第45話「点呼の沈黙」
朝の練兵場に、支隊は完全な軍装で整列していた。
戦のための整列ではない。使節団は去り、休戦は成り、壁の外に敵はいない。今日の整列は、百五十三日ぶんの、まだ済ませていなかった仕事のためである。
ライネルが、名簿を手に、隊の前へ出た。
いつもの朝の点呼と、同じ姿勢。同じ声。ただ、読み上げる名簿だけが、いつもと違った。副官は生きている者の名を全部読み終え、全員の「応」を確かめてから、頁をめくり、呼び終いに入った。
「——アデル・ヴァイス」
誰も、応えない。
「——フリッツ・オルド」
誰も、応えない。
「——ミラ・ロウ」
「——ティル・ローンハルト」
「——ティノ・マス」
誰も、応えない。通信士の遺体は、総督府の地下で見つかった。決死の伝令の先で捕らえられ、処刑され、それでも暗号帳だけは最後まで呑み込んで守り抜いた、と、収容された府の記録が事務的な文字で証言していた。電文口調の抜けない声は、もう、どの周波にも乗らない。
ライネルは、攪乱行の十名、破口の無名の戦死者たち、民兵と市壁守備隊の死者の数を読み上げ——それから、最後の一つ前で、一度だけ息を整えた。
気づけば、練兵場の柵の外に、市民が集まっていた。
誰かが呼んだのではない。槌音を止めた石工が、市場帰りの女房たちが、学籍章の学生が、通りかかって、足を止め、帽子を取って、そのまま立っていた。支隊だけの儀式のつもりだったものが、柵の内と外で、いつのまにか、街の儀式になっていた。
「——サーシャ・グレンツ」
誰も、応えない。
誰も応えない、その静けさが、練兵場いっぱいに広がって、風の音だけが残った。二百の兵は微動もせず、ただその沈黙を、全員で支えて立っていた。応える声のないことが、あの人の仕事の完遂の証しである——分かっていて、なお、沈黙は肺に重かった。
点呼の沈黙、と、後に隊の者はこの朝を呼んだ。
ライネルは名簿を閉じ、号令はかけなかった。かわりに、練兵場の隅に用意されたものへ、隊列は静かに列を作った。
若木である。細い苗木が、六本。
精霊の民の作法だった。灰から、芽吹く。墓石は骨のためのもので、木は生きている者のためのものだ。一人ずつが土をひと握りかけていき、テオドールは最後に、サーシャの木の根元へ、土と——それから、迷って、やめた。胸の駒は、埋めなかった。
(これは、借りておきます。橋が架かるまで)
マリアは、列の最後だった。無口な計算屋は、サーシャの木の根元に土をかけ、それから、筒に入れた図面を一晩だけ、幹に立てかけた。ヴェルダ川の橋の図面である。朝になれば、持って帰る。持って帰って、班で架ける。今夜だけは、施主に、検分してもらうのだった。
六本の若木は、練兵場の隅で、頼りなく、しかし確かに、風を受けて立った。
◇
その日の午後から、西壁で槌音が始まった。
破口の応急の栓——石と土嚢の混ざったあの継ぎ目を崩し、正式な石積みに替える工事である。石工のギルドが焼印入りの新石を運び、市民が石灰を練り、工兵班がマリアの図面で基部を検めた。
「新しい石は、色が違いますね」と、若い兵が言った。
「十年もすれば馴染むさ」と、石工の親方が答えた。「馴染んでも——どこが破口だったかは、この街の者は死ぬまで覚えとる。それでええんだ。壁ってのは、石の帳面だでな」
テオドールは、足場の下でそれを聞いて、少しだけ笑った。この街では、石工まで帳簿の言葉で話すのだった。
◇
港では、《ゼーアドラー》が出航の支度をしていた。
休戦下の最初の大仕事は、戦ではない。中立港に預けたままの疎開者たち——七百と少し——を、迎えに行くのである。
「約束の、回収便だ」
と、ブラムは埠頭で言った。
「婆さんに言っちまったからな。帰りの船は俺が出す、前の方の揺れねえ席に乗せてやる、と。……約束ってのは、テオ坊。言っちまったから守れるようになるんだと、誰かさんの受け売りだがね」
「いい受け売りです」
「高く付く受け売りでもある」
二人は、同じ言い回しで笑った。桟橋の付け根では、あの敬礼の下手だった衛兵が、妹を迎えに行く船へ、今度は完璧な角度の敬礼を送っていた。
「そういえばな、テオ坊。出る前に、いい話を一つ置いていく」
ブラムは、声を落として、埠頭の奥——工廠の閉じた大扉を、顎で示した。
「あの奥でな、マレーヌ嬢が寝る間も惜しんでやっとる。例の、帆のない船への返事だ。蒸気と精霊の両刀——巡航は蒸気で竈の飯を食い、いざって時だけ精霊の脚で走る。試作の一番艦が、もうじき水に浮くところまで来た」
「浮いたら?」
「ヴィクトールにやらせる。湾で演習だ。あいつの言い出した砲の載せ方も、一番艦で試す。……前と後ろに、でかいのを積んでな。舷側を並べる戦列ってやつを、根っこから時代遅れにしてやる腹よ」
ブラムは、白い歯を見せた。
「一年しかねえ。だが一年ある。次に海が閉まる日までに、間に合わせる。——留守の間、工廠の火を絶やすなと、若旦那にも言っといてくれ」
四十の帆が、湾口を割って、開いた海へ出ていく。半年前、火と機雷で塞がれていた同じ湾口を、いまは麦と人を運ぶ船が通る。海というものの正しい使い方が、ようやく、戻ってきたのである。
◇
夕刻、テオドールは救護院の東翼にいた。
修復の済んだ処置室の隣、空き部屋がひとつ、本で埋まり始めていた。戦のあいだ市中の蔵に疎開させていた救護院の蔵書と、寄付の本と、大学校から流れてきた重複本。アルモナが言い出して、退院していく患者が読めるように、小さな貸本室を作ることになったのである。
「これは、図書館ですか」
「まだ、違うわ」
アルモナは、書架の高いところに戦史を、低いところに童話を並べながら、言った。
「図書館は、焼かれた村に建てるの。これは——練習。書架の並べ方で揉めた続きを、やってるだけ」
「揉めてる途中でしたっけ」
「途中にしたの。あなたが、帰ってきたから」
手が、同じ本に伸びて、触れた。どちらも、引かなかった。引かないまま、本は二人の手で棚に納まり、それだけのことが、それだけのことでは済まない時間が、書架の間に流れた。
距離の詰まり方が、変わったのだ。あの夜からでも、正体を知った日からでもない。もっと細かい、数え方の変わり方だった。以前のテオドールは、この人との距離を「二歩」と数えた。いまは「本一冊ぶん」と数える。以前は「義姉さんと弟」と数えた。いまは——いまの数え方には、まだ、名前を付けていない。
(後悔はしたくない、と言って、申し込んだ——)
あの敵将の声が、書架の間で、また鳴った。テオドールは、まだ動かない。動かないが、退路を断つ日の来ることを、もう、疑ってはいなかった。
書架の整理が終わる頃、窓の外は茜色になっていた。
アルモナは、最後の一冊を棚に納め、それから——ためらいの長さの分だけゆっくりと、テオドールの腕に、自分の腕を絡めた。
摺り寄せる、と呼ぶには慎ましく、寄り添う、と呼ぶには近すぎる距離だった。貸本室の棚の陰、誰も見ていない三歩ぶんの廊下。耳の縁だけがわずかに赤いのに、顎の角度は王女のもので、その不釣り合いが、テオドールの心臓を正確に一拍、飛ばした。
「……歩きにくいですよ、姉さん」
「歩きにくく、してるの」
アルモナは前を向いたまま、済まし顔で言った。言ってから、済まし顔のまま、ほんの少しだけ、腕の力を強くした。廊下三歩ぶんの間だけ、二人はそうやって歩き、扉の手前で、何事もなかったように離れた。気品というものは、時に、一番大胆なものの隠れ蓑になるのである。
「テオ。夕食、今日は全員揃うって」
「……全員?」
「お義父さまが、久しぶりに、って」
◇
ファルケンハイン家の食卓に、全員が揃うのは、開戦以来初めてだった。
ヴィルヘルム。レオンハルト。テオドール。アルモナ。末席にマルクが座り、クラリッサが給仕を口実に同席する、いつもの並び。皿は白身魚の煮込みと、固いパンと、戦時のままの質素さだったが、卓の上に地図がないことだけが、半年ぶりの贅沢だった。
卓の隅で、アルモナがパンを割り、半分を、ごく自然にテオドールの皿へ置いた。テオドールも、ごく自然に受けた。給仕に立っていたクラリッサが、盆を持ったまま、二人の間の空気を一度だけ計量し、何も言わずに退がった。何も言わないが、目だけが「あらまあ」の形をしていた。情報部門の長とは、そういう職業である。
食後、ヴィルヘルムが新聞を広げた。帝国の官報の写しが、中立港経由で届いたのである。一面の見出しを読んで、剣聖の眉が、ゆっくりと持ち上がった。
——皇帝陛下ノ聖慮ニ依リ、帝国、辺境ニ寛大ナル処置ヲ賜ウ。南部諸邦ノ自治ヲ許シ、兵ヲ還ス。
「……寛大なる、処置」
ヴィルヘルムは、その六文字を、二度読んだ。
「艦隊を沈められ、要塞を吹き飛ばされ、二万が痩せて逃げ帰った戦の帳尻が、賜う、か。負けを施しと書き換える筆というものは、大したものだ」
「帝都の読者は信じますか」と、テオドールが訊いた。
「信じる者は信じる。信じない者は——」と、レオンハルトがモノクルを拭きながら引き取った。「うちの刷り物を、三倍の値で読む」
卓に、低い笑いが起きた。マルクだけが笑わずに、官報の紙質を指先で確かめ、それから静かに言った。
「……この官報、紙が薄くなっていますね。前の号より、目方で二割は。帝国は、紙まで痩せ始めている」
帳簿の男たちの食卓では、笑い話の中にも、次の戦の数字が混ざるのだった。
◇
——そして、帝国では。
同じ夜、宰相府の奥の間の燭台は、遅くまで消えなかった。
卓上の名簿は、南方の敗戦からこちら、頁を増やし続けている。ゴーティエ・ド・セルヴィル。ジャン=バスティアン・ドゥラクロワ。ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ。ローレンツ・フォン・ハルベルシュタット——中将殴打の一件は、既に三通の告発状の形で、この卓に届いていた。
休戦の署名を自らの名で書かされた男は、あれ以来、公の場でほとんど喋らない。喋らない宰相ほど、恐ろしいものはないことを、帝都の廊下は知っている。
静かに、と、宰相は毎夜、自分に言い聞かせていた。怒鳴る段階は、過ぎた。癇癪は、南の絨毯の部屋に置いてきた。ここから先は、燭台と、名簿と、一年という砂時計の仕事である。
一年。
紙の上の平和には、期限が刻んである。そしてその期限を、指を折って待っている者は、白壁の街だけではなかった。
——レオニエが動き始めた、と、囁く者があった。
第二次アードラズベルク攻防戦は、こうして幕を閉じた。百五十三日。二つの海戦と、一つの破口と、一つの噴火。竈の火は六つ消え、そして街は、立っている。
次の物語は、白壁の街からでも、鐘の鳴る州都からでもなく——帝都の、とある牢の、鉄の扉の前から始まる。
精霊に誓った剣士の話は、まだ、終わっていないのである。




