第41話「同じ庭」
十数騎は、北西の街道の、矢の届かぬ距離で止まった。
州都の門の上と瓦礫の防柵には、蜂起の市民と支隊の銃が並び、その全部が、近衛の白い士官旗を睨んでいた。昨夜の中庭の四人は、まだ棺にも納まっていない。この街のこの朝に、帝国の旗ほど憎いものは、世界に二つとなかった。
騎影の一つが、列を離れた。
単騎である。従者も付けず、白い軍使布を槍の穂に掲げ、並足で、まっすぐに門へ向かってくる。門の上のどこかで、撃鉄の起きる音がした。テオドールは片手を上げて、それを制した。
「軍使だ。撃つな。……俺が出る」
「テオドール」と、ライネルが低く言った。「昨夜の今日だぞ」
「昨夜の今日だから、だ。ここで軍使を撃てば、この街は昨夜のグラモンと同じ数え方になる。……誰かが出て、受けなきゃならない。なら、俺だ」
テオドールも、単騎で門を出た。
背中に、門の上の何百の視線を感じた。憎悪の視線である。だがその憎悪は、いま、テオドールの背中一枚で堰き止められている。この背中が撃たせないでいる限り、この街は昨夜の帝国と同じ側に落ちずに済む——守る背中というものの使い方を、また一つ、覚えた朝だった。
二人の騎手は、門と街道の中間、誰の銃も庇えない場所で、馬首を並べて止まった。
近衛の士官は、兜を脱いだ。淡い金髪に、蒼い、静かすぎる目。歳は父の世代に近い四十半ば——だがその佇まいには老いの影がなく、あるのは、研がれ続けた刃だけが持つ種類の静けさだった。
「帝国近衛軍団司令、ローレンツ・フォン・ハルベルシュタット」
名乗りに、門の上がざわめいた。皇帝の剣。その名は、この属州でも知られている。
「アードラスヴェーア、ファルケンハイン支隊長。テオドール・フォン・ファルケンハイン」
「存じている」
と、ローレンツは言った。それから、鞍の革嚢から油布の包みを取り出した。
「南方派遣軍司令官ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ元帥より、貴軍総司令官閣下宛の、正式の申し伝えである。——帝国軍は南方より撤退する。旧大公国領南部の処分について、および、両軍間の休戦について、会談の席を求める。仔細は、この書面に」
テオドールは、包みを受け取った。手の中のそれは、軽くて、途方もなく重かった。撤退。解放。休戦。二十年と、百五十日と、数え切れない名前の果てに、その言葉たちは、こんな薄い包みで届くのか。
「……確かに、預かった。総司令官へ届ける」
「頼む。——軍使の任は、これで終わりだ」
ローレンツは、白い軍使布を、槍ごと地面に突き立てた。
「ここからは、ハルベルシュタットの私事として、一つ願いがある」
◇
「先の夜、私の網を破ったのは、貴官だな」
と、皇帝の剣は言った。
「見事だった。罠に掛かった獲物が、罠ごと歩いて、より大きな罠へ我らを引き込んだ。……帝国の記録には、鷹の紋の将、とだけ書かせた。鷹の将。そう呼ばせてもらう」
「過分です」
「過分ではない。それに——あの乱戦で、遠目に貴官の太刀筋を見た」
ローレンツの目が、初めて、静かでなくなった。
「受けて、流して、一閃。後の先の、あの拍子。……覚えがある。私はあの型が生まれるより前に、あの庭で剣を習った。貴官のそれは、庭の型だ。私のこれも」
と、腰の剣の柄に、指先だけで触れた。
「同じ庭の型だ。同じ庭の枝が、敵と味方に分かれて、それぞれ勝手に伸びた。……鷹の将。一度だけ、手合わせを願いたい。軍務ではない。ハルベルシュタットという一人の剣士の、我儘だ」
門の上も、街道の十数騎も、聞こえない距離で固唾を呑んでいる。テオドールは、目の前の男を見た。父の庭で剣を習った、帝国の剣士。第四の兄弟子とでも呼ぶべき男が、敵の軍服を着て、目の前にいる。
断る理由は、十もあった。受ける理由は、一つしかなかった。
昨夜から、自分の剣が、血の味しかしないのである。
「……お受けします。ただし」
「無論」
ローレンツは頷き、馬を降りた。そして、エルヴァの古い作法で——剣を抜き、切っ先を地に立て、柄頭に両の掌を重ねた。
「風と、灰と、芽吹きの精霊に誓う。この立ち合いに於いて、命は取らぬ。奪わず、望まず、ただ枝を交える」
帝国の近衛司令官の口から、精霊の誓句が、淀みなく流れ出た。焼く側の軍服を着た男が、焼かれてきた民の言葉で誓っている——門の上の市民たちのざわめきが、途中から、別の質の静けさに変わった。防柵の陰で、腰の曲がった老人がひとり、誰にともなく膝をついた。二十年、口に出すことを憚られてきた誓句を、帝国人の声で聞く日が来るとは、老人の暦のどこにも書かれていなかったのである。
テオドールも馬を降り、リュミナス=シェルヴァを地に立て、同じ誓句を重ねた。
柄頭に置いた手は——昨夜から続いた震えは——誓句の終わりとともに、凪いでいた。
◇
立ち合いは、風の中で始まった。
ラー=テイは、先の先である。ローレンツの踏み込みは、風が背を押しているとしか見えない速さで間合いを食い、初太刀からテオドールの体勢を崩しに来た。ザン=ゲは、後の先である。テオドールは受け、流し、崩れかけた重心ごと敵の力を借りて、返しの一閃を送る。
攻めの極致と、受けの極致。
同じ庭で生まれた二つの型は、驚くほど噛み合い、驚くほど、決まらなかった。ローレンツの崩しをテオドールの流しが吸い、テオドールの返しをローレンツの風が外す。剣風が交わるたび、テオドールは奇妙な感覚に包まれた。これは斬り合いではない。会話だ。父の教えの、自分の読んでいない章を、剣で読み聞かされている。向こうも同じ顔をしていた。敵の剣を通して、懐かしい庭の土の匂いを嗅いでいる者の顔だった。
十五合目、ローレンツの風がテオドールの足元の砂を円に巻き、崩しの一撃が肩口を襲った。受けは半寸遅れ、袖が裂け、門の上で誰かが悲鳴を上げ——だが返しの一閃がローレンツの兜の羽根飾りを飛ばして、悲鳴は嘆声に変わった。気づけば、憎悪の門前は、観客席になっていた。市民も、支隊も、近衛の騎士たちも、憎むことを忘れて、ただ見ていた。壁の桟敷が海戦を見たように、瓦礫の桟敷が、いま、二本の枝の会話を見ている。
昨夜の血が、一合ごとに、剣から洗われていく気がした。
型に身体を預けるほど、剣が、庭に帰っていく。中庭で振り下ろしたあの一刀を、この立ち合いが上書きしていく——テオドールは、二十合目のどこかで、自分が微かに笑っていることに気づいた。向こうの口元にも、同じものがあった。
三十合を越え、双方の呼吸が読み切られ、次の数合で何かが決まる——誰の目にもそう見えた、その刹那だった。
街道の北から、蹄と怒号が乱入した。
「いたぞォ! 叛徒の将だ! グラモンの仇だァ!」
銃声。二人の間の地面が弾け、土が跳ねた。
寄せ集めの一隊——焼け出された敗残兵を掻き集めた、隊列とも呼べない集団が、街道を駆け下りてくる。その先頭で喚いている顔を、テオドールは軍議の書類の似顔で知っていた。ジュール・ド・レオニエ。燃え落ちた要塞から、転がり出てきた男である。
二人は同時に飛び退き、立ち合いは、そこで死んだ。
◇
「撃ち方、止めえッ!」
ローレンツの声が、戦場の声になった。近衛の十数騎が即座に割って入り、敗残隊の銃口を槍で押し上げる。ローレンツはジュールの馬前に立ちはだかり、短く、事実だけを積んだ。軍使。正式の申し伝え。休戦の交渉。そして、精霊への誓いの立ち合い——
「せ、精霊への、誓い……?」
ジュールの顔が、引き攣れて歪んだ。
「き、貴様——近衛の司令ともあろう者が、叛徒と、蛮族の呪いの誓いだと? それでも帝国軍人か! どけ! いま将を討てば戦は終わる、どけ、どかんか——撃て! 撃ち殺せ!」
次の瞬間の音を、その場の全員が聞いた。
ローレンツの拳が、ジュール・ド・レオニエの顔面を、馬上から地面まで、一直線に運んだ音である。
中将は泥の中に落ち、鼻血の中で何かを喚き、近衛騎士たちは誰一人、助け起こさなかった。ローレンツは落ちた男を見下ろして、静かすぎる声で、一言だけ言った。
「……誓いを汚した。あれの重さは、貴様には一生かかっても分からん」
ジュールは泥の中で半身を起こし、折れた鼻を押さえて、金切り声を絞った。
「お、おぼえて、いろ……! 近衛の分際で、この、レオニエの顔を……! 父上が、宰相府が、黙っていないぞ……!」
「だろうな」
ローレンツは、それだけ返した。値札を読み上げられた客のような、静かな返事だった。買うと決めた男は、値札に驚かないのである。
◇
両軍は、それぞれの方角へ退いた。
別れ際、ローレンツは馬上から一度だけ振り返り、テオドールへ、剣の柄に指先で触れてみせた。
「鷹の将。決着は——預けおく」
「利子を付けて、お預かりします」
初めて、皇帝の剣が声を立てて短く笑った。それから、ふと真顔に戻って、風の中に、最後の一言を置いた。
「——ご老師に。枝は、達者だと」
十数騎は、北へ消えた。
門へ戻ったテオドールを、ライネルとイルザが出迎えた。副長は何も言わず、ただ、手綱を握る支隊長の右手を、一度だけ見た。
震えては、いなかった。
ライネルは頷いて、書面のことを訊いた。訊きながら、口の端が少しだけ緩んでいるのを、隠しそこねていた。
後にこの一部始終は、両軍の兵と、門の上の市民たち、数百人の目撃談として大陸中に広まることになる。精霊に誓った帝国の剣士の話は、酒場で語られるたびに少しずつ美しくなり——そして、衆人環視で宰相の息子を殴り飛ばした近衛司令官の話は、帝都の奥の間で語られるたびに、少しずつ、高くつく話になっていった。
その代価がどれほどのものになるかは、まだ、先の話である。




