第46話「朕の剣」
帝都の北の丘に、聖ルミエール塔という古い建物がある。
名前は聖人のものだが、中身は牢である。ただの牢ではない。貴族と高官のための、絨毯の敷かれた牢だ。鉄の扉には彫刻が施され、格子窓には硝子が嵌まり、食事は銀器で出る。帝国というものは、人を閉じ込めるときですら、家格の作法を守るのだった。
その鉄の扉の前に、この一月、毎朝欠かさず立つ男たちがいた。
近衛の士官たちである。面会は週に一度しか許されない。それでも彼らは交代で毎朝来て、扉の前で直立し、姿の見えない司令官に向かって敬礼をして、帰っていく。看守たちは最初それを咎め、じきに咎めるのをやめた。咎める根拠が、どの規則のどこにもなかったからである。
扉の内側で、ローレンツ・フォン・ハルベルシュタットは、その靴音をいつも聞いていた。
◇
罪状は、三つに膨らんでいた。
一つ。上官への暴行——これは事実である。ジュール・ド・レオニエ中将を、衆人環視のもと、馬上から泥まで殴り落とした。一片の後悔もないが、事実は事実だ。
二つ。軍使の権限を逸脱した、敵将との私的な接触——これも、まあ、事実と言えなくもない。
三つ目が、傑作だった。
——蛮族ノ邪法ニ与シ、精霊ナルモノニ誓約ヲ立テ、帝国軍人ノ霊的忠誠ヲ汚シタル罪。
聖焔教会の異端審問局が、わざわざ意見書を添えてきたのである。精霊への誓いは邪法であり、邪法による誓約は魂の反逆である、と。殴打なら軍法で済む。だが「魂の反逆」となれば、これは政治犯であり、異端者であり——処断の天井が、消える。異端の処断は、伝統的に、火だ。精霊に誓った男を、火で焼く。教会というものの様式美である。
告発状を三通書いた男が、帝都の夜会でどう吹聴して回っているかも、面会の伝手で聞こえてきた。近衛司令は叛徒の妖術に篭絡された、あの拳は呪いの証拠だ——折れた鼻の男の言い分は、酒場でこそ笑われたが、審問局の書類の上では、立派な証言として綴じられていた。
(……なるほどな)
独房の窓辺で、ローレンツは、ほとんど感心していた。
宰相府の筆は、見事だった。狙いはローレンツ個人ではない。ローレンツを異端として焼けば、ゴーティエ派への見せしめになり、近衛司令の椅子が空き、その椅子には既に、レオニエの血を引く若い騎兵長の名が取り沙汰されている。一石で、三羽。負けの帳尻を、内側の粛清で合わせていく仕事が、もう始まっているのだ。
牢というものは、入ってみると、思ったより庭に似ていた。
やることがない、というのは嘘だ。剣は取り上げられたが、型は取り上げられない。ローレンツは毎朝、三畳の絨毯の上で、素手のまま、ラー=テイの型を最初から最後までさらった。踏み込み三歩ぶんの場所しかなくても、風の読みと重心の律だけは錆びさせない——あの庭で最初に教わったのは、剣の振り方ではなく、それだった。
毎朝それを覗き窓から見ていた老看守は、十日目あたりから、朝の見回りの終わりに、扉の外で小さく敬礼をするようになった。規則にはない。だが、規則で禁じられてもいない。三十年、この塔で貴人の零落ばかり見てきた老人が、零落しない人間を初めて見た——後年、老看守はそう語ったという。
(先生。あなたの庭は、牢の中まで付いてきてくれるのですな)
それから、鷹の将のことも、時々考えた。あの立ち合いは、三十合で終わった。決着は、預けおくと言った。預けた決着を取り立てる日まで、この首は、渡すわけにいかないのだった。
週に一度の面会には、いつも副官が来た。
リュカ・ハルシュタイン。近衛の若手で、姓が似ているせいで書類を取り違えられ続けてきた縁から、いつのまにか一番近くにいる男である。格子越しに、リュカは毎回、報告を三つと、余計なことを一つ言って帰る。
「署名簿の件でありますが」と、その日の余計なことは始まった。「司令の放免を求める嘆願に、近衛全士官の——三分の二が署名いたしました」
「……やめさせろ。全員の経歴に、傷が付く」
「もう遅いであります。それに」
リュカは、格子の向こうで、生真面目な顔のまま言った。
「経歴に傷の付かない近衛など、司令のいない近衛と同じで、あまり自慢になりません」
ローレンツは、この副官の顔を、しばらく黙って見た。見てから、話題を変えた。変えないと、危なかったのである。
◇
審理を三日後に控えた朝、扉の外が、騒がしくなった。
いつもの靴音ではない。数が多く、拍が硬い。鍵が回り、鉄の扉が開き——入ってきたのは看守ではなく、紫の房飾りも眩しい、宮中の勅使だった。
勅使は、羊皮紙を開いた。
「——ローレンツ・フォン・ハルベルシュタットノ身柄ヲ、直チニ放免ス。本件審理ハ、之ヲ停止ス。……勅命デアル」
ローレンツは、膝をついて聞いた。聞きながら、頭の別の場所で、この紙が帝都のどの部屋を、どんな顔で通ってきたのかを考えていた。
後に、断片が耳に入ってくる。
病床の皇帝が、久方ぶりに人を召したこと。召されたのが宰相であったこと。病室の扉越しに、老いた声が、しかしはっきりと廊下まで届いたこと——
——近衛ハ、朕ノ剣デアル。朕ノ剣ヲ、朕ニ諮ラズ鞘ヨリ抜キ、朕ニ諮ラズ折ラントスル者ハ、何人タリトモ、之ヲ許サズ。
そして宰相が、病室を辞するとき、生涯で二度目と噂される、蒼白の顔をしていたこと。
一度目が、いつであったかは、南の街の応接室を知る者だけが知っている。
◇
放免は、その日の午のうちに執行された。
鉄の扉を出ると、秋の光がまぶしかった。塔の前庭には、あの毎朝の士官たちが、非番の者まで含めて三十人あまり、勝手に整列していた。誰の指図でもない。ローレンツが敷石の上に立つと、三十の敬礼が、一糸で上がった。
「……貴官ら、暇なのか」
「はッ。本日非番であります」
「明日も非番か」
「司令の御身辺が定まるまで、近衛士官の非番は続く見込みであります」
ローレンツは、それ以上訊かなかった。訊けば、目の奥のものがこぼれそうだったからである。
ただし、放免は復権ではなかった。
同日付の軍務院の通達は、事務的に三行で済まされていた。近衛軍団司令の職を解く。後任、オスカル・ド・セレラン=レオニエ近衛騎兵長。ハルベルシュタット卿は追って沙汰あるまで、帝都邸にて謹慎のこと——
勅命は命を救い、宰相の筆は職を奪った。皇帝と宰相の、これが精一杯の痛み分けである。そしてローレンツは知っていた。痛み分けで引き下がる男の顔を、あの南の街の応接室で、自分は見ていない。
◇
帝都邸への帰路、ローレンツは馬車を断り、歩いた。
一月ぶりの街は、変わっていた。表通りは何も変わらないのに、裏通りの気配が違う。官報の売り子の声が、妙に大きい。辻の憲兵が、倍に増えている。夜会の灯は変わらず点いているのに、どの窓も、心なしか、カーテンが厚い。
敗戦の後の帝都というものを、ローレンツは初めて歩いた。
そして、歩きながら、確信した。
(——見られている)
振り返らない。足取りも変えない。だが、うなじの産毛が知っている。二人。いや、三人。物売りの荷の陰と、辻馬車の御者台と、斜め後ろの窓。素人ではない。憲兵でもない。憲兵なら、もっと堂々と見る。これは、見ていないふりの訓練を受けた者の、見方だった。
辻の売り子が振っていた官報の見出しは、南の街の食卓を呆れさせたあの一枚だった。寛大ナル処置ヲ賜ウ。帝都の民は、それを信じる顔と、信じない顔の、ちょうど半分ずつで買っていく。信じない顔の方が、目立たないように金を払うのが、この街の作法だった。
邸の門をくぐり、扉を閉めてから、ローレンツは長いこと、玄関の暗がりに立っていた。
命は、勅命が守った。
だが勅命は紙であり、紙は、夜道までは付いてこない。
(逃げるか。留まるか)
算盤は、単純ではなかった。逃げれば、それは謀反の自白になる。嘆願に署名した三分の二の経歴が、まとめて焼かれる。留まれば——留まれば、遅いか早いかの違いだけで、夜道はいつか、仕事をする。どちらの皿にも、自分の命より重いものが載っていた。
暗がりの中で、皇帝の剣は、答えを出さないまま、剣だけを研いだ。
◇
同じ夜。宰相府の奥の間。
燭台の下で、オーギュスト・ド・レオニエは、軍務院の通達の写しに、目を通し終えたところだった。放免。解任。謹慎。書類の上の決着は、これで付いた。
執務机の前には、影のように音のない男が一人、立っていた。憲兵の制服も、家の紋も、何も付けていない男である。付けていないことが、職分だった。
「……陛下は、放免しろと仰せられた」
と、宰相は、独り言のように言った。
「解放した。職も、法の手続きで解いた。勅命には、一字も背いていない」
男は、何も言わない。言わないのが、返事だった。
オーギュストは、燭台の火を見た。それから、署名のない小さな紙を一枚、机の端へ、滑らせた。
「陛下は、放免しろと仰せられた。——生かしておけとは、言われていない」
紙は、音もなく、闇の中へ消えた。




