第48話「街の音」
秋の朝の巡察は、戦時のそれとは、音から違った。
西壁の足場では、石工の槌が鳴っている。戦時の槌は急いていた。いまの槌は、拍子が揃って、歌うようだった。テオドールとライネルが馬を寄せると、あの石工の親方が足場の上から、気安く手を振ってきた。
「支隊長どの! 見てくれ、三段目まで本積みが済んだ。継ぎの色ももう馴染み始めとる」
「早いですね」
「銭と石と、それから急かされん工期。三つ揃や、壁なんぞ何度でも建つわい。……ま、揃うことが滅多にねえんだが」
破口だった場所は、いまは新旧の石が斜めに噛み合う、頑丈な一枚に戻りつつあった。親方は新しい石の一つを叩いて、そこに小さく刻まれた印を見せた。石工組合の焼印の隣に、素人臭い、小さな鷹の彫り。
「志願の市民が積んだ石にゃ、勝手に彫りやがるんだ。規則違反だがよ……剥がす気にならんでな」
旧穀物倉——つい先日まで捕虜収容所だった建物は、がらんどうになっていた。二千百人が捕虜交換で北へ帰り、残ったのは、壁際に几帳面に畳んで積まれた毛布の山だけである。倉の係の老人が、それを一枚ずつ検めて仕舞っていた。次に使う日が来ないことを祈る畳み方、というものが、世の中にはあるのだった。
救護院は、もっと静かだった。
長患いの傷病兵が数を減らし、東翼の処置室は半分が空き、マルタは空いた寝台の敷布を、几帳面に張り替えて回っていた。テオドールたちに気づくと、彼女は針仕事の手を止めずに、報告だけを寄越した。
「重い人は、あと九人。春までには、みんな杖で歩けます。……貸本室は、盛況ですよ。兵隊さんより、近所の子供の方が多いくらい」
それから彼女は、針を止めずに、付け足した。
「練兵場の木、先週見てきました。六本とも、付きましたよ。……ミラ先生の木が、一番早く芽を出したそうです。あの人らしい」
覗くと、本当だった。あの小さな部屋で、包帯の残る若い兵が、子供らに囲まれて絵物語を読まされている。低い書架は童話、高い書架は戦史——あの人の並べ方のまま、部屋は勝手に育ち始めていた。
「……日常ってのは」と、帰り道でライネルが言った。「戻ってくるときも、来たときと同じで、足音がしないんだな」
市場の呼び売り。学校の鐘。井戸端の噂話。何気ない音の一つ一つが、半年前には貴重品だった。広場の隅では、パンを焼く匂いに混ざって、見覚えのある顔が荷を運んでいた。エミル・ロート——形見の使者は、宣誓の身分のまま、パン屋の配達人に納まっていた。テオドールと目が合うと、彼は荷を抱えたまま、あの正しい向きの敬礼をした。粉だらけの敬礼だった。
◇
大学校の軍事院からの講演の依頼を、テオドールは三度断って、四度目に捕まった。
断り切れなかったのは、依頼状の署名が学生総代の連名で、その筆頭に、見覚えのある名があったからである。フリード。旗手見習いは、冬学期のあいだ、軍事院の聴講生に出されていた。字を知る旗手は強い、というクルーガー連隊長の差配である。
講堂は、立ち見が出た。
テオドールは、戦術の話を用意していった。用意は、最初の質問で吹き飛んだ。
「支隊長どのに伺います! 戦争で一番大事なものは、何でありますか!」
最前列の学生だった。講堂中が、その答えを待って静まり返る。剣、と言えば喜ぶだろう。士気、と言えば教官が頷くだろう。テオドールは、少し考えてから、正直に答えることにした。
「——仲間です」
講堂が、拍子抜けの空気になった。テオドールは、構わず続けた。
「教範は、兵を『部下』と書けと教えます。指揮官は情を挟むな、とも。……ですが私には、部下ではなく、仲間がいました。軍人としては、あるまじき姿かもしれません。教官方には叱られるでしょう。それでも私は、それでいいと思っています。支隊は、家族です」
教壇の袖で、軍事院の老教官が渋い顔をするのが見えた。テオドールは、その渋い顔に向かって、続けた。
「家族だから、死なせたくない。死なせたくないから、地形を読み、補給を数え、無茶な命令には理屈で抗う。私の知っている戦術の全部は、突き詰めれば、そこから生えています。……夕方の点呼で、家族の名前を全部呼べるように戦う。それ以上の戦術を、私はまだ知りません」
講堂は、静かなままだった。ただ、拍子抜けの静けさとは、質が変わっていた。
講演の最後に、テオドールは、講堂の側壁を目で示した。歴代卒業生の銘板が、真鍮の小さな札で並んでいる壁である。その中の一枚に、S・グレンツ、と刻まれていた。
「……この講堂の卒業生に、私は多くを教わりました。橋は、架ける技術と壊す技術が表裏一体だということ。壊すなら、安く済ませろということ。そして——その人は最後に、一番高いものを払って、一番大きな仕事をしました」
学生たちは、銘板を見た。爆破の研究に没頭しすぎて教官と揉めた伝説の卒業生の名は、軍事院では誰もが知っている。その名と、南西の空のあの噴火が、いま初めて、公の場で、一本の線で結ばれた。
「諸君は」と、テオドールは締めくくった。「壊すのが安く済む時代を、生きてください。それが、あの人の払った代金の、正しい使い道です」
なお、この日の講演で最も人だかりができたのは、終了後のライネルの周りである。軍事院の学生の半分が、彼の書いた小論——写本で出回っている『指揮官の条件についての覚書』——を携えて署名を求めに来たのだ。支隊長は、副長の背中を眺めながら、警護役の壁際で干し無花果を齧った。
「……お前、いつの間に有名人になったんだ」
「書いたものは残るからな」と、副長は署名しながら言った。「どこかの商人の受け売りだが」
◇
午後、二人は港湾区の外れの工房街へ回った。
オルド=グレンツ工房。焼印の看板には、二つの姓が並んでいる。銃身の頭文字と、火薬の頭文字。どちらの主も、もうこの世にいない工房が、しかし、街で一番忙しい鎚の音を立てていた。
出てきたのは、油染みの前掛けの若い女性だった。細い体に、火傷の痕のある確かな手。ノーラ・カイル——フリッツ・オルドの、恋人だった人である。
「支隊長どの。副長どの。……ちょうど、お呼びしようと思っていました」
工房の中で、一つの作業台だけが、時間の止まった顔をしていた。
道具が、使った者の手の形のまま、置いてある。削りかけの銃床。書きかけの寸法。誰も触れていないのに、埃だけは払われている——ノーラは二人の視線に気づいて、先回りするように言った。
「片付けると、設計の続きが分からなくなるので」
嘘が半分の理由だった。半分で十分だったので、二人とも、それ以上は訊かなかった。
工房の奥の試射場に、それは置いてあった。
見慣れたG783に似て、どこか線の詰まった一挺の小銃である。ノーラは手袋を嵌め、慣れた手つきで機関部を開いて見せた。
「G783の後継です。あの人の図面が、三分の二まで引いてありました。残りの三分の一を、この一年で埋めます。仮の名は——G787。787年式。……間に合わせます、その年に」
787年。休戦の切れる年である。工房の娘は、暦の意味を正確に知っていて、正確にその年式を刻むつもりなのだった。
「改良点は、三つあります」
ノーラは、機関部を開いたまま、部品を一つずつ指した。
「一つ。弾薬の一体化です。G783は紙包みの薬莢でした——雨に弱く、装填に三動作かかる。G787は真鍮の一体薬莢を使います。湿気ではまず不発しませんし、装填は二動作。発射速度が、五割増えます。
二つ。銃身の内側に、精霊合金の裏張りを焼き付けます。命数——銃身の寿命が、三倍に延びます。数を撃つ訓練が、惜しみなくできるということです。
三つ目が、あの人が最後まで諦めていた仕掛けです」
娘は、卓の上でG787をもう一挺並べ、二挺の機関部を、手早く分解した。撃針、遊底、ばね、引金——部品の山を混ぜ、無造作に選び直して、組む。二挺は、混ざった部品のまま、何事もなく組み上がった。
「部品の完全互換です。今までの銃は、一挺ずつ職人が擦り合わせて作るので、隣の銃の部品は微妙に合わなかった。精霊合金の治具で公差を詰めれば、それが要らなくなる——戦場で壊れた二挺から、動く一挺が組めます。修理待ちの銃が、半分になります」
ライネルが、組み上がったばかりの一挺を手に取り、遊底を引いた。滑らかな金属音が、一度で答えを言った。
「……工房の手仕事では、この公差は出せなかった。あの人はそれで諦めたんです。今度は、治具から作りました。道具を作る道具から、です」
ライネルが、試射を許された。三発。的の中心に、三つの穴が、指で覆える範囲に開いた。副長は銃を置き、しばらく黙り、それから技師に向き直って、軍人の顔で言った。
「量産の目処は」
「銃身の鋼と、精霊合金の割り当て次第です。工房だけなら月に八十。商会の鍛冶部門と組めば——月に四百」
「四百」と、テオドールは反芻した。一年で、五千弱。アードラスヴェーアの主力を、丸ごと更新できる数字である。娘は、頷いた。
「あの人は、G783を『間に合わせた』銃だと言っていました。時間がなくて、諦めた仕掛けがいくつもあると。……今度のは、諦めません。一年、あるので」
帰り際、ノーラはもう一つ、布包みを解いて見せた。掌に収まる、短い銃身の拳銃である。
「こちらは、海の方から頼まれています。接舷戦用に、片手で扱えて、湿気に強いものを、と。……新しい艦の水兵たちに、持たせるそうです。明後日の試験、支隊長どのもご覧になるのでしょう?」
工房の娘は、湾の奥の方角へ、小さく顎をしゃくった。街の職人たちは、いつだって、軍議より先に何もかも知っているのである。
一年しかない、と言う者と、一年ある、と言う者が、この街には両方いる。そして街を強くするのは、いつも後者の数え方だった。
◇
工房を出ると、日が傾いていた。
槌の音。鐘の音。呼び売りの声。夕餉の匂い。何気ない日常の音の下で、しかし、街は静かに支度をしている。壁は三段目まで積み上がり、銃は月に四百の算段が立ち、湾の奥の工廠では、夜も灯りが消えない。
「……なあ、テオドール」
馬上で、ライネルがぽつりと言った。
「平和ってのは、戦争の反対語じゃないのかもな。今日一日見て回って、そう思った。この街の平和は、次の戦争への支度と、同じ顔をしてる」
「嫌か」
「いや」と、副長は首を振った。「支度をしながらでも、子供が絵物語を読める。パン屋が配達をして、学生が署名をねだる。……それで十分だと思うことにした。贅沢を言うのは、一年後でいい」
二人の馬は、夕暮れの坂を、市庁舎の方角へ下っていった。
三日後に、軍全体の会議が招集されている。議題は、新造艦の試験と——国体会議の発足である。




