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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第二章「第二次アードラズベルク攻防戦」

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第40話「血濡れの手紙」

 入城したファルケンハイン支隊を迎えたのは、歓呼と、鐘と、花のかわりに投げ込まれるパンだった。


 通りの両側から人が溢れ、老婆が兵の鐙に取りすがって泣き、誰かが「大公国万歳」と叫んで、周りの誰もそれを咎めなかった。二十年ぶりに、咎められない言葉だった。


 テオドールは、馬上で敬礼を返しながら、その歓呼の温度が、街の一角にだけ届いていないのを感じ取っていた。


 総督府である。


 包囲の輪に着くと、屋根から人影が滑り降りてきた。三月ぶりに見る偵察小隊長は、頬がそげて、目だけが山の獣のように光っていた。


「イルザ・ヴァルトルート、状況を報告します」


 報告は、簡潔で、最悪だった。籠城兵力、推定百五十。人質、三十余——地下組織の三人、近隣の住人、府の下働きと、その子供。日暮れに一名、中庭で撃たれた。壁に近づけば吊るすとの通告。そして——


「日没ごとに一人殺す、と。救援が来るまでの、時間稼ぎです」


「軍使は」


「立てました。返答は、いま言った通りです。日没ごとに一人——それが返答でした」


   ◇


 それでもテオドールは、もう一度、軍使を立てた。


 正規軍同士の作法である。降伏勧告。捕虜としての正当な扱いの保証。人質の解放と引き換えの、府兵全員の安全な退去——出せる条件は、全部出した。白旗を掲げた軍使が門前で読み上げ、府の中は、しばらく静かだった。


 それから、銃声が一つ、返答のかわりに響いた。


 中庭で、二人目が撃たれたのである。


「……交渉は、死んだ」


 テオドールは、自分の声が奇妙に平坦なのを聞いた。腹の底で何かが煮えているのに、声だけが凪いでいる。この凪ぎ方を、テオドールは知っていた。グリューネフェルトの野で、初めて人を斬った日の凪ぎ方だ。


 夜間強襲。決断までに、要した時間は短かった。日没ごとに一人なら、夜は敵ではなく、味方のうちに使い切るべきものである。


 イルザの三月が、ここで効いた。総督府の搬入口。厨房脇の下水の枝。屋根の梁の渡り。偵察小隊長は府の外郭を、自分の掌の皺のように知っていた。


「下水から工兵の組が入って、閂を内から抜きます。正面は陽動。人質の区画は東翼——あたしが案内します」


「頼む。……全隊に達する。人質の区画へ一番槍。府兵の掃討は二の次。逃げる敵は追うな。武器を捨てた敵は、捕虜とする。以上」


 最後の一項は、復唱させた。武器ヲ捨テタ敵ハ、捕虜トスル——夜の集結地に、二百の声が低く揃った。積み上がった怒りが暴発しないよう、命令の形で箍を嵌めたのである。指揮官の教範通りの、正しい処置だった。


 武器を捨てた敵は、捕虜とする。


 二百人に復唱させたその命令を、テオドールは夜が明ける前に、ただ一人、自分で破ることになる。


   ◇


 強襲は、月のない中天に始まった。


 正面で陽動の銃声が咲き、下水から入った組が搬入口の閂を抜き、支隊の下馬突撃が府内へ雪崩れ込んだ。廊下の戦いは、ザン=ゲの独壇場だった。狭い。暗い。敵は一人ずつしか来ない。


 角から突き出された銃剣を、テオドールは半身で流した。刃は空を裂き、その勢いのまま敵の重心が泳ぎ、泳いだ首筋へ、返しの一閃が落ちる。受けて、流して、一閃。次の敵が武器を投げて膝をつけば、飛び越えて先へ——後続が縛る。型は淀まず、命令は守られ、リュミナス=シェルヴァは音もなく仕事をした。テオドールの後ろを、イルザの案内と突撃班が駆けた。


 東翼の人質区画には——間に合った。


 鍵は斧で割られ、三十の影が、埃と涙の中で助け出された。子供が泣き出し、それを抱えた下働きの女がへたり込み、地下組織の三人が縛られた手首のまま「中庭へ! 司令はまだ中庭に——」と叫んだ。


 中庭には——間に合わなかった。


 テオドールが最後の扉を蹴り開けたとき、篝火の中庭で、ピエール・ド・グラモンは、最後の仕事を終えたところだった。


 壁際に、四人、倒れていた。夜警で捕まっていた地下組織の古株が二人。府の門番だった老人がひとり——毎朝、通りの子供らに飴を配るので、街で知らぬ者のない爺さんだった、と後でイルザが言った。そして、下男の若者がひとり。昨日までは、囚われた人質たちに、見張りの目を盗んで水を回していた側の男である。みな後ろ手に縛られたまま、並べられて、順に撃たれていた。硝煙が、まだ宙に漂っていた。


「——来たか、叛徒の飼い犬」


 グラモンは、振り向いて、笑った。撃ち終えた拳銃を放り捨て、貴族剣術の細剣を、優雅ですらある手つきで抜いた。追い詰められた男の目は、怯えの底が抜けて、暗い陶酔だけが残っていた。


「見たか、我が帝国の去り方を。貴様らが何をどう奪い返そうと、この四人は還らん。二十年、貴様らが頭を下げてきた事実も消えん。それが統治というものだ。それが——」


 テオドールは、その先を、聞いていない。


 後になって、ライネルが証言したところによれば——支隊長は何も言わずに歩き出し、グラモンの細剣の突きを受けもせず躱しもせず、半歩の見切りだけで外し、一刀で細剣を柄ごと両断し、返す刀を、振り上げた。


 グラモンの顔から、陶酔が剥がれた。剥がれた下から出てきたのは、ただの怯えだった。両断された柄を捨て、後ずさり、壁に背が付き、両手が上がった。


「ま——待て。降伏する。私は貴族だ。捕虜の権利が——」


 捕虜、という言葉が、その口から出た。


 四人を並べて撃った、その口から。


 リュミナス=シェルヴァが、振り下ろされた。


   ◇


 中庭は、静かだった。


 陽動の銃声はもう止んでいた。駆けつけた支隊の兵たちも、イルザも、ライネルも、誰も動かなかった。テオドールは、斬り下ろした姿勢のまま、荒い息だけをしていた。


 後悔は、湧いてこなかった。


 (——ああ、また、湧いてこない)


 あの野原の日と、同じだった。斬るべきものを斬った。それだけの、乾いた勘定だけが胸にあって、その乾きの向こうで、遠い誰かの声がした。後悔が湧かないことが、怖い、と言った、若い自分の声が。あのときは怖かった。いまは——怖いという感覚さえ、遅れて来る。


 剣の血を払い、納めようとした、そのときだった。


 斬られて崩れたグラモンの、胸元の軍衣の合わせから、紙が一枚、覗いていた。


 血を吸って、半分赤くなった紙だった。テオドールは、なぜだか分からないまま、屈んで、それを抜き取った。折り目は柔らかく、何度も開かれた紙の折り目だった。開くと、几帳面な、少し癖のある字が並んでいた。


 ——全軍将校ニ告グ。  ——捕虜ヲ殺スコト、コレヲ厳ニ禁ズ。住民ヲ害スルコト、同ジク禁ズ。  ——敵ニモ誇リアリ、家族アリ。我等ハソレヲ知ル軍デアラネバナラヌ。  ——コノ布告ヲ、常ニ胸ニ携エヨ。  ——南方派遣軍司令官 ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ


 常ニ胸ニ携エヨ。


 グラモンは、携えていたのである。四人を並べて撃ったこの男の胸に、この紙は、ずっとあった。何度も開かれた折り目のまま。読んだのだ。読んで、破らずに、携えて——そして、全部を裏切った。


 テオドールは、血に染まった布告を持ったまま、動けなくなった。


 敵の軍の一番上に、こういう紙を書く男がいる。


 こういう紙を書く男の軍にも、グラモンがいる。


 そして——武器を捨てた敵は捕虜とする、と、今夜自分の口で命じた自分が、いま、降伏の言葉の途中の男を斬った。この紙が禁じていることを、この紙を書いた男の敵である自分が、破ったのだ。紙の上の正しさが、敵と味方の線をまたいで、真っ直ぐに自分を指していた。


 手が、震え始めた。


 剣を握った方の手だった。あの日、井戸端で血を洗った手甲の手。もう震えてないのね、と言われ、また震える日が来る、と返した、あの手である。震えは止まらず、テオドールは血の紙を握ったまま、篝火の中庭に、立ち尽くした。


 怖さは、ちゃんと、遅れて来た。


 来てくれたことに、安堵する自分がいた。それが今夜の、たった一つの救いだった。


 足音が、隣に立った。ライネルだった。副長は何も言わず、震える手の上から自分の手を重ね、抜き身のままだった剣を、ゆっくりと鞘へ導いた。剣が納まる音がして、それでも手は重ねられたままだった。言うべきことは何もなく、言わないでいることが、この夜の友の仕事の全部だった。


 救出された人質たちが、中庭の端を、毛布にくるまれて通っていく。その列の中の小さな子供が一人、ふと足を止めて、テオドールを見上げた。見上げて——母親の陰に、隠れた。


 血まみれの男が、怖かったのである。当たり前だった。助けた側の絵は、遠くから見れば英雄の絵で、近くで見れば、血の色をしている。テオドールは、隠れた子供に何も言えないまま、ただ、剣の柄から手を離した。


   ◇


「——支隊長! 北西の物見より急報!」


 夜明け前、伝令が中庭に駆け込んできた。


「騎影、十数! 早馬で、まっすぐこちらへ! 旗は——近衛です! 近衛の、士官旗!」


 軍列ではない。十数騎の早駆け——それが何を意味するのか、疲れ切った頭は、すぐには答えを出せなかった。先触れか。軍使か。それとも。


 テオドールは、顔を上げた。


 手の震えは、まだ、止まっていなかった。

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