第49話「空の玉座」
アードラズベルクの湾を出て、外海を半刻。鉤の形に突き出した半島の内側に、その軍港はある。
ファルケンホルスト——鷹の巣、である。
もとは、ファルケンハイン商会海洋部門の造船所だった。大陸中の海を回る商船団を、造り、直し、また送り出すための施設である。だから規模の桁が、軍の常識と違った。乾ドックが、大小合わせて二十四。うち戦列艦級の大型船台が十——帝国海軍工廠の、総数で三倍、大型に限れば五倍という勘定になる。軍が民間に勝てないものの筆頭は、昔から、金と桁なのだった。
休戦下の再編で、この造船所は丸ごと、海軍の基地に生まれ変わった。三方を海に囲まれ、付け根は狭い地峡が一本——もとから守りやすい地形である。地峡には壁と稜堡が築かれ、岬には融合砲が据えられ、鷹の巣は、いまやアードラズベルクに次ぐ要塞となりつつあった。商会の看板は下ろされたが、竿頭の鷹の飾りだけは、どの旗にも残っている。
その鷹の巣の、一番奥の船台で半年、灯りを絶やさず組み上げられたのが、試作一番艦である。
船には、まだ帆桁の匂いより、鉄と油の匂いの方が強く残っていた。船体は低く、黒く、マストは信号檣が一本きり。マレ・グラヴィスの海でヴェッセルの船団を翻弄した、あの「帆のない船」と、遠目にはよく似た輪郭——だが近づけば、違いが分かる。船体の中ほどに、太い煙突が一本、立っているのである。
「帆のない船への、返事だ」と、舷梯の上でヴィクトールが言った。「あちらは精霊駆動の一本槍。こちらは——二本差しです」
試験航海には、テオドールとライネルも便乗を許された。軍全体会議を翌日に控え、陸の指揮官たちも新造艦の実際を見ておくべきだ、というヴィルヘルムの指示である。
舷梯の上で、ヴィクトールと握手を交わした。海へ戻ってから、初めての再会である。
「陸は、どうです」
「壁は直った。……アデルの班は、いい班のままだ。副長が三代目になったが、型は崩れてない」
「なら、よかった」
潮灼けの男は、それだけで頷いた。継いだ者同士の報告は、それで足りるのだった。
出港は、蒸気だった。
缶焚きたちが石炭をくべ、煙突が黒い息を吐き、外輪ならぬ水中の螺旋——スクリューと呼ぶのだと、マレーヌが説明した——が水を掴んで、艦はゆっくりと岸壁を離れた。速くはない。だが確実で、燃料は石炭、つまり「竈の飯」で走る。
「巡航はこれです。精霊銀は一粒も使いません」
機関室から上がってきたマレーヌは、油と煤で頬を汚したまま、誇らしげだった。
「触媒を食うのは、ここから先だけ——舵、面舵。切替、用意!」
湾の中ほどで、それは来た。
機関室で何かが低く唸り、青白い燐光が排水口から尾を引き、そして艦は——蹴られたように、加速した。テオドールは手すりを掴み損ね、ライネルの腕に受け止められた。帆もないのに、煙も減ったのに、舷側を流れる水音だけが滝のようになる。壁の上の桟敷——今日も鈴なりの見物人たち——から、歓声とも悲鳴ともつかない声が、風に千切れて届いた。
「対フリゲート比較で、二倍半!」と、測定士官が叫んだ。「無風で、二倍半出ています!」
壁の上では、菓子売りの親父がまた店を広げていた。あの黒いのはうちの街のかい、と客の婆さんが訊き、うちの街のだよ、と親父が答え、それだけの会話が、パンと干し無花果と一緒に、桟敷の端から端まで売れていった。半年前、同じ壁の上で敵の帆を数えていた人々が、いまは自分の街の船の水脈に、歓声を上げている。
「切替から全速まで、二十——いや、十八拍!」
ヴィクトールは艦橋で、その数字を静かに聞いていた。それから、命じた。
「よし。転舵、取舵いっぱい。戦闘機動に入る」
艦は、帆船なら横倒しになる角度で、湾の水を切り裂いて回った。艦首と艦尾の、布を掛けられた四角い区画——まだ砲塔の載っていない、その台座の上で、係の水兵が転がって悲鳴を上げ、笑い声が起きた。
そして、七度目の転舵で、警鐘が鳴った。
「機関室、触媒過熱! 温度、赤域です!」
「精霊駆動停止、蒸気に戻せ! 総員、配置のまま!」
マレーヌが階段を三段飛ばしで駆け下り、艦は何事もなかったように蒸気の脚に戻って、静かに走り続けた。しばらくして上がってきた技師の顔は、煤で真っ黒で、そして満足げだった。
「——冷却系の設計が、三割足りません。連続の戦闘機動は、いまのところ四半刻が限度。分かってよかった。試験というのは、壊すためにやるものですから」
「直るのか」と、ライネルが訊いた。
「直します。冷却水路を倍に引き直して、この冬のうちに。……あの人たちに笑われますから。海の上で、湯を沸かしすぎて負けました、では」
「素人の質問だが」
ライネルは、舷側から下の海面を、指さした。
「冷やす水なら、そこに、いくらでも浮いているだろう。海水を、そのまま冷却の経路に通すことはできないのか。真水を艦の中で回すより、外から汲んで外へ捨てる方が、早くないか」
マレーヌは、反射的に首を振りかけた。
「それは、最初に捨てた案です。海水は塩を析出します。管の内側に塩の殻が育って、ひと月で水路が——」
言いかけて、技師の言葉が、止まった。
止まったまま、目だけが、猛烈な速さで動き始めた。
「……いえ。待ってください。銃身と同じだ。ノーラさんの、精霊合金の裏張り——あれは鉛の付着を防ぐための——合金の面には、塩も、付かない——水路の内側に裏張りを焼き付ければ——」
技師は、懐から帳面を引き抜き、その場にしゃがみ込んで、猛然と書き始めた。倍に引き直すはずだった水路の図が、線二本で消され、まったく別の系統図が生まれていく。
「副長どの」と、しゃがんだまま、マレーヌは言った。「冬まで、要らなくなるかもしれません。……素人の質問というのは、時々、一番高くつく質問です」
ライネルは、褒められたのか呆れられたのか分からない顔で、テオドールを見た。テオドールは、笑いを噛み殺すのに失敗した。
帰港の間際、テオドールは艦首に立った。
船首の楯板に、真新しい字で艦名が刻まれている。命名したのは、進水式に臨んだヴィルヘルムだと聞いた。
——ユンクバウム。若木、の意である。
灰から、芽吹く。練兵場の隅の六本と、同じ名を持つ鉄の船が、いま、湾の水を静かに分けて、家に帰っていく。
◇
翌日の市庁舎、軍全体会議。
卓には、半年前の顔ぶれが揃った。ヴィルヘルム、クルーガー、カイ、テオドール、ライネル、マリア、そして海側からヴィクトールとマレーヌ。ブラムは疎開者の迎え航海のため、不参加である。末席に一人、軍服の着方がどこか商人くさい五十がらみの男が、分厚い帳面を三冊重ねて座っていた。
議題は、三つ進んだ。
一つ。新造艦計画——ユンクバウム級の試験結果と、二番艦・三番艦の起工。海水冷却案の検証を最優先とし、成れば春を待たず量産段階へ。
二つ。小銃と砲火器の更新——G787の量産割り当て(商会鍛冶部門との連携で月産四百・一年で主力更新)に加え、稜堡の融合砲の増産と、野戦用の軽量型の開発着手が、マリアの検算付きで承認された。
「更新の順は、壁から」と、カイが言った。「逆襲役が最後でいい。近い敵は、古い銃でも当たる。以上です」
クルーガー連隊長は、新式銃の説明書きを老眼の距離で眺め、それから、笑って卓に戻した。
「わしらの若い頃は、雨が降ったら戦は休みでしたわい。……いや、やめときましょう。新しいものは、新しい者らのもんだ。年寄りの仕事は、それを扱う若いのを、無事に朝の点呼に並べることでしてな」
三つ。軍制の見直しである。
アードラスヴェーアの指揮系統は、開戦のどさくさで組んだ臨時の骨組みのままだった。総帥の下に連隊長と支隊長が並び、階級と指揮できる規模の対応は、慣例と人柄で回ってきた。戦時はそれで保った。だが、いまや事情が違う。
「入隊希望が、月に六百を超えました」と、軍政のエリアス・クラウゼが数字を読んだ。「解放地からの志願を含めれば、千に届く月もあります。……受け皿の制度が、ありません」
勝った軍隊に、人は集まる。集まった人を、臨時の骨組みは支えられない。
「では、新しい骨組みの図面を」と、ヴィルヘルムが末席へ顎をしゃくった。
立ったのは、あの帳面三冊の男である。エゴン・ヴェストハーゲン。元は商会陸運部門の差配人——大陸中の隊商路の日程と馬糧と宿駅を、頭一つで回していた男だ。開戦からこちら、軍の動員と兵站は、実のところこの男の帳面の上で動いてきた。挨拶は、一行だった。
「戦は、帳簿で勝ちます。以下、その帳簿の目次を」
広げられた図面に、新しい軍の骨格が引かれていた。
頂点に、最高司令官ヴィルヘルム。階級は元帥——軍でただ一人の位とする。その傍らに参謀本部を新設し、総参謀長にはヴェストハーゲン自身が中将として就く。剣を持たぬ男が、軍の頭脳に座るのである。誰も笑わなかった。この半年、飢えずに戦えた理由を、卓の全員が知っていたからだ。
陸軍は、三個軍団。第一軍団は軍の主力を束ね、クルーガーが上級大将として事実上の陸軍司令官に。第二軍団は、テオドール——大将。副官兼胸甲竜騎兵軍団長に、ライネル大佐。第三軍団はカイ大将とし、長く率いた黒色胸甲騎兵は、古参副長のヴェンツェル・ロデン少将が継ぐ。号令が「行くぞ」しかない、あの巨漢である。街そのものを預かる駐留部隊司令官には、元石工組合の親方、ベルンハルト・ロス少将——攻防戦で市壁の区画指揮を執った男だ。壁を積んだ手に、壁を預ける。精霊独立旅団は軍団に属させず最高司令部の直隷とし、盟約祭司の家系のヴェイネ・アルダ大佐が率いる。
——二十一で、大将である。
自分の名の行が読まれる間、テオドールは目を上げられなかった。隣のライネルが、卓の下で小さく言った。
「副官どのは大佐で結構です。将官になってしまうと、素人の質問がしにくくなりますので」
海軍は、将官を海軍大将と提督の二段に絞る。総司令官ブラム・ノード。副司令官兼海軍総参謀長に、ヴィクトール提督。第一艦隊は、あの最後の疎開船団を一隻も欠けさせず送り届けた護送船団長、ダーヴィト・レムケ提督——「一番遅い船が、船団の速さだ」を信条とする男。第二艦隊は、ヨナス・クレフト提督。卓の端で、誰かが小さく吹き出した。商会と長年、航路を取り合ってきた商売敵の船団長の名だからである。
「商売敵ごと呑み込んで、海軍はできました」と、ヴェストハーゲンは真顔のまま言った。「呑み込めるうちは、この国は健全です」
精霊機動部隊は、マレーヌ大佐。そして名簿の下の方、第二軍団突撃大隊長の欄に、グレム・ドラハン少佐の名があった。客分、という肩書が、この日、帳面から消えた。家族の帳面に、また一人、名前が増えたのだ。
養成の柱も立った。軍事院に附属士官学校を常設する。入校は身分を問わず、読み書きと算術の試験のみ。課程は一年、戦時は六か月。昇進は戦功の記録簿と、上官二名に同格一名の連署——そして、もう一条。
「中隊の長より上に立つ者は、隷下全員の名を、諳んじられること」
ヴェストハーゲンがそこを読み上げたとき、卓は、少しのあいだ静かだった。名を呼び、呼び終える軍であること。この半年やってきたことが、そのまま条文になっていた。階級の売り買いと世襲は永久に禁ずる、と最後の行にある。帝国への、何よりはっきりした返事だった。
異論は出なかった。ただし骨組みは仮案として固め、正式の発足は三日後を待つ。軍が誰のものになるのか——それを決める国体会議より先に、軍が自分の形を確定させるべきではない、というヴィルヘルムの一線である。
一件だけ、この日のうちに先行して決まった。
ファルケンホルスト軍港の正式再編である。商会海洋部門から軍への移管、地峡防壁と岬砲台の増強、そして——初代の軍港司令官職の新設。新しい階級表の、海側の最初の一行に、その名は書き込まれた。
——海軍大将、ブラム・ノード。ファルケンホルスト軍港司令官トス。
満場一致だった。本人は、海の上で、まだ何も知らない。
「……戻ってきたら、また言いますね」と、テオドールは思わず呟いた。「尻がむず痒い、って」
「言わせておけ」と、ヴィルヘルムが、書類から目を上げずに答えた。「痒がりながら全部やる男だ。三十年、そうだった」
議事が尽きかけた頃、扉が叩かれた。
クラリッサの情報部門からの、急ぎの報せの束である。届けられた紙を、ライネルが立って読み上げた。
「——帝都発。近衛軍団司令ローレンツ・フォン・ハルベルシュタット卿、投獄ののち勅命で放免。直後に出奔。麾下の士官十二名と共に行方不明。宰相府は緘口令を敷いたが、退役の連鎖が近衛全体に広がり、ひと月で兵力の三分の一を喪失——」
卓が、ざわめいた。あの精霊に誓った近衛司令の名は、この街では誰もが知っている。
「行き先の確認は」
「未確認です。ただ、東へ向かう元近衛の一団を見た、という商人の報告が、複数——」
テオドールは、父を見た。
ヴィルヘルムは、目を閉じて聞いていた。報告が終わっても、しばらく何も言わなかった。それから、たった一つだけ、訊いた。
「……生きて、いるのだな」
「はい。それは、確実です」
「なら、いい。議事を進めよ」
剣聖は、それきりその話に触れなかった。触れないことの中身を、卓の全員が、それぞれの深さで測った。テオドールだけは、もう一つ別のことを思っていた。決着を預けおく、と言った男が、いま、旗も国も持たずに、東の空の下にいる。あの人の剣は、どこに帰るのだろう——
◇
三日後。市庁舎の大広間で、国体会議は発足した。
馬蹄形に並べられた席が、埋まっていく。市議会の代表たち。アードラスヴェーアの軍服。リヒテンフェルデと解放地の代表——統治代行イルザは州都を離れられず、代理団を送ってきた。ファルケンハイン商会の席には、モノクルのレオンハルトと、帳面を抱えたマルク。精霊信仰の代表として、深青のローブの一団。ほかに、ギルドの顔役、銀行組合、救護院——数え上げればきりのない顔ぶれが、大広間の壁際まで埋めていた。
開会前の廊下で、テオドールは解放地代理団の長と、短く言葉を交わした。見覚えのある顔だった。あの革具工房の亭主——三月、屋根裏に電文機を隠し、何も訊かずにイルザに夜食を包んだ、「訊かない人々」の一人である。
「イルザは、どんな様子だ」
「相変わらず、隙あらば屋根に登りたがりますわ」と、亭主は笑った。「が、街の連中はもう、あの人なしじゃ回らんと思っとります。揉め事があると、皆、役所より先にあの人のとこへ行く。……夜は寝ろ寝ろと、皆で言うとるんですがな」
「……伝えてくれ。繋ぐのが上手いやつが、いま一番偉い——前にそう言ったが、取り消さない、と」
議場に戻ると、深青のローブの一団の中心に、銀白の髪を編んだ、静かな佇まいの女性が座っていた。
セリナ・フォン・アルトリース。ファルケンハイン家に長く仕える、アルモナの付人——として、この街の誰もが知る人である。精霊術大隊長として戦役を支えたその人が、巫女たちの推戴で、信仰の側の席に着いた。
議長には、満場一致でヨルク翁が推された。老人は杖をついて登壇し、開会の辞を、たった三つの文で済ませた。
「二十年、待った。百五十三日、耐えた。……ここから先は、作る話をする」
拍手が、鳴りやむまで長かった。
最初の議題は、名前だった。
解放された南部の土地に、何という名の旗を立てるのか。大公国の再興か。新たな国か。それとも自由都市の連合か——議論は熱く、しかし、誰もが気づいていた。どの案を口にするときも、発言者の目が、議場の奥の一点を、ちらりと見ることに。
議場の奥には、それが据えられていた。
リヒテンフェルデの旧大公宮から、解放地の代表たちが、船で運んできたのである。二十年、倉庫の埃の中で布を掛けられていた——そして蜂起の夜、誰も触れずに灯だけを供えられた、あの玉座が。
布は、外されていた。古びた金箔と、精霊樹の彫刻と、座る者のいない座面が、大広間の灯りの下に、静かに晒されていた。
運ぶべきか否か、解放地では議論になったのだという。鍛冶職人の議員が、発足の挨拶の中で、その顛末を隠さず話した。
「威圧になる、いう者もおった。気が早い、いう者もおった。……ほんでも、儂らは決めた。空のまま持ってくるのが、一番正直だろう、と。埋まっとらん席を隠して国の話をするより、埋まっとらん席を見ながら話す方が、嘘がない」
誰も、座らない。
誰が座るべきかを、誰もが噂し、誰も口にしない。大公家の血を探せ——広場の唱和は、いまや議場の沈黙の中に住んでいた。空の玉座は、何も言わずに、ただ会議を見下ろしている。
テオドールは、軍側の席から、その玉座を見た。
それから、傍聴席の端——救護院の白い前掛けのまま、静かに議事を見守っている、義姉の横顔を見た。
彼女は、玉座を見ていなかった。
一度も、見なかった。その頑なな見なさ方が、テオドールには、どんな視線よりも雄弁だった。
そして、議場でただ一人——精霊信仰の席のセリナだけが、時折、静かに目を動かしていた。玉座を見て、それから、傍聴席の白い前掛けを見る。また玉座を見て、また、白い前掛けを見る。
二十年、この日のために黙り続けてきた人の目は、急がなかった。急がないまま、確かめるように、二つのものの間の距離を、何度も、何度も、測っていた。




