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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第二章「第二次アードラズベルク攻防戦」

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第43話「使者の名」

 臨時議会は、開会前から満員だった。


 傍聴席に入りきらない市民が廊下に溢れ、市庁舎前の広場には人垣ができ、議場の空気は、勝利の熱と、それと同じ量の不安で、湯気を立てていた。


 議題は、一枚の羊皮紙である。休戦。撤退。南部旧大公国領の解放。その処遇のファルケンハイン家への委任。期限、一年。


 議長席の脇で、レオンハルトは市長として、開会の槌を打った。打ちながら、頭の中の帳簿には、今日の議会の貸借があらかじめ書き込んであった。休戦の受諾——これは通る。通らないのは、その先である。今日の議場には、二つの声が来ている。どちらも正しく、どちらも危うく、そしてどちらも、大きい。


   ◇


 最初の声は、開会の槌の残響が消える前に立った。


「休戦はよろしい。受けるべきだ。……だが市長、その前に確認したい。軍は、どうなる」


 法律家議員だった。創設法の審議で権力集中を最も恐れた、あの男である。


「創設法の日没条項は、こう定める——『戦争ノ終結ト共ニ、軍ハ市ニ返還サル』。……では伺う。休戦は、終結か。一年後に嵐が戻ってくるかもしれないこの紙切れは、終結なのか」


「条文の解釈としては」と、レオンハルトは慎重に言った。「休戦は終結ではありません」


「その通り!」


 法律家は、卓を叩いた。


「終結ではない! ゆえに軍は返還されない! ……いや、違う。言い方を変えよう。返還させてはならんのだ。諸君、忘れたか。半年前、我々がこの議場で軍を作ったとき、我々は何を恐れた? 軍を持てば戦争になる、と恐れた。……いまは違う。いまは分かっている。軍を手放せば、滅びる。一年後、帝国がまた来たとき、我々がまた志願の列から始めるつもりなら、その列は今度こそ墓場まで続くぞ」


 法律家は、続けた。今度は声を落として、数字で。


「軍は、紙で作れる。だが軍隊の中身は紙からは生えん。半年かけて覚えた砲の狙いも、壁の直し方も、夜襲の作法も——それを教えられる古参の何割かは、もう墓の下だ。一度解いた軍を、一年後にもう一度編めると思うのは、楽譜を燃やしても楽団は残ると思うのと同じことだ」


 議場の半分が、拍手した。


 レオンハルトは、演壇の脇の軍側の席を、ちらりと見た。総司令官の顔は、動かない。動かないが、その手がWindschneiderの柄に置かれているのを、息子は見て取った。剣士が心を決めるときの、あの癖である。


 ヴィルヘルムは、発言を求めた。


「……妙な巡り合わせだ。半年前、この議場で『軍を持たせてくれ』と頭を下げたのは、わしだった。今日は逆のことを言いに立っている」


 総司令官は、議場をゆっくり見渡した。


「軍は、返すと約束したから、信用された。志願の列ができたのは、あの日没条項があったからだ。鎖が芝居ではないと、市民が知っていたからだ。……その約束を、便利な解釈で反故にすれば、次の志願の列は、二度とできん。軍というものは、集める時ではなく、返す時に、その正体が出る」


「では総司令官は、丸腰で一年後を待てと仰るのか!」


「待てとは言わん」


 ヴィルヘルムは、静かに言った。


「返し方の話をしている。返す先の話を、だ。……それは、今日のこの議場だけでは決められん話でもある。——わしはこの軍服を、一日でも早く脱ぐ算段で着た。その算段は、いまも変わらん。だが脱いだ軍服を、誰に、どういう畳み方で渡すか。そこだけは、急いで間違えてはならん」


 含みのある言い方だった。含みの中身が何であるかを、レオンハルトは知っている。そして、その中身を今日の議場に引きずり出そうとしている、もう一つの声のことも。


   ◇


 二つ目の声は、傍聴席から来た。


 正確には、傍聴席の圧力に押される形で、エルヴァ系の職人ギルドを地盤とする議員が立ったのである。壮年の鍛冶職人上がりで、飾らない言葉で話す男だった。


「あー……儂は、法律の言い回しは分からん。分からんが、外の広場の声なら分かる。市長、あんたも聞こえとるだろう」


 聞こえていた。窓の外の広場から、途切れ途切れに、唱和が届いている。この数日、市中で膨れ続けている声だった。


 ——大公国を。大公国を。


「リヒテンフェルデが、還った。大公宮に灯が点いた。南部が丸ごと解放されて、その面倒はファルケンハインが見ろと、帝国の紙にまで書いてある。……なら、訊きたい。この期に及んで、儂らはいつまで『自由都市の議会』の建前で、大公国の土地の話をしとるんだ?」


 議場が、水を打ったようになった。


「二十年前、儂らの国は焼かれた。国の名を口にすることも憚った。……儂の倅はな、市長。二十年前に生まれた。親父の名を継がせたかった。だが役所の帳面は、エルヴェ語の名を受け付けんかった。だから倅は今日まで、ヴァルニア語の名前で生きとる。名前ひとつ、あの国は儂らに許さんかった。それが今、目の前に、国の形をした土地が丸ごと還ってきとる。還ってきたのに、儂らは今日も『市の条例』と『市の軍』の話しかできん。……建前はもう、ええ。大公国を、返してくれ。旗と、名前と、それから——」


 男は、そこで一度、言葉を呑んだ。呑んでから、言った。議場の全員が知っていて、誰も口にしなかったことを。


「——血を、探してくれ。大公家の血を。生き残りがおるという噂は、二十年、消えたことがない。もし本当におるなら……その方を、探し出して、玉座に。それでこそ、死んだ者らに顔向けができる」


 拍手は、さっきの倍だった。傍聴席は総立ちになり、広場の唱和が一段と大きくなって窓を叩いた。


 レオンハルトは、槌を握ったまま、打たなかった。


 打てなかったのではない。打つ必要を、認めなかったのである。この声は、鎮めるべき騒ぎではない。二十年、灰の下で息をしてきた火が、いま、当たり前の顔で燃え始めただけだ。鎮める権利など、誰にもない。


 ただ、市長は知らない。


 議場の軍側の席の端で、一人の若い支隊長が、どんな顔でその声を聞いているかを。


   ◇


 テオドールは、動かずに座っていた。


 大公家の血を探せ。


 その声が議場に響くたび、胸甲の下の心臓が、硬く、重く、打った。探すまでもない。血は、ここにいる。この街の救護院で、今日も包帯を巻いている。焼かれた村に図書館を建てたいと言った、あの人が——


 (……あなたを、探している。街中が、あなたを)


 昨夜の暗がりの、囁きより少し確かな声を、思い出した。まだ、あなたにだけ——あの「まだ」の刻限が、いま、議場の拍手の音を立てて、迫ってきている。この声はもう、止まらない。止まらないなら、いずれあの人は、姉でも義姉でもなく、旗になる。玉座に座る。手の届かない——


 テオドールは、その先を考えるのをやめた。やめる訓練だけは、積んである。


   ◇


 採決は、日暮れ前に終わった。


 第一号議案、休戦の受諾——可決。賛成、圧倒的多数。


 第二号議案として法律家派が出した「軍の返還凍結の決議」と、ギルド派が出した「大公国再興の請願」は、レオンハルトの裁定で、どちらも採決に載らなかった。かわりに市長は、第三の紙を通した。


 ——南部解放地ノ処遇並ビニ国体ニ関スル会議ヲ設置ス。構成ハ、市議会、アードラスヴェーア、解放地ノ代表、及ビ精霊信仰ノ代表者トスル。


「軍の行き先も、国の形も、この街の議場だけで決めていい時代は、今日で終わりました」


 と、レオンハルトは宣言した。


「リヒテンフェルデの、村々の、巫女たちの、声を入れる。……返すと約束した軍を、約束ごと引き継げる受け皿を、これから作るのです。名前がどうなるかは——会議が決める」


 名前がどうなるか。その一言に、議場のエルヴァの男たちは、確かに聞いた。市長は「大公国」と言わなかった。言わなかったが、扉の鍵だけを、音を立てずに開けてみせたのである。帳簿の男の議事運びとは、そういうものだった。


   ◇


 散会が宣されても、広場の唱和は止まなかった。大公国を。大公国を。夜に入っても、その声は熾火のように市中に残り続けることになる。


 散会の直後、それは届いた。


 帝国の腕木通信が前線の塔まで送り、軍使が写しを運んできた電文である。発信元、帝国南方軍——撤退中の、その司令部からである。レオンハルトは写しを受け取る前に、書記官の顔色で、報せの重さだけを先に読んだ。帳簿の男の癖である。数字を見る前に、数字を運んできた者の手の震えを見る。当直の書記官が写しを読み上げ、途中で、声が裏返った。


 ——休戦条項ノ細目交渉ノ為、帝国全権使節団ヲ貴市ニ派遣ス。  ——受入レノ諾否、及ビ会談ノ場所ヲ照会ス。  ——使節団長、南方派遣軍司令官 ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ元帥。


 議場に残っていた者たちが、一斉に振り返った。


 敵将が、来る。


 二十九隻を沈められ、要塞を吹き飛ばされ、二万を退かせた、あの若き元帥が——白旗でも降伏でもなく、全権を持って、この街の門を、自分の足でくぐりに来る。


 レオンハルトは、電文の写しを受け取り、しばらくその名前を見ていた。それから、弟の方を見た。血濡れの手紙を、いまも胸元に持ち歩いている弟の方を。


「……テオドール。客が来るぞ。お前の、手紙の主だ」

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