第47話「非番の夜」
彼らは、月のない夜を選んで来た。
塀を越えたのが四人。裏口の錠を破ったのが二人。足音は完璧に消してあり、得物は刃引きのない短剣と絞索——問答をするつもりの装備では、なかった。
書斎の扉が、音もなく開いた。
燭台は一つだけ点いていて、その灯りの中に、ローレンツ・フォン・ハルベルシュタットは、椅子に掛けたまま、待っていた。膝の上に、抜き身のⅤ式刀。研ぎ上げたばかりの刃が、火をひとすじ、静かに映していた。
「……三日、遅かったな」
と、皇帝の剣は言った。
「初日の夜は、雨だった。二日目は月が出ていた。今夜だと踏んでいた。——入れ。狭いが」
影たちは、動かなかった。動けなかったのである。座ったままの男から立ちのぼる何かが、六人分の踏み込みを、扉のところで縫い止めていた。
そして、その静止の間に、彼らは気づいた。庭の闇に、自分たち以外の気配が——それも、倍の数の——いつのまにか満ちていることに。
「動くな」
庭から、若い声がした。リュカの声だった。
「近衛第一大隊、本日非番の者、十二名。……全員、たまたま、この辺りを散歩中である」
◇
後にこの夜のことは、帝都の酒場で百通りに語られることになるが、骨格はどの版でも同じである。
暗殺者六名は、一人も死ななかった。
ローレンツが、殺すことを許さなかったのである。彼らは帝国の兵であり、命令で動く手足であり、そして殺せば、庭にいた十二名の非番たちが、その瞬間から「謀反人」になる。刃引きの峰と、拳と、絞索の縄自身とで、六人は手際よく縛り上げられ、猿轡ごと、邸の酒蔵に丁寧に転がされた。
「——時間がありません、司令」
リュカは、手筈を三行で説明した。東門の当直は今夜、署名簿の上から三番目の男であること。替え玉の馬車が二台、別々の門から出ること。本物は馬で、荷駅の伝馬に紛れて発つこと。そして——庭の十二人の鞍が、全部、旅装で膨らんでいること。
「……待て。ここまでやれば、貴官らは全員、共犯だ」
「はい」
リュカは、少しも生真面目さを崩さずに、頷いた。
「共犯に、なりに来たんです。全員、荷物はまとめてあります」
「馬鹿を言うな。貴官らには経歴が——」
「司令」
若い副官は、初めて、上官の言葉を遮った。
「こんな帝国で栄達するより、あなたの下で草鞋を履く方が、何十倍も楽しいんです。……ここにいる十二人、全員の総意であります。多数決で言えば、十三対一で、司令の負けであります」
庭の十二人が、闇の中で、揃って頷いた。毎朝、鉄の扉の前に立った顔ぶれである。ローレンツは、何かを言おうとして、やめた。この夜、言葉にすれば崩れるものが、多すぎた。かわりに彼は、一人ずつの顔を見た。全員の名を、彼は言える。言えることだけが、いま返せる全部だった。
「……命令で人を撃つのが軍人なら、命令がなくても人に付いていくのが、近衛か」
「はッ。そう教わりました。——あなたに」
東門は、囁き一つで開いた。
当直士官は書類を検めるふりをし、検めないまま判を捺し、去っていく十三騎の背中へ、闇の中で一度だけ、敬礼をした。
街道の最初の丘で、ローレンツは一度だけ、馬を止めた。
振り返ると、帝都の灯が、夜の底に広がっていた。二十二の歳にあの街へ上がり、剣一本で近衛の頂まで登った。仕えたのは宮廷ではない。あの灯の一つ一つ——と、若い頃は本気で思っていて、思えなくなった正確な日付を、いまはもう思い出せない。
(……陛下。あなたの剣は、鞘ごと、持って出ます)
皇帝の剣は、帝国の兵を一人も斬らず、血の一滴も流させずに、帝都を出た。
この事実は、後々まで、宰相府を最も苛立たせることになる。死人が出ていれば「凶行」と書けた。血が流れていれば「謀反」と書けた。だが起きたことといえば、非番の散歩と、謹慎中の遠乗りと、酒蔵で一晩眠った六人の男だけなのである。罪状の書きようが、ないのだった。
◇
報復は、それでも、来た。
書きようのない罪の代わりに、宰相府は、書ける名簿を持っていた。嘆願書の署名簿である。
査問が始まった。署名した士官は一人ずつ呼び出され、忠誠を問われ、署名の「真意」を説明させられた。昇進は凍り、配置換えは辺境に偏り、異端審問局の面談とやらに呼ばれる者まで出た。撤回すれば許す、という筋書きが、露骨に透けていた。
撤回した者は、ほとんど、いなかった。
かわりに、退役願が積み上がった。
最初の一週で、四十通。次の一週で、百を超えた。老練な大隊長が軍服を畳み、若い士官が拝命したての階級章を返し、古参の曹長たちが揃って除隊した。ある者は故郷に帰り、ある者は商会の護衛に職を替え、ある者は行き先を言わずに東へ発った。
退役者の筆頭は、三十年勤めの老大隊長だった。査問の席で撤回を迫られた老人は、署名を撤回するかわりに、階級章を外して卓に置き、一言だけ残して退出した。
「わしは三十年、陛下の剣の鞘でござった。……剣を捨てた家に、鞘の置き場は、ござらん」
この一言は写しになって兵舎を回り、回るたびに、退役願が増えた。
ひと月が経つ頃、近衛軍団は、三分の一が軍服を脱いでいた。
新司令官オスカル・ド・セレラン=レオニエの着任式は、様式通りに、壮麗に、執り行われた。だが整列した隊列のあちこちに、埋まらない空隙があり、捧げられた剣の列は、どこか、まばらだった。帝国で最も美しいはずの軍団の観閲が、その日、帝都の目利きたちには、歯の抜けた櫛のように見えた。
総帥府で報告を受けたゴーティエは、長いこと、何も言わなかった。
守れなかったのである。ローレンツも、署名した士官たちも。総帥の椅子に座ったまま、老軍人は指を組み、それから、誰にも聞こえない声で言った。
「……帝国は、敵に負ける前に、味方を辞めさせていく」
暖炉の脇で、ジャン=バスティアンが、湯呑みを置いた。老元帥はこの頃、総帥府に居ることが多い。居る理由を、二人とも口にしない。
「次は、誰かの」
「わしか、おぬしだろうな」
「順番に、賭けるか」
「やめておこう。……どちらが勝っても、嬉しくない」
老人二人の乾いた笑いが、火の爆ぜる音に混ざって、消えた。
◇
十三騎は、国境の検問を三つ越え、山道を九日行った。九日目に、空気の味が変わった。
ラ=フェオである。
多民族の市場の喧噪。聞き慣れない歌。帝国式の石造りの役所の隣に、東方式の瓦屋根が当たり前の顔で並び、その混ざり方に、誰も目くじらを立てていない。属国と聞いていた。傀儡と教わってきた。だが街道を行く人々の背筋は、帝都の裏通りの誰よりも、伸びていた。
総督府——というより、大きな屋敷である——の客間で、ラウル・ド・フォークレランは、旅塵にまみれたローレンツを、驚きもせずに迎えた。
「来たか」
「……ご迷惑を、承知で」
「迷惑ではない。だが混んでおる」
老人は、こともなげに言った。
「先客がいてな。免職された海軍大将が一人、離れで釣り竿の手入ればかりしておる。夕食で会うだろう。……話の合う男だぞ。おぬしと同じで、正しすぎて帝都に置いてもらえなかった口だ」
夕食の卓で、ローレンツは、エティエンヌ・ラ=マリニエールと初めて同じ皿を囲んだ。
提督は、塩を回しながら、世間話の声で訊いた。
「中将を、殴ったそうだな」
「……はい」
「良い拳だったか」
「誓いの、分だけは」
「なら、安い買い物だ」
それきり、二人は魚の骨の外し方の話しかしなかった。免職の提督と、追放の近衛司令。帝国が要らないと言った男たちが、帝国の東の端の食卓で、静かに塩を回し合っている——この絵の意味を、この時点で正しく読めていた者は、大陸にまだ、幾人もいない。
◇
滞在は、思いのほか、長くなった。
ラウルは行き先を指図せず、期限も切らなかった。客分の十三騎には離れが与えられ、飯が出て、馬が世話され、そして誰も、彼らの明日を訊かなかった。訊かない親切というものがある——それを、ローレンツはこの屋敷で学び直していた。
だから、日のあるうちは、街へ出た。
「司令、あれ! あれを見てください」
リュカは、市場に来るたび、三歩ごとに立ち止まった。若い副官の指がさす先には、毎回、帝都にないものがあった。
呼び売りの声が、三つの言葉で重なっている。ヴァルニア語の値切りに、エルヴェ語の売り口上が返り、その横で東方の言葉が笑う。誰も、通訳を立てない。皆、相手の言葉を三割だけ覚えていて、その三割と身振りで、商談は成立していくのである。
香辛料の並びの向こうには、ヤシマ渡りの品が積まれていた。漆の椀。片刃の小刀。反物。和睦からまだ半年と経たないのに、東の海の品は、もう当たり前の顔で市場の一角を占めている。商人というものの脚の速さは、軍隊の比ではないのだった。
そして、何よりローレンツの足を止めさせたのは、一本の通りだった。
通りの右側に、聖焔教会の小さな礼拝堂があった。火の紋章を掲げ、蝋燭が灯り、ヴァルニア系の移民が祈りに出入りしている。その真向かい——通りを挟んだ左側に、精霊の祠があった。若木が植わり、精霊灯が揺れ、エルヴァ系の老婆が孫に礼式を教えている。
火と、精霊が、道一本を挟んで、向かい合って建っている。
どちらの参拝者も、互いの建物に石を投げない。それどころか、夕刻の鐘と祠の鈴が重なる時分には、双方の年寄りが通りの真ん中の井戸端で、同じ長椅子に座って、クリークの盤を囲んでいた。しかも駒の彫りが東方風で、最強の駒は「元帥」でも「隊商」でもなく、「渡し守」なのだという。土地が変われば、盤の上の偉さまで変わるのである。
「……司令。ここは、変な街ですね」
リュカが、感に堪えたように言った。
「帝都で教わったものが、全部あるのに、全部、教わった通りじゃない。属国は貧しいと教わりました。傀儡は怯えていると教わりました。異教は争うと教わりました。……教わったことだらけの街なのに、教わった通りのものが、一つもない」
「そうだな」
ローレンツは、火の礼拝堂と精霊の祠を、もう一度、順に見た。
帝国が二十年、南方で剣と火をもって成し遂げられなかったものが、ここでは、井戸端の長椅子の上に、無造作に置いてあった。誰の勅命でもなく、誰の教義でもなく——ただ、禁じない、という統治の形ひとつで。
(……これを作った人の名を、俺は「耄碌した老人」と、帝都の書類で読んだのだったな)
◇
変化は、市門から来た。
滞在がふた月を過ぎた頃、門を入ってくる旅装の中に、見覚えのある肩の形が、混ざり始めたのである。
「——司令! やっぱり、司令だ!」
最初の一人は、署名して除隊した近衛の古参曹長だった。女房と子供二人と、荷車一つ。東へ行けば、と誰かに聞いたのだという。誰に、とは言わなかった。言わなくても、聞かなくても、その「誰か」の数が増え続けていることだけは、市門の人波が証明していた。
退役した士官。除隊した曹長。行き先を言わずに東へ発った、あの人々である。ひと月に数人だったものが、じきに週に数人になり、家族連れが増え、やがて元の部下同士が門前で再会して抱き合う光景が、珍しくなくなった。
総督府のバルコニーから、ラウル・ド・フォークレランは、毎夕、その市門を眺めていた。
「来る者は、拒まん」
と、老人は言うだけだった。理由は、誰にも言わなかった。
ただ、その人波の中に日ごとに増えていく——荷車の引き方ひとつで分かる、元軍人の肩の形を——老人の目は、静かに、正確に、数えていた。
数えて、何も、言わなかった。




