第50話「王女の名前」
国体会議、二日目は、朝から荒れた。
「系図です。系図を洗うべきだ」と、銀行組合の代表が言った。「大公家の縁戚は、大陸中に散っている。傍系でも、四親等までなら——」
「傍系の四親等に、二十年間、この街の雨に打たれた者がおりますか」
ギルドの顔役が卓を叩き、精霊信仰の席の端から、若い巫女が立ち上がった。
「精霊は、血を覚えています。始まりの盟約は、リヒテンヴァルトの血と結ばれました。紙の系図では、精霊は頷きません」
「では、どうしろと」
「探すのです。血を。大公家の血を——」
その言葉は、もう誰のものでもなかった。蜂起の夜にリヒテンフェルデの広場で唱和され、休戦の半年、市場でも酒場でも囁かれ続けた言葉が、いま、議場の正式な議事録に載ろうとしていた。捜索団を立てよ。系図学者を雇え。大陸中の孤児院と修道院に問い合わせを——案は際限なく増え、そのすべてが、議場の奥の空の玉座に向かって喋られていた。
テオドールは、軍側の席で、手のひらに爪を立てていた。
探すまでもない。
血は、ここにいる。傍聴席の端、白い前掛け。今朝も救護院の朝の検温を済ませてから来た人。その人の席から、玉座は今日も、一度も見られていない。
昼を過ぎて、ヨルク翁が杖で床を突いた。
「——止まらん議論は、腹が減っとる証拠じゃ。一次休会。頭を冷やして、飯を食え。……探す話は、探される者の身にもなって、続きをやるがええ」
老人の目が、一瞬だけ、どこを見たか。テオドールには、分かった気がした。
◇
傍聴席から白い前掛けが消えたのに気づいて、テオドールは廊下を出た。
行き先は、考えるまでもなかった。
西の城壁の上、修復の継ぎ目のところ。新しい石と古い石の色がまだ馴染まない、その境目に、彼女は立っていた。半年前、二人で敵の陣営火を数えた場所である。いまは眼下に、屋根の葺き替えの槌音と、市場の呼び売りと、練兵場の若木が六本、午後の風に揺れているのが見えた。
「……逃げてきたの」と、アルモナは先に言った。「議場に、私の話をする人が多すぎて」
「俺も逃げてきました。俺の隣で、俺の義姉さんの話をする人が多すぎて」
彼女は小さく笑い、それから、長いこと黙って街を見ていた。テオドールも黙っていた。この人の沈黙を急かさないことだけは、二十一年の人生でいちばん上手になった気がする。
やがて、彼女の方から、いつもの問いが来た。
「テオ。……戦が終わったら、何をする?」
「義姉さんの答えを、先に聞きたい」
「焼かれた村に、図書館を」
いつもの答えだった。だが今日は、そのあとに、初めて続きが足された。
「——ずっと、それで終わりにしてきたの。でもね、気づいてしまった。図書館には、屋根と本のほかに、要るものがある。約束を守る国が要るの。貸した本が返ってくるって、子供が信じられる国が。……それがないと、図書館はただの、本の置き場所」
「…………」
「それとね。もう一つ、気づいてしまったことがあるの」
彼女は、少しだけ声を落とした。白状する声だった。
「想像の中の、その図書館にね。……いつも、あなたがいるの。梯子の上で、高い棚の本を取ってくれたり、閉館の鐘を鳴らしたり、窓口で子供に貸出の帳面を書かせたり。頼んでもいないのに、想像するたび、勝手にいるの。……ずっと前から。たぶん、戦の前から」
「…………」
「議場のあの椅子、空いているでしょう。空いているあいだ、みんなが椅子の話をするの。誰が座るか、血はどこか、探せ、探せって。……あの椅子が埋まらないと、この国は、明日の話が始められない」
風が、二人の間を抜けた。
「怖くないと言ったら、嘘になる」と、彼女は続けた。「名乗ったら、救護院のアルモナは、死ぬかもしれない。包帯を巻いて、寝ろ寝ろと叱って、それで一日が終わる私は——」
「死にません」
テオドールは、遮った。遮ってから、自分の声が思ったより大きかったことに、少し狼狽した。
「……名乗っても、あなたはあなただ。玉座に座った次の日も、あなたは誰かの熱を測ろうとして、周りを慌てさせるでしょう。それは、私が保証します。二十一年、隣で見てきた者として」
「あら。十八年よ。あなたが三つまでは、隣にいなかった」
「十八年、訂正します」
彼女は笑った。笑って、それから、笑いを畳んで、まっすぐにテオドールを見た。
「私、決めたの。明日、名前を返してもらいに行く」
「……はい」
「セリナに言って、証人に立ってもらう。ヴィルヘルム様にも。それで、足りないところは、血が自分で証を立てる。……方法は、あるの。教わったことは、ないけれど、知っているの。あの樹の起こし方を。手が、覚えてる」
テオドールは頷いた。頷いてから、言うべきことを言った。押すなら、いまだと思った。
「私は明日、軍の席から見ています。あなたが名乗る前に議場がどう転んでも、誰に何を言われても——あなたの背中側は、私が持ちます。安心して、前だけ向いてください」
「背中側、ね」と、彼女は呟いた。「軍人さんの言い方」
「軍人ですから」
「じゃあ、その軍人さんに、一つ、条件があるの」
彼女は前掛けの端を、指先で少し握った。それは、彼女が言いにくいことを言うときの、幼い頃から変わらない癖だった。
「私が——女大公に、なるのなら」
声は、震えなかった。
「あなたが、大公夫として、いてほしい。隣に。……王女と臣下でも、義姉と弟でもなくて。私が私の名前に帰るのなら、その名前の隣にいる人は、私が選びたいの。それも、明日、決めてしまいたいの」
城壁の上を、鳥が二羽、渡っていった。
テオドールは、返事をした。考えるより先に、口が動いた。名を呼ばれたら返事をする。半年、そういう軍隊で生きてきたのだった。
「はい」
「……返事が、早い」
「果断速攻が私の代名詞です。」
アルモナは、声を立てて笑った。それから、笑いながら少し泣いて、泣いたことを誤魔化すように、街の方を向いた。夕陽が、新しい石と古い石の色の差を、ゆっくりと均していった。
「義姉さん」
呼びかけて、テオドールは、その呼び方を、途中で仕舞った。
「——アルモナ。俺からも、言わせてください。半年前、敵の元帥と、妙な話をしたんです。戦が終わったら何を、と訊いたら、婚約者だ、と即答した人でした。どうやって射止めたのかと重ねて訊いたら、こう言った。——後悔はしたくない、と言って申し込んだ。退路を全部自分で断ってから、突撃した。教範なら零点だ、と」
「……あなたの、好きそうな話」
「ええ。半年間、ずっと残っていました。あの人が羨ましかった理由を、考えないようにしながら」
テオドールは、息を吸った。号令の前の吸い方だった。
「だから、俺も教範なら零点のやり方をします。さっきの『はい』は、点呼の返事でした。ここからは、僕の言葉です。——僕は、あなたの図書館を、隣で見たい。義姉さんとして半歩前を歩くあなたじゃなく、隣に立つあなたを、見ていたい。大公夫でも、旗持ちでも、梯子持ちでも、肩書は何だっていい。想像の中の梯子の上の男は、俺です。ほかの誰かでは、後悔します。隣だけは、誰にも譲りたくない」
アルモナは、目を丸くして、それから、前掛けの端を握ったまま、俯いて小さく言った。
「……ずるい。私が先に言ったのに、あなたの方が、ちゃんと言うんだもの」
「教範が、ないので」
「ないわね。これには、ない」
二人は、どちらからともなく笑った。夕陽は、もうほとんど落ちていた。
「戦が終わったら、図書館を建てましょう」と、テオドールは言った。「二人で」
「ええ。——約束を守る国も、一緒に」
◇
その夜の、ファルケンハイン家の食卓である。
献立は、いつもと同じだった。豆と腸詰のスープに、黒パン、秋の初物の林檎。給仕を済ませたマルクが下がり、ヴィルヘルムが黙って匙を動かす、いつもの静かな食卓——のはずだった。だが今夜は、匙の音がやけに大きい。テオドールとアルモナが、席に着いてから一度も口を利いていないからである。
先に匙を置いたのは、アルモナだった。
「お義父様。……お話が、あります」
「聞こう」
「明日、国体会議で、名乗ります。私の名前を、返してもらいに行きます」
ヴィルヘルムは、匙を置いた。葡萄酒をゆっくり一口飲んで、それから、言った。
「……そうか」
それだけだった。驚きも、問い返しもなかった。二十年育てた人の返事は、二十年ぶんだけ、短いのだった。
「止めないのですか」と、テオドールは思わず口を挟んだ。「僕は、説得の口上を三つ、用意してきたのですが」
「言ってみろ」
「一つ。時代が変わりました。もう、隠すことより名乗ることが、この人を守ります。二つ。空の玉座が議場を縛って、国の設計が一歩も進みません。三つ——」
「三つ目は」
「……この人が、そう決めたからです」
「三つ目だけでよい」と、ヴィルヘルムは言った。「上の二つは、明日、わしが議場で言う。おまえは三つ目だけを、持っておれ」
食卓が、少しだけ緩んだ。アルモナが息をつき、林檎に手を伸ばしかけた——そのときである。
「——で」と、剣聖は言った。「もう一つの報告は、いつ聞ける」
林檎が、皿の上で止まった。
「な……何の、ことでしょう」
「ほう。では何もないのだな。今日の昼、西の壁の修復の継ぎ目に半刻も並んで立って、鳥が二羽渡るのを眺めておった二人組の話は、わしの見間違いか」
「————」
「見えて、いたのですか」と、テオドールの声が裏返った。「あの距離が」
「壁の検分をしておった。老眼だがな、遠くは、よく見えるのだ」
アルモナは耳まで赤くなって俯き、テオドールは、口上を三つも用意した自分が、肝心の報告の口上を一つも用意していなかったことを悟った。気まずい沈黙に、匙の音が戻りかけ——扉が開いて、マルクが盆を掲げて現れた。盆の上には、埃を払ったばかりの、古い年号の葡萄酒。
「……たまたま、開けごろの一本がございましたので」
「たまたま、か」
「はい。二十年ほど前から、たまたま、この日のために取ってございました」
家宰は澄ました顔で三つの盃を満たした。ヴィルヘルムが盃を上げ、乾杯の辞は、一言だった。
「——明日、帰ってくる名前に」
盃が触れ合った。剣聖は一息に干して、それから、赤いままの二人へ、付け足した。
「もう一つの報告とやらは、名前が帰ってからでよい。物事には、順番がある。……だが」
初めて、少しだけ笑った。
「案ずるな。家族の帳面には、もう書いてある」
◇
その夜、遅く。研究所の奥の部屋で、セリナ・フォン・アルトリースは、いつものように髪を編み直していた。
二十年、欠かしたことのない手順である。銀白の髪をほどき、梳き、編み上げる。炎の夜からこちら、この手順の間だけ、彼女は思い出すことを自分に許してきた。抱えた三歳の重さ。背中で燃えていた都。道の途中で動かなくなった、妃殿下の最後の手の力を。
扉が、叩かれた。そして、返事を待たずに開いた。この世でそれをするのは、ただ一人である。
「セリナ、まだ起きてた? よかった」
白い前掛けのままの人は、勝手に入ってきて、勝手に寝台の端に腰を下ろした。子供の頃から、変わらない。この部屋に入るとき、あの方は行儀というものを、廊下に置いてくるのだ。
「またそんな時間まで。明日も検温の番でしょう、姫——アルモナ様」
「様も禁止。この部屋では」
言うなり、彼女はセリナの手から櫛を、するりと取り上げた。
「ね、今夜は私が編む。いつも編んでもらってばかりだったから、たまには」
「え。あの、おそれなが——」
「はい、後ろ向いて」
押し切られた。この方に押し切られて負けるのは、セリナの一番古い癖である。背中で、慣れない手つきが銀白の髪を三つに分け、ゆっくりと編み始めた。——子供の頃、熱を出して眠れない夜のこの方に、髪を編んで見せたものだった。眠れない夜は、編み目を数えるのですよ。数え終わる前に、いつも小さな寝息が聞こえた。
「ねえ、セリナ。覚えてる? 眠れない夜は、編み目を数えるの」
「覚えております」
「私ね、昨日の夜、数えたの。ぜんぶ数えても、眠れなくて。……それでね、決めたの」
編む手は、止まらなかった。声だけが、静かに改まった。
「明日、私の名前を、返してもらいに行きます。——証人に、立ってくれますか」
セリナは、しばらく動けなかった。背中では、不器用な指だけが動き続けていた。二十年前、燃える都で抱えたあの重さが、いま、背中で自分の髪を編んでいる。その二つのことが、一つに繋がるまでに、少し、時間がかかった。
「……編み目が、揺れておりますよ」と、セリナはやっと言った。「泣くのでしたら、手を止めてからになさいませ」
「泣いてない。……ちょっとだけ」
編み終わるのを待って、セリナは立ち上がり、部屋の奥の櫃を開けた。二十年、誰にも見せなかったものが、そこにある。焦げ跡の残る、小さな肩掛け。炎の夜、三歳の姫をくるんでいた布。リヒテンヴァルトの精霊樹の紋が、隅に銀糸で縫い取られている。
「明日、これを議場へ持って参ります。それから——」
膝を、つこうとした。二十年、堪え続けてきた作法である。その肩を、アルモナの両手が押さえた。
「だめ。それも禁止」
押さえた手に、力がこもった。
「明日からは、みんなが私に膝をつくの。頭を下げて、様をつけて、少しずつ、遠くなっていくの。……だから、今夜だけは、いつものセリナでいて。膝をつかないで、説教をして、編み目を数えて。——私の、お姉ちゃんの顔で、いて」
セリナは、膝をつく代わりに、両腕を広げた。
三歳のときと、同じ抱き方だった。重さだけが、二十年ぶん、増えていた。
「……明日の朝は、私が編みます」と、耳元で、震える声が言った。「あなたさまの髪を、世界で一番、きれいに。それが済んだら、二十年ぶりに、あの夜の続きの仕事をいたします。——お名前を、お呼びする仕事を」
「うん」
「お許しくださいね、姫様。……今夜が、その呼び方の、最後の稽古でございます」
灯りが落ちたあとも、部屋の中では、編み目を数える声が二つ、しばらく重なっていた。




