第42話「口笛」
州都を発つ朝、テオドールはイルザを呼んだ。
「支隊は書面を持って南へ戻る。リヒテンフェルデの守りと差配は——お前に預ける。臨時の、統治代行だ」
「……あたしに、ですか。街を」
「三月、屋根の上からこの街の全部を見てきた人間は、他にいない。組も、市民も、お前の声なら聞く」
イルザは、しばらく黙った。山育ちの追跡手は、獲物の气配より、役職の重さの方によほど怯むらしかった。それから、頷いた。
「……繋ぐだけなら、できます。偉くなるのは、ご免ですけど」
「繋ぐのが上手いやつが、いま一番偉いんだ」
◇
アードラズベルクの北門は、歓声で支隊を迎えた。
リヒテンフェルデ奪還。休戦の書面。二十年ぶりの報せを二つも積んで帰った騎兵たちに、市民は花のかわりに夏の果実を投げ、鐘楼は景気よく鳴った。だが、テオドールは馬上で、その歓声の中の、鳴っていないものを聞いていた。
迎えの列に、あの人がいない。
分かっていたことだった。分かっていて、門をくぐる瞬間まで、どこかで期待していた。ひらひらと手を振って、よ、テオ、でかい仕事だったろ、と——
総司令部で、テオドールは父に書面を渡した。ヴィルヘルムは中身を検め、長く息を吐き、軍議は明朝と告げた。それから、書面から目を上げずに、言った。
「……テオドール。中庭に、客が来ている。モルゲンロートの捕虜だ。収容所から、お前を訪ねて護送されてきた。お前に、渡したいものがあるそうだ」
◇
中庭の捕虜は、若い帝国兵だった。
まだ二十歳にもならないだろう。爆発の夜に南西の斜面を転げ落ち、翌朝、彷徨っているところを解放された者たちの列に拾われ、そのまま投降したのだという。火傷の痕の残る手で、若者は直立し、下手な、手の向きの怪しい敬礼をした。
「じ、自分は、モルゲンロート要塞、倉庫番の当直でありました。あの夜——閉門の後、倉の裏で、脱走を、考えておりました」
若者は、正直に言った。正直に言うことを、あらかじめ決めてきた者の、つっかえながらの正直さだった。
「そこへ、御者姿の人が来ました。自分は誰何もできず、腰を抜かして……その人は、自分を見て、笑いました。それから、南西の壁が崩れていること、そこから出られることを、教えてくれました。逃げな、って。……そして、これを」
差し出された掌の上に、小さなものが載っていた。
木の駒だった。クリークの駒。使い込まれて角の丸くなった、隊商の駒である。
「生きて、向こうの捕虜になったら——鷹の街のテオって人に、渡してくれと。仕事の帰りに渡すはずだったんだが、ちっと帰りが遠くなった、と言って……それから、その、笑って」
若者の声が、初めて、詰まった。
「歩いて、行かれました。倉の、奥の方へ。……口笛を、吹いておられました。自分が壁の崩れから外へ出て、走っている間も、ずっと、聞こえて……最後まで、吹いておられました。あの、変な節の……」
テオドールは、駒を受け取った。
掌の上の隊商は、小さくて、軽くて、そして角が丸かった。何百回、何千回と、指で摘まれて、盤の上を進んだ角の丸さだった。市民版のクリークで、一番強い駒。元帥より強い駒。あの人が、荷役場の休みに、若い衆と盤を囲んで、これを進めて、笑っていた——
変な節の、口笛。
工兵班が仕事仕舞いに吹く、あの調子はずれの節が、耳の奥で鳴った。鳴って、止まらなくなった。
テオドールは、中庭の真ん中で、立ったまま、泣いた。
声は、出さなかった。出さない技術だけは、この半年で身についていた。だが涙は、技術の外だった。それは堰を切って、頬を伝い、顎から落ちて、掌の中の小さな隊商を濡らした。グリューネフェルトの野でも、アデルの葬送でも、フリッツの朝でも、ミラとティルの呼び終いでも、涙は出なかった。出ないことが怖かった。その全部の分が、いま、一度に来た。
支隊長が中庭で泣いている間、誰も、近づかなかった。若い捕虜だけが、直立不動のまま、もらい泣きをしていた。
涙が仕舞われた後、テオドールは若者に向き直った。
「……名は」
「エミル・ロート、であります」
「エミル・ロート。あんたは今日から、捕虜じゃない。使者だ。形見を届けた使者を、柵の中には戻せない。……宣誓の署名だけしてくれ。あとは、この街で好きに生きるか、休戦が成ったら家に帰るか、選べばいい」
若者は、口を開け、閉じ、それから今度は手の向きの正しい敬礼をした。誰に習ったのか、テオドールには、すぐに分かった。
◇
工兵班の詰所で、マリア・ツィーグラーは、盤を出して待っていた。
クリークの盤である。班の連中と班長が、休みのたびに囲んでいた、あの古い盤。駒箱の中の、隊商の駒だけが、欠けていた。
テオドールが、掌の駒を、そっと欠けた場所に置いた。盤の上で、駒は、あるべき枡に、静かに納まった。
「……これで、揃いました」
と、マリアは言った。無口な計算屋の声は、平らで、平らなまま、少しだけ揺れた。それから娘は、卓の三段目の抽斗を開けた。
図面が、出てきた。
ヴェルダ川、河口。橋脚の位置。径間の割り。石の積み方の断面図。余白に、几帳面とは言い難い字で、走り書きがいくつも——「三百年もたせるなら基礎から」「渡り初めは年寄りから」「欄干は子供の目の高さも考えな」。
最後の余白に、一行。
——架ける方は、頼んだ。
「班で、架けます」と、マリアは言った。「戦が終わったら。図面は、もう、あるので」
テオドールは、頷いた。声は、まだ使い物にならなかった。
◇
夜、テオドールは屋敷の自室にいた。
卓の上に、隊商の駒がひとつ。灯りは、点けていなかった。点け方を忘れたように、暗がりの中に座っていた。
扉が、静かに叩かれた。
アルモナだった。盆に、湯気の立つ蜂蜜湯がふたつ。返事を待たずに入ってきて、卓に盆を置き、隣に座った。姉というものは、返事を待たないのである。
「……飲んで。飲めなくても、持って。温かいものを持ってると、手が、少しましになるから」
テオドールは、器を持った。持てた。二人はしばらく、暗がりの中で、湯気だけを見ていた。
「リヒテンフェルデのこと、聞いたわ」
と、やがてアルモナが言った。
「鐘が鳴ったって。大公宮に、灯が点いたって。……ありがとう、テオ。あの街を、取り返してくれて」
「……俺は、命令で行っただけです」
「それでも、ありがとう」
アルモナは、器を置いた。それから、長い沈黙があった。何かを言うと決めてきた人の、最後の呼吸の分の沈黙だった。
「ねえ、テオ。あの街はね——私の生まれた街なの」
「……ええ。知っています。リヒテンフェルデの生まれだって、昔から」
「そうじゃなくて」
アルモナの声は、静かで、まっすぐだった。
「宮で、生まれたの。あの、大公宮で。……私はリヒテンヴァルト大公家の、最後の生き残り。炎の夜に、セリナの腕の中で運び出された、三つの女の子。それが、私」
暗がりの中で、テオドールは義姉の輪郭を見た。
驚きは——不思議なほど、遠かった。かわりに、いくつもの断片が、音を立てて嵌まっていった。悪夢にうなされる夜。決して語られない幼少。父と兄が、この人の前でだけ見せる、臣下のような目の遣い方。焼かれた村に、図書館を。あの願いの、本当の重さ。
「……いつから、話そうと」
「ずっと。ずっと話せなかった。話せば、あなたの見る私が変わるから。……でも、あの街の鐘が鳴ったのなら、いつまでも黙っているのは、鐘に嘘をつくことになる。だから、あなたにだけ。まだ、あなたにだけ」
王女。
その言葉の重さが、ゆっくりと部屋に満ちていく。目の前の人は、義姉であって、義姉ではなくなった。いや——義姉のままで、その上に、途方もないものが重なった。守るべき街の、守るべき血。いずれ公になれば、この人は象徴になり、旗になり、手の届かない場所へ——
テオドールの手が、また、震え始めた。
今夜は、剣のせいではなかった。失ったものと、これから失うかもしれないものが、一度に手の中にあったからである。
アルモナは、その震える手を見た。見て、両手で、包んだ。
「テオ」
「……姉さん。俺は」
「今夜は、いいの」
と、アルモナは言った。囁きより少しだけ確かな声で。
「私とあなたは、血は繋がっていないから。……今夜だけは、姉でも、王女でもなく。あなたも、支隊長でも英雄でもなく。ただ、大事な人を亡くした人と、その隣にいたい人で、いましょう」
灯りは、最後まで点かなかった。
蜂蜜湯は、ふたつとも、冷めた。
夜は長く、静かで、誰の帳簿にも載らなかった。
◇
翌朝の市庁舎には、軍将校が顔を揃えた。
ヴィルヘルム、クルーガー、カイ、ブラム、マレーヌ、テオドール、ライネル——半年の戦役を戦い抜いた顔ぶれが、初めて、戦況図ではなく一枚の書面を囲んだ。休戦の申し入れ。帝国軍の撤退。南部旧大公国領の解放。その処遇をファルケンハイン家に委ねるという、異例の条項。
「……罠の臭いはせんな」と、ブラムが言った。「臭いはせんが、太っ腹すぎる。裏で誰が算盤を弾いた」
「東の御老体だろう」と、ヴィルヘルムが静かに答えた。「帝国で唯一、負けの畳み方を知っている人だ」
「一年」と、カイが言った。数字の男は、書面の期限の行だけを見ていた。「守る時間が一年、増えた。以上です」
以上、で全部だった。一年は長くない。だが、壁を直し、軍を建て直し、麦を二度蒔くには足りる。この卓の全員が、同じ算盤を、それぞれの流儀で弾いていた。
議論は昼まで続き、結論は一つに絞られた。受ける価値はある。決めるのは、軍ではない。
「本件、議会に諮る」
総司令官の宣言で、軍議は閉じた。二十年の戦いの終わりと、一年後に再び始まるかもしれない何かの入り口が、一枚の紙の形で、議会へ運ばれていく。
散会の後、テオドールは市庁舎の窓から、夏の終わりの海を見た。
胸甲の内衣の隠しには、角の丸い隊商の駒が、ひとつ。
昨夜のことは、誰にも言わない。言わないことを、二人で決めた。ただ、廊下ですれ違ったアルモナと、一瞬だけ目が合って——続きのある話をする者同士の目礼だけを、交わした。




