第51話「玉座の芽吹き」
救護院の朝は、いつもどおりに始まった。
夜明けの検温。白湯の配り。包帯替えの列。白い前掛けの人は、いつもどおりに病室を回り、いつもどおりに、夜更かしの咎を三人ほど説教した。違っていたのは、ただ一つ——その髪が、見たこともないほど丁寧に、編み上げられていたことである。
編んだのは、付き添いの、銀白の髪の人だ。夜明け前、救護院の奥の小部屋で。銀の櫛が通るたび、窓の光が編み目の中へ織り込まれていくようだった、と——戸の隙間から覗き見していた看護の娘たちは、のちのちまで語り草にした。
回診の最後の寝台で、足を折った屋根葺きの少年が、訊いた。
「アルモナさん、今日、なんか綺麗だね。どこか行くの」
「うん」と、白い前掛けの人は、少年の額に手を当てたまま、こともなげに答えた。
「名前を、取りに行くの」
「……? 名前なら、あるじゃん」
「もっと古いのが、あるのよ。——熱、下がったね。えらい。でも今日は、まだ寝ていること」
院の門で、彼女は前掛けの紐に手をかけ、少し迷って、結んだまま歩き出した。セリナが、焦げ跡の残る小さな肩掛けを胸に抱えて、半歩後ろに続いた。市庁舎への道すがら、沿道の人々は、まだ、何も知らない。
◇
三日目の議場は、立錐の余地もなかった。
開会と同時に、精霊信仰の席から、セリナが登壇を求めた。銀白の編み髪、深青のローブ、精霊石の長杖。精霊術大隊長として街を守ったその人が壇に立つと、議場は水を打ったようになった。
セリナは、二十年前の夜の話をした。
燃える都。大公一家の粛清。妃殿下と共に、三歳の姫を抱いて下水路を抜けたこと。道の途中、追手の剣から姫を庇って、妃殿下が動かなくなったこと。焦げた肩掛けが、証拠として卓に置かれた。銀糸の精霊樹の紋を、系図学者が震える手で検分した。
「姫は、生きております。この二十年、皆さまの目の前で、生きてこられました」
どよめきが、議場を揺らした。名を言え、どこにおられる、と声が飛ぶ。そのとき、軍側の席から、ヴィルヘルムが立った。
剣聖は、壇に登らなかった。席の前に立ったまま、静かに話した。
「わしの父の話をする。……オトマー。傭兵将校として大陸に名を馳せ、その剣をリヒテンヴァルト大公家に認められて、伯爵に叙された男だ。血ではなく、剣で貰った爵位だった。あの夜、父は大公家の臣として、都にいた。逃げる時間は、あった。だが父は、妃殿下の一行を逃がすために、殿に立った。——剣で貰ったものは、返すときも剣で返す。わしが父について知る最後のことは、その背中だ」
誰も、音を立てなかった。
「数日ののち、わしの家の戸を、傷だらけの侍女が叩いた。腕の中に、熱を出した幼子がいた。……わしは、その子を娘として育てた。名を変えず、素性だけを伏せて。隠すことが、守ることだった時代だ。帝国は、大公家の血を探していた。見つけるためではない。絶やすためにだ」
ヴィルヘルムは、そこで初めて、傍聴席の方を見た。
「二十年経った。街は勝ち、壁は建ち、軍は形を持った。……時代が、変わったのだ。今日からは、隠すことではなく、名乗ることが、守ることになる。——入られよ」
大広間の扉が、開いた。
白い前掛けは、していなかった。畳んで、入口でセリナに預けたのだと、あとで聞いた。飾りのない外套のまま、彼女はまっすぐに、馬蹄形の席の間を歩いた。ざわめきが、波のように彼女の前で割れ、後ろで閉じた。あの人だ、救護院の、ファルケンハインの養女様が、まさか、という囁きの中を、彼女は急がず、俯かず、歩き切った。
空の玉座の前で、彼女は止まった。
二日間、一度も見なかったものを、初めて、正面から見上げた。
それから、手を伸ばし、背もたれの精霊樹の彫刻に、指先で触れた。
「——リヒテンヴァルトの血、アルモナ。……ただいま、帰りました」
樹が、応えた。
古びた金箔の下から、燐光が滲んだ。彫られた枝の先に、彫刻ではない、本物の若葉が——淡い緑の、生きた芽が、次々にほどけていく。光る葉脈が広間の天井へ枝影を投げ、どこからも風は入らないのに、議場の空気が、森の朝の匂いになった。
精霊信仰の席で、巫女たちが一斉にひざまずいた。
「術では、ありません」と、セリナの声が、静寂に落ちた。「私にも、どの術師にも、これはできません。これは術ではなく、盟約です。始まりの精霊樹は、リヒテンヴァルトの血にしか、応えません」
一拍の、完全な静けさ。
最初に泣いたのは、あの鍛冶職人の議員だった。次に、ギルドの顔役が帽子を握り潰し、銀行組合の代表が眼鏡を外し、そして議場は——割れた。歓声、というものではなかった。二十年分の何かが、一度に決壊する音だった。誰かが名を呼び、隣がそれに和し、呼び声は唱和になり、唱和は議場を出て、廊下へ、広場へ、屋根の葺き替えの足場の上へ、伝染するように広がっていった。
アルモナ様。アルモナ様。アルモナ様——
壇の下で、ヨルク翁が杖にもたれ、天井を仰いで、長々と息を吐いた。
「……二十年、待った甲斐が、あったわい」
テオドールは、軍側の席で、立ち尽くしていた。
万の声が、一つの名前を呼んでいた。点呼のようだ、と思った。長い、長い、二十年がかりの点呼。呼ばれ続けて、ようやく今日、返事のある名前。
玉座の前の人が、振り返った。
万の声の中から、迷わず軍側の席を——テオドールを見つけて、彼女は、口の動きだけで言った。
——はい、ここに。
呼び終い、である。
◇
唱和が収まるまでに、四半刻かかった。
収めたのは、ヨルク翁の杖である。老議長は三度、床を突き、涙で濡れた議場に、事務的な声を張った。
「——静粛に。歓喜は勝手じゃが、議事は手続きじゃ。動議を諮る」
動議は、一つだけだった。リヒテンヴァルト大公家の正統、アルモナ様を、大公位に推戴する——採決は、挙手ですらなかった。全員が、立ったのである。軍服も、ローブも、職人の前掛けも、松葉杖の傍聴人までも。書記が慌てて走らせた議事録には、のちの教科書にそのまま載ることになる一行が残った。
——起立、全員。反対、なし。
玉座の前で、アルモナは、深く一礼した。
「お受けします。……ただし、約束を一つ、この場で。私が作りたいのは、玉座のある国ではありません。約束が守られる国です。貸した本が、ちゃんと返ってくると、子供が信じられる国です。それができないのなら、この椅子に、私が座る意味はありません」
拍手が、また長かった。即位の式典は精霊祭に合わせること。国の名の議論は、新体制の下で改めて起こすこと——手続きが、次々に決まっていく。議事が締まり、ヨルク翁が閉会の杖を持ち上げた、そのときである。
「——あの。もう一つだけ、ご報告が」
玉座の前の人が、小さく手を挙げた。議場が、再び水を打った。まだ何かあるのか。二十年の秘密の上に、まだ、何か。
テオドールは、嫌な予感がした。予感は、当たった。
「私、婚約しております」
議場の空気が、止まった。
「お相手は、第二軍団司令官——テオドール・フォン・ファルケンハイン大将です」
止まった空気が、砕けた。
最初の音は、クルーガー上級大将の、腹の底からの大笑いだった。次が、議場全体。テオドールは軍側の席で、耳まで赤くなって固まっていた。順番、というものがあるのではなかったのか。名前が帰ってから、と言われたはずではなかったのか——恨みがましく父の席を見ると、ヴィルヘルムは額に手を当てて、天井を仰いでいた。剣聖が敵前でも見せたことのない姿だった。
隣で、ライネルが囁いた。
「……ご報告の作法としては、教範なら零点ですね」
「あの人に、教範はない」
答えながら、テオドールは観念して立ち上がり、万雷の中で、一礼した。もう、笑うしかなかった。玉座の前の人は、してやったり、という顔をしていた。二十年、秘密を抱えて生きてきた人は——秘密を手放す日の身軽さも、誰より知っているのだった。
◇
祭りを、決めた者は、誰もいない。
だが、鐘が鳴ったのである。どこかの教会堂が祝鐘を撞き、隣の鐘楼が釣られて応え、正午には、市中の鐘という鐘が鳴っていた。市場は勝手に店じまいして酒樽を転がし出し、壁の上の桟敷には楽士が上がり、練兵場の六本の若木の周りでは、誰かが始めた輪舞が、止まらなくなっていた。姫様が帰った。姫様は救護院の、あの前掛けの人だった。おまけに婿は、うちの街の若大将だ——噂は号外より速く走り、号外は夕方、追いついた。
菓子売りの親父は、その日、商売人生で初めての愚行に及んだ。
「祝いだ! 今日はタダだ! 持ってけ!」
干し無花果が、宙を舞った。半年前、砲声の下でも銅貨を数え続けた男の、それが精一杯の忠誠だった。
夜。テオドールとアルモナは、方々で祝われ、揉みくちゃにされた末に、西の壁の上へ逃げ延びた。修復の継ぎ目のところ。眼下の街は、祭りの灯で、川のように光っていた。
「……怒ってる?」と、アルモナが訊いた。
「教範を、書き直しているところです。第一条——あの人の『もう一つだけ』は、信用しないこと」
「ふふ。……ねえ、テオ」
彼女は、灯の川を見下ろしたまま、いつもの問いを口にした。
「戦が終わったら、何をする?」
テオドールは、少し考えて、初めて、答えを変えた。
「——もう、始まっている気がします」
街の灯は、夜が更けても消えなかった。二人の分まで、いつまでも、笑っているようだった。




