第39話「灰ハ芽吹ケリ」
イルザ・ヴァルトルートは、革具工房の屋根の上で、南西の空を見張っていた。
昼は工房の土間で革を縫い、夜は屋根に登る。そういう暮らしを、もう三月続けている。工房の女房は何も訊かずに夜食を包み、亭主は何も訊かずに梯子の油を差した。この街の地下は、そういう「訊かない人々」の網で編まれていた。
三晩目である。合図の夜がいつになるかは、聞かされていない。聞かされていたら、態度に出る。態度に出れば、二十年この街を見張ってきた総督府の犬たちが、嗅ぎつける。だから知らされないことが、正しい手筈だった。知らないまま、信じて、待つ。それが自分の持ち場だった。
山育ちの目は、夜目が利く。南西の地平、低い山並みの黒い稜線。その上の星の並び。三晩、同じ景色だった。
三晩目の、夜明けの一刻半前——稜線が、下から光った。
最初は稲光かと思った。だが光は消えず、膨らみ、天へ立ち上がり、雲の腹を赤く舐めた。数拍遅れて、地の底を這うような低い響きが、屋根瓦を伝って足の裏に届いた。十数里を渡ってなお、腹に響く音だった。
(——上がった)
イルザは、一瞬だけ、目を閉じた。
あの光の下に、誰がいるのかを、自分は知っている。値段を間違えたことのない、あの班長が。目を開けたとき、偵察小隊長の顔に、もう感傷はなかった。感傷は、あとだ。今夜は、生きている者の仕事を先にやる——奇しくも、遠い総司令部の剣聖と同じ結論に、山育ちの娘は同じ夜、屋根の上で辿り着いていた。
イルザは屋根裏へ滑り降り、隠してあった精霊電文機の覆いを剥いだ。
打った符丁は、三月前から決めてあった、たった六文字である。
——灰ハ芽吹ケリ。
◇
街が、動き出した。
工房の地下から、蔵の二重壁から、井戸の底の防水包みから、二晩かけて配り終えた得物が、闇の中で持ち主の手に渡っていく。角を吹く者はいない。鬨の声もない。決められた辻に、決められた組が、足音を殺して集まっていく——二十年、頭を下げて生きてきた街は、立ち上がり方まで静かだった。
得物を受け取っていく手を、イルザは配布蔵の陰からいくつも見た。パン種の匂いの染みた手。仕立て針の胼胝の手。夫を鉱山徴用で失った寡婦の、水仕事で荒れた手。銃や槍のためにできた手は、一つもなかった。そのできていない手が、今夜、街を取り返すのである。
イルザの仕事は、繋ぐことである。
門の組から鐘楼の組へ。鐘楼の組から総督府の組へ。伝令の少年たちが路地を走り、イルザ自身は屋根から屋根へ、山を駆ける足で街を渡った。どの組が遅れ、どの通りに巡察が残り、どこの手筈が狂ったか——蜂起というものは、計画ではない。計画が千切れていくのを、繋ぎ直し続ける夜である。
南門は、拍子抜けするほど簡単に落ちた。
守備兵は半減されて久しく、残った兵たちも、南西の空の異変に気を取られていた。門衛所の兵が悲鳴のような誰何を一度上げ、頭目の隊がそれを呑み込み、閂が内側から抜かれた。二十年ぶりに、リヒテンフェルデの門が、リヒテンフェルデの手で開いたのである。
頭目は、開いた門の下に立って、笑った。
旧大公国軍の生き残り。二十年、革具職人の顔で生き、地下で組織を編み続けた男である。門の下で夜風を浴びて、若い者に「風が通るなあ」と言って笑い——
次の瞬間、門楼の上から放たれた最後の一発が、その胸を撃ち抜いた。
撃った若い帝国兵は、震える手で装填をやり直す前に取り押さえられた。頭目は、担ぎ込まれた工房の土間で、集まった顔を見回し、酷く事務的な声で言った。
「……門は開いた。次、鐘楼。手順通りやれ。わしの手当は、手の空いたやつでいい」
手の空いた者が出た頃には、こと切れていた。二十年待った男は、門が開くのを見てから死んだ。早いか遅いかで言えば、あんまりな早さで、それでも、間に合ったと言えば、間に合ったのだった。
◇
鐘楼で、蜂起は最初の壁にぶつかった。
鐘楼そのものは、造作なく取れた。問題は、その上である。
「……誰か、撞き方を知ってるか」
組の男たちが、顔を見合わせた。二十年、鳴らすことを禁じられた鐘である。最後の鐘守は十五年前に死に、その弟子は徴用で連れて行かれたきり、戻らなかった。鐘はあるのに、鐘の鳴らし方が、街から絶えていたのである。
禁じるということの本当の意味を、イルザはこの夜、鐘楼の階段で知った。帝国は鐘を割らなかった。割れば恨みが残る。ただ二十年、黙らせただけだ。黙らせ続ければ、いつか、鳴らし方ごと消える——それが、あの国の焼き方だった。火を使わない焼き方だった。
「知らなくていい」
イルザは、言った。
「鳴れば、いいんです。上手いか下手かは、帝国に聞かせる音じゃない。この街に聞かせる音だから」
撞き手には、伝令をやっていたパン屋の少年がなった。一番早く階段を駆け上がったからである。綱の前に立った少年は、息を切らしながら、誰にともなく言った。
「……じいちゃんが、鐘守だった。撞くとこは、見たことねえけど。話は、千回聞いた」
技術は絶えても、話は残っていたのである。少年は撞木の綱にぶら下がるようにして、千回聞いた話の通りに、渾身で、鐘を打った。
拍子はずれで、性急で、時々つっかえた、あの鐘の音が、二十年ぶりに州都の夜空へ転がり出たのは、この瞬間である。
音が屋根々々を渡っていくにつれ、街のあちこちの窓に、灯りがともり始めた。触れも合図も受けていない、ただの住人たちの窓である。灯りは一つ、十、百と増え、やがて誰かが往来に出て、鐘に向かって、泣きながら何かを叫んだ。二十年分の何かを。
蜂起は、この鐘の音で、組の仕事から街の仕事になった。
街の仕事になったものには、街の毒も混ざる。夜半、広場の隅で、総督府の密偵だった男が住人たちに囲まれ、棒が振り上がるのを、イルザは屋根から見つけて割って入った。
「生かして、縛って。裁きは、後で。街のやり方で」
「こいつが売った名前で、何人死んだと思ってる!」
「知りません。だから裁きが要るんです。……数も知らずに殴り殺したら、あたしたちが、あっちの側の数え方になる」
棒は、下ろされた。渋々と、しかし、下ろされた。二十年頭を下げてきた街は、頭の上げ方も、これから覚えていくのである。
その夜のうちに、組の一部は旧大公宮も検めた。二十年、総督府の倉庫代わりにされてきた宮である。埃の積もった大広間、布を掛けられたままの玉座。誰も、玉座には触れなかった。触れるかわりに、老いた組の男が精霊灯を一つ、広間の入り口に灯して置いた。誰の指図でもなかった。主の帰りを待つ家は、灯を点けて待つものだ——それだけの、古い作法だった。
◇
総督府だけが、落ちなかった。
守備司令ピエール・ド・グラモンは、蜂起の最初の半刻で状況を悟り、手勢を府内に纏めて、門を閉じたのである。判断は、敵ながら速かった。そして、閉じる前に——人を、掻き集めていった。
夜警に出ていた地下組織の三人。近くの通りの住人。府の下働きの女たちと、その子供。合わせて三十余名が、府内に囚われた。
「壁に近づけば、人質を吊るす」
府の門越しに、それだけが通告された。
包囲した組は、動けなくなった。怒りで押せば人質が死に、押さねばグラモンは時間を稼ぐ。何の時間か——決まっている。救援の時間である。帝国の増援がこの州都に届けば、蜂起は一夜の夢で終わる。
イルザは、包囲の輪の後ろで、屋根に登った。府の中庭が、辛うじて見える。篝火。銃を持った守備兵。壁際に座らされた、人影の列。
(……急がないと)
山育ちの追跡手は、猟師の目で総督府を眺めながら、猟師の勘で、嫌なものを感じ取っていた。追い詰められた獣は、二種類いる。牙を残して死ぬ獣と、道連れを増やして死ぬ獣である。あの府の中にいるのが、どちらの獣なのか——中庭の篝火の並べ方、人質の座らせ方、その全部が、嫌な方の答えを指していた。
◇
日が傾き始めた頃、南の街道の物見から、伝令の少年が駆け込んできた。
「騎兵! 南から騎兵です! 旗は——市章に、鷹の飾り!」
包囲の輪が、どよめいた。イルザは屋根の上で立ち上がり、南の地平に目を凝らした。夕日の中を、土煙が一筋、まっすぐに州都へ向かってくる。その先頭に、見慣れた旗。見慣れた、黒い胸甲の列。
(——来た)
張り詰めていたものが、一瞬だけ緩んで、イルザは屋根の上で膝をつきそうになった。支隊が来た。テオが、ライネルが、二百騎が来た。これで人質も、総督府も——
そのときだった。
総督府の中庭から、銃声が、一つ。
続いて、女の悲鳴。それを掻き消すように、府の門越しに、引き攣った男の声が、夜の始まりの街に響き渡った。
「援軍だと? 結構! なら見せてやろう——叛徒の街に、帝国の去り方というものを!」




