第44話「手紙の主」
敵将は、二十騎の儀仗だけを連れて、北門をくぐった。
半年、この街を囲んだ男である。石を投げる者がいても、誰も驚かなかったろう。だが沿道は、奇妙に静かだった。憎悪が消えたのではない。憎悪の隣に、別のものが立っていたのである。捕虜二千を殴らせなかった敵将。「城壁ハ破レルモ、都市ハ破レズ」と自軍の敗北を正直に書いた男。精霊に誓って立ち合った近衛司令の、その主君筋——噂は紙より速く、そして紙より公平に、この半年の敵の姿を市中に運んでいた。
ジャン=リシュアン・ドゥラクロワは、馬上で、脱帽していた。
誰に対して、とは言わなかった。だが馬列が破口の跡——石と土嚢の継ぎ目の下を過ぎるとき、若い元帥の目が壁の傷を数え、それから一度だけ、深く伏せられるのを、沿道の何百人が見た。
広場の手前で、馬列は少しだけ、脚を緩めた。
路地の入り口で、子供らが遊んでいたのである。一人が瓦礫の壁の役、一人が双剣を振り回す役、黒い上着の子が「距離五十!」と叫んで撃つ真似をする——半年前から市中で千回繰り返されてきた、壁の英雄ごっこである。双剣の子が派手に斬られて転がり、皆で笑って、また最初から始める。
J=リシュアンは、馬上からそれを、しばらく見ていた。
自分の軍が破った壁と、自分の軍を止めた者たちが、遊びの形で、そこにいた。遊びの中の双剣使いが、もうこの世にいないことを、元帥は知らない。知らないまま、彼は子供らに小さく頭を下げ、馬を進めた。沿道の大人たちだけが、その礼の意味の深さを、正確に受け取った。
◇
市庁舎の大広間で、二人の総司令官が、初めて向かい合った。
「ヴィルヘルム・フォン・ファルケンハイン」
「ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ。……お目にかかれて、光栄です」
社交辞令ではなかった。若い元帥は、一拍おいて、続けた。
「幼年学校の三年次に、貴市の第一次攻防戦を学びました。以来、私の教範の中で、この壁は一度も破れたことがない。……実物は、教範より、なお正しかった」
「壁は石だ。正しかったのは、石を積んだ者らと、直した者らだよ」
ヴィルヘルムは、それだけ返した。若い元帥は、頷いてから、少しだけ付け加えた。
「……それと、総司令官閣下。あなたの庭の剣を、この半年で二度、見ました。一度は夜の平野で、遠くから。一度は、私の近衛司令の報告書の中で。……良い枝を、育てられた」
「枝は勝手に伸びる。育てたのは、枝自身だ」
剣聖は、素っ気なく言った。素っ気なさの底に、隠しきれないものが一匙だけあることを、その場の二人とも、聞き取らないふりをした。
それから卓を示した。
「座られよ、元帥殿。——互いに、若い者を大勢埋めた。せめて紙の上の仕事くらいは、丁寧にやろう」
◇
交渉は、二日に及んだ。
撤退経路の保証と監視方法。境界線の画定。解放地の行政引き継ぎ。軍票で買われた物資の債務処理——この項ではレオンハルトとJ=リシュアンが初めて言葉を交わし、短い、しかし後々まで語られるやりとりがあった。
「一つ、伺いたかった」と、元帥は言った。「南方航路の寄港地で、麦と水の値を上げたのは、貴殿か」
「商いです」
「スロテンの村々の麦を、先に買ったのも」
「商いです」
「……見事な商いだった」
元帥は、皮肉の色をまったく含まずに言った。レオンハルトは、モノクルの奥で一度だけ目を細め、帳簿の男にしては珍しく、率直に返した。
「あなたの賠償台帳を、拝見しました。焼けた村に、元帥給与から払っておられる。……あれも、見事な商いです。利子が付くのは、ずっと先でしょうが」
二人の間で、何かの貸借が、その一言で相殺されたように見えた。
そして、捕虜交換である。
宣誓捕虜、二千百余名。名簿の照合は半日かかり、都市側の係官が読み上げる名を、帝国側の副官が一つずつ確認していく。ダルナン少佐は、途中で読み上げの様子に気づいて、手を止めた。名簿に、死亡欄がほとんどないのである。海から引き上げられ、収容所で冬も夏も越した二千のうち、病没は、わずか七名だった。
「……この数字は」
「毛布と、湯と、宣誓です」と、係官は事務的に答えた。「あとは、干し無花果を投げ込む子供らが、勝手に」
ダルナンは、その数字を、二度書き留めた。一度は公式の記録に。もう一度は、自分の心覚えに。
◇
二日目の夕刻、公務がすべて閉じたあと、J=リシュアンは申し入れをした。
「ファルケンハイン支隊長と、二人で話す時間をいただきたい。……公務ではなく」
場所は、市庁舎の小さな露台だった。夕日が湾を染め、修理中の壁の足場が長い影を引いている。護衛は双方、扉の外に置いた。敵将と二人きり——半年前なら正気を疑われた図が、いま、当たり前の顔でそこにあった。
この数日、テオドールは手紙の処遇を、何度も決めては、決め直していた。返すのが筋だと思う朝と、返すのは重荷を投げ返すことだと思う夜が、交互に来た。結局、決めたのは理屈ではない。裁かれるべき相手に裁かれずに持ち続けるのは、卑怯だ——それだけだった。
テオドールは、先に動いた。
胸元から、油紙の包みを出した。中身は、血を吸って半分赤くなった、一枚の布告である。何度も開かれた折り目は、グラモンのものと、この数週のテオドール自身のものと、二人分になっていた。
「……お返しすべきものが、あります」
J=リシュアンは、布告を見た。自分の署名を、血の染みの下に認めた。長い沈黙が、露台に落ちた。
「リヒテンフェルデの総督府で」と、テオドールは言った。声が震えないように、ゆっくりと。「この布告を胸に携えた男が、縛った四人を、順に撃ちました。私はその男を——降伏する、と言いかけた男を、斬りました。武器を捨てた敵は捕虜とする。自分で全隊に復唱させた命令を、私だけが破った。……あなたの布告が禁じる全部を、あの中庭で、敵と味方が一つずつやったんです」
言い切って、テオドールは頭を下げた。裁かれるつもりで、来ていた。この手紙の主にだけは、裁かれるべきだと思っていた。
J=リシュアンは、布告を受け取らなかった。
「……知っている。報告は全部読んだ」
と、元帥は言った。夕日を見たまま。
「その上で言う。私の布告に、貴官を裁く資格はない。私の署名は徴発を命じて、スロテンを生んだ。私の布告はグラモンの胸で二十回折り畳まれて、四人を救わなかった。紙は——」
そこで元帥は、初めてテオドールを見た。若い、疲れた、そしてどこか救われがたいほど正直な目だった。
「紙は、人を止められん。読ませることはできる。重くすることもできる。だが振り上げた腕を止めるのは、紙ではない。次の朝の、自分だけだ。……貴官には、次の朝が来たか」
テオドールは、あの朝を思った。精霊の誓い。凪いだ手。庭に帰っていった剣。
「——来ました。一度だけ」
「なら、まだ大丈夫だ」
J=リシュアンは、布告をテオドールの手ごと、静かに押し戻した。
「返されても、受け取る資格が私にはない。……持っていてくれ、支隊長。この先も戦は続く。貴官が次に剣を振り上げる朝が、きっとまた来る。そのとき——その紙の重さのぶんだけ、一拍、遅れてくれ。私の布告にできる仕事は、もう、それだけだ」
テオドールは、布告を、胸元に戻した。
血濡れの手紙は、こうして正式に、テオドール・フォン・ファルケンハインの持ち物になった。後年、守護騎士団第一席の胸当ての内側に、古い布告が一枚縫い込まれていたという逸話の、これが始まりである。
沈黙が、今度は柔らかいものに変わった頃、テオドールは、ふと訊いた。訊いてから、自分で驚いた。この半年、仲間にしか訊いたことのない問いだった。
「……妙な質問を、お許しください。元帥閣下は——戦が終わったら、何をなさいますか」
J=リシュアンは、虚を突かれた顔をした。それから、生真面目に考え込み、生真面目に答えた。
「手紙の返事を書く。……溜まっているのだ。五十通ぶん。読む暇はあっても、書く資格が、戦の間はどうしても、ないような気がしてな。人を退かせ損ねた日に、息災です、とは書けん」
「五十通」と、テオドールは言った。「……その、どなたから」
「婚約者だ」
あっさりと、元帥は言った。あまりにあっさり言うので、テオドールは一拍遅れて、身を乗り出した。乗り出してから、自分が身を乗り出したことに驚いた。
「——どうやって」
「ん?」
「その……どうやって、射止められたのですか。そういう方を」
二十九隻を沈め、要塞を吹き飛ばした軍の将が訊く質問では、なかった。J=リシュアンは、まじまじと年下の敵将を見た。
「……貴官、剣にはあれほど迷いがないと報告で読んだが」
「剣と違って、教範がありませんので」
「ないな」と、元帥は認めた。「あれには、ない」
それから若き元帥は、初めて、歳相応の顔になった。少し迷い、少し照れ、観念したように話し出した。幼年学校の頃の話である。社交は壊滅的に苦手だった。舞踏会では壁の柱を数えて時間を潰した。彼女は、柱の隣で同じように退屈していて、戦史の話が通じる、唯一の相手だった——
「卒業の前に、前線行きが決まった。学内の最後の舞踏会でな。……後悔はしたくない、と言って、申し込んだ」
「それで」
「作戦としては、最低の部類だ。退路を全部自分で断ってから、突撃した。教範なら零点をつける」
「……ですが、成功された」
「彼女が寛大だっただけだ」
テオドールは、笑った。J=リシュアンも、笑った。半年、互いの兵を殺し合った両軍の将が、夕暮れの露台で、娘の話をして笑っている——扉の外の護衛たちが聞いたら耳を疑ったであろう笑い声は、しかし、どちらの側の半年にとっても、たぶん一番上等な戦果だった。
笑いが引いたあとも、一句だけが、テオドールの胸に残って、消えなかった。
後悔はしたくない、と言って、申し込んだ。
(……退路を全部断ってから、突撃、か)
救護院の方角の空を、テオドールは見なかった。見なかったことが、もう、答えの半分だった。
◇
辞去の間際、J=リシュアンは、露台の手すりから南西の空を見た。
夕焼けの果て、山影の向こう。もう火は見えない。だが三日燃え続けた岩山の方角を、この街の人間は皆、体で覚えている。元帥も、覚えているのだった。
「……あの要塞の火で、私は補給と、冬営と、二千の兵を失った」
と、敵将は言った。恨みの色は、不思議なほど、なかった。
「完璧な仕事だった。潜入も、時刻も、囚人小屋を外した爆破範囲も——後から検分するほど、恐ろしくなる仕事だ。軍人として、あれをやった者に、一度会ってみたかった。敵としてではなく。……同じ、仕事の分かる者として」
テオドールは、答えなかった。
答えるかわりに、上着の上から、胸の隠しに触れた。角の丸い、小さな木の駒の輪郭が、布越しに、掌に当たった。
会えません。もう、誰も。
言葉は、夕日の中に、出されないまま溶けた。J=リシュアンはそれ以上訊かず、一礼して、露台を去った。訊かないでいてくれることが、この敵将の、最後の礼儀だった。




