫は、その朝、質屋と教会堂と博物館を一緒にしたような有様になっていた。
リヒテンフェルデ行きの船荷が、組まれているのである。行き先は旧大公宮——精霊祭の即位式に向けて、式に要るものを先に運び、向こうで準備を進める。差配はセリナ。護送の段取りは軍の仕事で、テオドールは打ち合わせのために倉庫へ来て、そして、荷の中身に足を止めたのだった。
燭台が、あった。七枝の、銀の燭台である。
「三日前に、川向こうの婆様が持ってこられました」と、セリナが言った。「炎の夜、大公宮の下働きだった方です。竈の下に埋めて、二十年、灯りを入れずに守っておられた。……姫様がお帰りになったと号外で知って、その日のうちに、掘り出されたそうです」
燭台だけではなかった。祭服の帯。儀式の聖句本。精霊樹の紋の入った杯。二十年前の夜に散り散りになったはずの品々が、号外の日からこちら、毎日のように倉庫の戸を叩くのだという。質屋の主人が、二十年間だれにも売らずに抱えていた大公家の指環を、値札を外して置いていった。名乗らずに帰る者が、半分いた。
「帳場としては困るのです」と、居合わせたマルクが、困っていない顔で言った。「受取証を切ろうにも、宛名がない。……仕方がないので、こう書いております。借方、祭器一式。貸方——二十年、と」
その朝いちばんの珍客は、腰の曲がった老人だった。差し出されたのは、祭器ではない。一冊の、古い本である。表紙の裏に、大公宮文庫の蔵書印。貸出札の日付は——二十年と、四か月前。
「……炎の夜の、三日前に借りましてな。返しそびれて、それきりで。……ずっと、気になっとりました。返す先が、なかったもんで」
セリナは、両手でそれを受け取り、深く一礼した。
「確かに、お返しいただきました。——延滞の料は、頂きません。期限の内です。文庫は、閉まっていただけですから」
老人が何度も頭を下げて帰っていくのを見送りながら、テオドールは、城壁の上で聞いた言葉を思い出していた。貸した本が返ってくると、子供が信じられる国。……その国は、どうやら、造る前から少しずつ始まっているらしかった。
テオドールは、荷の目録を繰って、ふと、気づいた。
「セリナさん。冠が、ありません」
「はい」と、セリナは静かに頷いた。「冠は、戻りません。炎の夜に、帝国が持ち去りました。溶かされたと聞いています」
「では、新調を——」
「いいえ」
セリナは、初めて少し笑った。
「リヒテンヴァルトの冠は、金物ではないのです。代替わりのたび、精霊樹の若枝を編んで、新しく作るのが古式。金の冠は、その若枝の冠を保つための、外側の器にすぎません。器は失われましたが、中身は失われようがない。……即位式の朝、リヒテンフェルデの精霊樹の若枝で、私が編みます。髪と同じです。編むのは、得意ですから」
◇
救護院では、その頃、選別が行われていた。
選ばれるのは、後任である。アルモナが去ったあと、救護院を預かる者。院の理事たちは席次と経歴の一覧を作って持ってきたが、アルモナはそれを丁寧に脇へ置いて、まったく別のやり方を始めた。候補の三人に、いつもどおりの朝の回診を、いつもどおりにやらせたのである。本人は廊下の隅から、黙って見ていた。
テオドールが護送計画の署名を貰いに立ち寄ったのは、ちょうどその最中だった。
「……何を見ているんです」
「手」と、アルモナは廊下の隅から目を離さずに答えた。「経歴は嘘をつくけど、手は嘘をつかないの。ほら、あの子」
視線の先で、年かさの候補が、手際よく包帯を替えていた。速い。綺麗だ。だが患者の顔を見ていない。その隣の病室では、小柄な娘が、包帯を替える前に、まず患者の冷えた足先に自分の手を当てて温めていた。手際は、二番目。説教は、一番うるさい。夜更かしの咎を、院長候補の身で患者と一緒になって叱られている。
「あの子ね」と、アルモナは言った。「リーゼ。……私の説教の型を、全部盗んでいったの」
「型を盗まれた師匠は、廊下で暇そうですが」
「師匠はこれから、もっと大きな救護院を預かるのよ」と、彼女は言った。「国っていう名前の。……患者が多くて、嫌になるけど」
私物の整理も、進んでいた。二十年分の荷物は、驚くほど少なかった。本が数冊。櫛がひとつ。そして白い前掛けが、二枚。一枚は、リーゼに譲る。もう一枚は——
「持っていくの」と、彼女は当然のように言った。「リヒテンフェルデにも、病人はいるもの。大公は、兼業禁止って書いてある?」
「書いてあっても、あなたは読まないでしょう」
「よく分かってるじゃない」
◇
軍議は、市庁舎の小会議室で開かれた。
ヴィルヘルム、クルーガー、テオドール、それにヴェストハーゲン。議題は一枚の紙に一行だけ——大公国となった際、軍は誰のものになるか。
「兵の気持ちは、決まっとりますな」と、クルーガーが先に言った。「姫様に宣誓したい。あの芽吹きを見た兵で、そう思わん者はおらん。宣誓の宛先が人であることの強さを、わしは四十年、見てきました。兵は理屈では死にません。人のためになら、死にます」
「その強さが、二十年前に何を作ったか」と、ヴィルヘルムが静かに返した。「皇帝の軍だ。人に宣誓した軍は、人と共に狂う。皇帝が老いれば軍も老い、宰相が壟断すれば軍は玩具になった。……わしらはその軍と戦って、ここにいる」
「では元帥は、議会に宣誓させると? 紙に宣誓した兵が、砲火の下で紙のために踏み止まりますかな」
卓が、しばらく黙った。口を開いたのは、テオドールだった。
「——三つに、分けてはどうですか」
二人の視線が集まる。テオドールは、国体会議の議事録の写しを卓に置いた。
「憲章と、大公と、議会です。国の一番上には、憲章を置く。あの日、彼女が言った約束を、条文に書き下ろしたものです。大公は、その憲章の下に立つ——国の象徴にして、統帥の名義。軍は『大公の名において』動きますが、大公個人が軍を私することは、憲章が許しません。……クルーガー閣下の言われた『人に付く強さ』は、この名義が引き受けます。兵は紙のためには死にませんが、大公の名の下でなら戦える。そして、その名は、約束に縛られている」
「して、軍そのものの手綱は、誰が」
「国体会議が握ります。平時の常備軍は、国体会議の承認なくしては、維持できない——そして、その承認には、期限を付けます。一年です。軍の存立と軍律を定める法を、毎年、審議して更新する。更新されなければ、軍は法の上から消える。……軍というものは、置きっぱなしにすると、必ず誰かの私物になります。だから毎年一度、国中に問い直させるんです。この軍は、まだ約束の道具か、と」
「一年ごとに首の懸かる軍隊、ですか」と、クルーガーは渋い顔で髭を撫で、それから、髭の奥で唸った。「……いや、悪くありませんな。兵が仰ぐのは姫様の名。飼い葉の出所は議会。首輪の革は憲章。——三本の綱で繋がれた犬は、狂いにくい。……ただし」
老将は、自分の喩えを自分で引き取った。
「戦のさなかに、審議だの承認だのと言うておられますかな。砲弾は、議事日程を待ちませんぞ」
「だから、戦時条項を置きます」と、テオドールは頷いた。「国体会議が戦争状態を宣言したら、その瞬間から、軍の指揮・編成・動員の全権は、大公に集約する。年次の審議も承認も、戦時は止まる。軍は、一つの意志で動く。——そして、講和を、つまり戦争状態の終わりを宣言するのも、国体会議です。宣言と同時に、大権は自動で消えて、平時の首輪に戻る。入口と出口は議会が握り、戦いの中身は大公が握る。……逆にしては、いけません。入口を君主ひとりが握った国が、二十年前、何をしたか」
「奇襲への応戦権だけは、常設としましょう」と、ヴェストハーゲンが帳面に書き加えた。「撃たれてから議会を招集していては、遅い。応戦は宣言を待たず、事後の承認とする——ここまで書けば、穴はありません」
「兵の目に見える形も、要ります」と、テオドールは付け足した。「新しい連隊旗を、即位式で大公から各連隊に親授する。旗には大公の紋と、憲章の第一条を一句、縫い込む。兵が戦場で見上げるのは条文の綴りではなく、その旗です。——人と紙の両方が、旗の中にいる」
「軍籍簿の書き換えは月内に終えます」と、ヴェストハーゲンが帳面を繰った。「都市軍から大公国軍へ、四万七千名。……名簿の表紙だけは、良い紙を使いましょう。誓う紙ですので」
残る論点も、順に片付いた。解放地の部隊は望む者のみ大公国軍へ、残る者は郷土守備隊として地元に置く——故郷を離れたくない兵に、離れない忠義の形を用意する。精霊独立旅団は憲章にも大公にも属さず、盟約に属すると明記する——アルダ大佐からの、唯一にして絶対の要望だった。「精霊は、人の書いた紙に署名しません。ですが、約束という考え方には、たいへん好意的です」というのが、旅団長の言い分である。海軍は、ブラムからの返書が一行だけ届いた。曰く——海の上では前から約束にしか従っておらん。潮と、約束にだ。
ヴィルヘルムは最後まで多くを言わず、散会の間際、一言だけ付け足した。
「……二十年前、わしらが戦った帝国の軍は、誰にも問われぬまま、置きっぱなしにされた軍だった。皇帝は問わず、宰相は答えず、軍は肥えて、いつのまにか主を食っておった。——毎年、問え。問われるたびに痛いのは、生きて健全な証拠だ」
◇
そしてその全部に、値札を付けている男がいた。
商会本館の奥、レオンハルトの執務室である。モノクルの奥の目が、算盤と帳面の間を何往復もして、卓の上には費目の紙が扇のように広がっていた。城壁修復の残り。ユンクバウム級二番艦三番艦。小銃更新、月産四百丁分の鋼。リヒテンフェルデ大公宮の修復。救護院の拡張。そして、即位式。
「……復興というのはな、テオドール」と、当主は顔も上げずに言った。「詩人が書くと『灰からの再生』だが、わしが書くと十一年分の分割払いだ。解放地の税は三年免除と決めた。ならば当座の金は借りるしかない。戦時公債を、復興公債に切り替えて売る。利率はしぶく、償還は正直に。……信用とは、しぶくて正直なことだ」
「即位式の費目が、ずいぶん安く見えますが」
「安いのだ」と、レオンハルトは初めてモノクルを上げた。「祭器は民が返しに来る。宮の掃除は解放地が申し出た。冠に至っては——材料費、枝。……セリナ殿に見積もりを訊いたら、そう返ってきた。値の付けようがないものばかりで式が組み上がっていく。帳簿屋として、こんな決算は初めてだ」
マルクが、無言で一枚の紙を差し出した。祭りの日の損害届の束——転がされた酒樽、割れた硝子、踏まれた屋台の勘定である。レオンハルトはそれを一瞥し、費目の欄に、さらりと書き入れた。
「損害ではない。配当と書け。二十年物の配当だ、安いものだ」
テオドールが辞去しかけた、その時である。扉が鳴って、リヒテンフェルデからの早馬の報せが届いた。マルクが封を切り、読み、そして、珍しく声を詰まらせた。
「……大公宮の焼け跡の、整理が始まっております。玉座の間の、崩れた梁の下から——剣が、出ました」
部屋が、静かになった。
「柄に、鷹の意匠。刃こぼれは、数え切れず。……銘は、人の名では、ございません。刀身の根元に、二つ名が一つ。——『最後の壁』」
部屋の空気が、変わった。レオンハルトのモノクルが、ゆっくりと下ろされた。テオドールだけが、その銘を知らなかった。
「……坊ちゃまの生まれる前の話です」と、マルクが静かに言った。「大陸の傭兵たちの間には、名乗りの掟がございました。二つ名は、自分では付けられない。敵が付けるのです。——殿を務めて、一度も破られたことのない男。その銘を刀身に刻むことを大陸中の傭兵が認めた剣士は、後にも先にも、お一人しかおりません」
殿軍の剣である。二十年、燃え落ちた梁の下で、主と一緒に踏み止まっていた剣である。
その夜、剣は絹に包まれて、ヴィルヘルムのもとへ届けられる手筈が組まれた。テオドールは、父がそれを受け取る瞬間を、見ないでおこうと決めた。見てはいけないものが、この世にはある。ただ、翌朝の食卓で、父は一言だけ言った。
「……即位式には、あれを持っていく」
剣で貰ったものは、返すときも剣で返す。二十年遅れて家に帰ってきた剣は、もう一度だけ、主の孫たちの門出に立ち会うことになる。




