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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第二章「第二次アードラズベルク攻防戦」

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第38話「二つの火」

 南西の空は、まだ燃えていた。


 最初の火柱はすでに落ち、いまは稜線の向こうで、赤い明るみだけが脈打つように呼吸している。距離にして十里の余。それでも丘の上の馬たちは、まだ落ち着かなかった。大地の震えの記憶が、蹄の裏に残っているのである。


 丘の上の二百騎は、誰も口をきかなかった。あの火が何なのか、兵たちは知らされていない。だが軍隊というものは、大きな火が味方の仕事であることを、匂いで知る。古参の一人が、誰に言われるでもなく帽子を取り、それが列の端まで、静かに伝染していった。


 テオドールは、馬首を南西へ向けたまま、動けずにいた。


 行かなければならない場所と、行きたい場所が、生まれて初めて、これほど真っ二つに割れていた。頭の中で、誰かがずっと算盤を弾いている。要塞から北門まで。排水路の長さ。火が回る速さ。人の足で走れる距離。算盤は何度弾いても同じ答えを出し、テオドールはその答えを、何度でも弾き直した。


「テオドール」


 ライネルの声で、我に返った。闇の中を、騎影が一つ、駆け上がってくる。支隊の伝令ではない。市の方角からの、早駆けの使い番だった。


「ファルケンハイン支隊長殿! 総司令部より、火急の命令です!」


 使い番は馬から半ば落ちるように降り、封筒を差し出した。テオドールは封を切った。角灯の明かりの中で、父の字が、いつもより太く、走っていた。


 ——リヒテンフェルデ蜂起ス。市民、門ト鐘楼ヲ確保セルモ、総督府ナオ抗戦中。  ——支隊ハ直チニ北上、州都ニ入リ、蜂起ヲ援護スベシ。一刻ヲ争ウ。


 北。


 テオドールの手が、命令書ごと、手綱を握り込んだ。革が鳴った。ライネルが横で、その手を見ていた。見ていて、何も言わなかった。


 テオドールは、顔を上げた。南西の赤い空と、北の暗い地平が、視界の両端にあった。そして北の地平の低いところに——目を凝らせば、あるかなきかの、小さな明るみが、もう一つ。


 二つの火が、夜の両端で燃えていた。


「……ライネル。隊を纏めろ。北へ行く」


 声は、出た。出たことに、テオドールは自分で驚いた。


   ◇


 半刻前。アードラズベルク総司令部。


 二つの報せは、ほとんど同時に着いていた。


 一つは、城壁の観測所から。モルゲンロート方面に大爆発。火柱、雲底に達す。誘爆、継続中——読み上げる参謀の声が、途中から震えた。執務室にいた者は皆、その爆発が何を意味するかを知らない。知らないまま、何か途方もないことが起きたことだけを知った。


 もう一つは、精霊電文で。発信元、リヒテンフェルデ。灰ハ芽吹ケリ——それだけの、短い符丁である。


 ヴィルヘルムは、二つの報せを卓に並べ、十を数える間だけ、目を閉じた。


 計画は、成った。爆破は成功し、蜂起は起きた。二十年待った夜が、いま、北の空の下で始まっている。総司令官として、これ以上の夜はない。


 そして父として、養父として、一人の男として——卓の上には、まだ届いていない三つ目の報せの、空白だけがあった。


「……マリア・ツィーグラーはどこにいる」


「工兵班の詰所です。要塞方面の物見に、志願が出ておりますが」


「許可せん」


 ヴィルヘルムは、短く言った。


「物見を出しても、火の中は見えん。見えんものを見に行かせて、人を減らすな。……生死の確認は、後だ。今夜は、生きている者の仕事を先にやる」


 言葉は、正しかった。正しい言葉というものが、言う者の胸のどこを削って出てくるものか、部屋の若い参謀たちは、まだ知らない齢だった。


 総司令官は、支隊への命令書を自分で書いた。書き終えて、封をする前に、一度だけ手が止まった。息子は今夜、あの火を見ている。あの火が誰の仕事か、知っている目で。その息子に、火に背を向けて北へ走れと、この紙は命じるのである。


 ヴィルヘルムは、封をした。


 総司令官の帳簿には、そうとしか書けなかった。


 同じ夜、商会本店の主計室では、レオンハルトが一人、灯りの下に座っていた。


 卓の上に、系列の帳簿が一冊、開いている。南方納入路線——名前を三度変える馬車たちの、二十年分の頁である。爆発が成功した以上、この経路は今夜で死んだ。帝国の憲兵がいつか辿り着く前に、紙は消えなければならない。


 レオンハルトは、該当の頁を、一枚ずつ丁寧に破り、燭台の火に移した。


 商いの理屈で言えば、これはただの証拠の処分である。だが、頁が燃えて反り返るのを見つめる男の顔は、理屈の顔ではなかった。この経路の最後の荷が何であったかを、荷主は聞かないと約束した。聞かないまま、通した。通した紙を、いま、焼いている。


 帳簿を焼かない男が、生涯で一度だけ、帳簿を焼いた夜だった。


   ◇


 支隊は、夜明け前に北上を開始した。


 二百余騎から、この三夜の欠けを引いた数が、街道を避けて野を行く。列の後尾には、乗り手のいない馬が十頭、曳かれて続いた。戦場で主を失った馬は、置いていかないのが支隊の決まりである。空の鞍も、北へ走った。


 州都までは強行軍で丸一日。馬を潰さぬぎりぎりの速歩が、延々と続いた。途中の村々は、もう蜂起の報を知っていた。井戸端に水桶が並べられ、老婆が焼き立ての平パンを兵の鞍へ押し込み、若い者が「州都はどっちだ」と得物を担いで駆け出していく。二十年、頭を低くして生きてきた土地が、一夜で、顔を上げ始めていた。


 テオドールは、先頭で馬を進めながら、何度も、振り返りそうになる自分と戦った。


 南西の空の明るみは、進むほどに山影へ沈み、やがて、見えなくなった。見えなくなってからの方が、苦しかった。見えている火は、まだ「燃えている何か」だ。見えなくなった火は、胸の中で勝手に、いろいろなものに姿を変える。崩れた岩山に。塞がれた排水路に。振り向かずに手を振った、あの背中に。


 (——仕事をしな、テオ)


 声が、聞こえた気がした。


 実際に聞こえたのではない。だが、あの人ならそう言う。それだけは、算盤より確かだった。泣きそうな顔で北へ走る支隊長に、あの工兵は言うだろう。あんたの仕事は北にある。こっちの仕事はこっちで終わらせた。工兵の仕事場に、指揮官が何の用だい——。


 テオドールは、前を向いた。


 鞍の上で、一度だけ、大きく息を吸って、吐いた。それから支隊長の声で、隊列に下令した。


「小休止のち、速歩継続! 夜明けまでに丘陵を抜ける! ——州都で人が戦っている。間に合わせるぞ」


 応、と、闇の中で二百の声が返った。


   ◇


 行軍の途中、夜明けの小休止で、ライネルが馬を寄せてきた。


 副長は、何も訊かなかった。かわりに、革袋の水と、乾酪のかけらを黙って差し出した。テオドールも黙って受け取り、黙って食った。食えることが、自分でも意外だった。


「……なあ、ライネル」


「ん」


「戦が終わったら、お前、馬を飼うんだったな。誰も乗らない馬を」


「ああ。誰も乗らない、誰も引かない、何の役にも立たない馬をな。……なんだ、急に」


「いや」


 テオドールは、東の空を見た。夜が、白み始めていた。


「続きのある話を、増やしておこうと思って」


 ライネルは、怪訝な顔を半分だけして、それから何も訊かずに、乾酪の残りを口に放り込んだ。訊かないでいてくれる友人の隣で、テオドールは短い休止のあいだ、目を閉じた。眠りはしなかった。ただ、胸の中の帳簿を、そっと閉じておいた。開くのは、全部が終わってからでいい。


   ◇


 日が傾き始めた頃、地平の先に、州都が見えた。


 最初に見えたのは、煙だった。黒い煙が三筋、四筋——だが、それは街が焼ける煙ではなかった。門楼の上がる狼煙と、篝火の煙である。そして風に乗って、音が届いた。


 鐘だった。


 リヒテンフェルデの大鐘が、鳴っていた。総督府の触れでは、この二十年、鳴らすことを許されなかった鐘である。祭りの日にも、弔いの日にも、沈黙を命じられてきた鐘が、いま、誰に憚ることもなく、割れるような音で打ち鳴らされている。


 二十年ぶりの鐘の音は、あまり上手ではなかった。撞き手が、慣れていないのである。拍子はずれで、性急で、時々つっかえて——だが、丘を越えてくる二百騎の耳に、それは、どんな聖歌より正確に響いた。


「……鳴ってやがる」と、誰かが言った。


「鳴ってるな」と、誰かが応えた。


 そして、鐘の音を聞きながら、テオドールは、遅ればせに気づいた。


 この街だ。


 炎の夜の街。オトマーが殿を務めた街。三歳の女の子が、巫女の腕の中で運び出された街。——義姉さんの、生まれた街だ。


 図書館を建てたい、と言った人の故郷に、自分は今、剣を提げて入ろうとしている。焼かれた村に図書館を。あの言葉の「焼かれた村」が、地平の向こうで、二十年ぶりに鐘を鳴らしている。


 テオドールは、抜剣し、切っ先を州都へ向けた。


「アードラスヴェーア、ファルケンハイン支隊——入城する!」

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