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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第二章「第二次アードラズベルク攻防戦」

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第37話「でっかい仕事」

 以下に記すのは、生きて語る者のない一夜の顛末である。


 だが、書かれたものは残る。


   ◇


 馬車が要塞の外門をくぐったのは、新月の前日の、夕刻だった。


「荷は」


「麦と、塩漬けと、灯り油。十二台ぶん」


「……通れ」


 検問の伍長は、荷札を三枚めくり、樽の一つを槍の柄で叩き、それで終わりだった。御者台のサーシャは、埃まみれの頬被りの下で、欠伸を一つしてみせた。緊張している御者は、欠伸をしない。だから欠伸は、装備である。


 名前を三度変える馬車の、三度目の名前は「北方糧秣組合」といった。二十年、この道を通ってきた偽名の一つで、要塞の主計官とは顔馴染みですらある。荷下ろし場では、髭の主計官が帳面を片手に「組合さんかい、ご苦労さん。今月は助かるよ、何しろこの人数だ」と樽の数を数え、数え終わった樽に、几帳面に検印を捺していった。自分の要塞を沈める樽に、帝国の検印が捺されていく。サーシャは頬被りの下で、その印を一つずつ、見送った。帝国は海で負けてから、陸の集積を倍にした。倍にした分だけ、門は忙しく、忙しい門は、目が粗くなる。


 (——ようこそ、じゃないんだよね。ただいま、でもないし)


 内郭へ続く坂道を、荷馬車はゆっくり登っていく。サーシャは頬被りの陰から、二十年分の納入記録で知り尽くした要塞を、初めて自分の目で見た。岩をくり抜いた倉の列。北東の岩盤の下の、主火薬庫の換気孔。そして、どこもかしこも——溢れていた。


 撤退してくる軍の物資が、要塞の胃袋の容量を超えて、詰め込まれているのである。回廊に弾薬箱が積まれ、中庭に樽が野積みされ、火薬庫の周りにまで、入りきらない荷が壁のように並んでいた。


 行き交う兵たちの顔も、見た。撤退してきた兵の顔である。破口の前で撃たれ、攪乱に眠りを削られ、軍票を突き返され続けた半年が、頬の削げ方に出ていた。若い兵が壁にもたれ、配給の固いパンを、時間をかけて齧っている。住みに来た、と嘯いた帝国の南方遠征の、これが内側の顔だった。


 (……あーあ。詰めたねえ、そんなに)


 工兵は、職業的に、頭の中で算盤を弾いた。弾き終えて、少しだけ、指が冷えた。この詰め方なら、誘爆は倉で止まらない。岩盤が煙突の役をして、火は上へ、衝撃は横へ——要塞そのものが、一つの砲になる。


 壊すなら、安く。今夜の仕事は、思っていたより、ずっと安く済む。安く済みすぎることの意味からは、目を逸らした。逸らすのも、装備のうちである。


   ◇


 夜半、サーシャは水桶を担いで、南西の外郭にいた。


 囚人区画。スロテンの男たちが、普請の泥にまみれて眠る小屋である。水運びの人足に扮するのは簡単だった。要塞は人で溢れ、溢れた人の顔を、誰も数えていない。


 柵の際に水桶を置き、留め金を検めるふりをして、サーシャは小屋の陰の男に、囁いた。番をしている、一番目つきのしっかりした若者——買付人の帳面に「鎖で南へ、およそ四十」と書かれた行の、最初の一人である。


「——アードラズベルクから?」


 若者の目が、見開かれた。サーシャは頬被りの端を、指一本ぶんだけ上げて、すぐ戻した。


「静かに。……夜明け前、火が上がる。でかいのがね。上がったら、南西の壁の崩れから出な。壊してあるから。鎖は——」


 水桶の底の、二重底。鑢が三本と、鍵起こしが二本。若者の手に、それが渡った。


「配れ。音を立てずにやれるかい」


「……あんた、スロテンを知ってるのか」


「帳面で読んだだけさ」


 嘘ではなかった。丘の上から全部を書き留めた買付人の帳面は、写しになって、うちの班の卓まで届いた。読んだ夜のことは、思い出さないことにしている。


「……あんた、誰だ」


「通りすがりの、水屋だよ」


 サーシャは、にっと笑った。それから、真顔になって、一つだけ付け足した。


「火が上がったら、走れ。振り向くな。荷物は拾うな。人だけ連れてけ。……スロテンの帳簿はね、あんたらが生きて帰ることで、貸方が埋まるんだ。それ以外じゃ埋まらない。分かったかい」


 若者は、分からない顔で、しかし深く、頷いた。それでいい。分かるのは、あとでいい。


   ◇


 異変は、夜明けの二刻前に起きた。


 中庭の方角で、半鐘が鳴ったのである。火事——ではない。撤収部隊の荷崩れで、積み上げた弾薬箱の山が崩れ、油壺が割れて、小火が出た。それだけのことだった。それだけのことで済むはずだった。


 済まなかったのは、この夜の要塞の当直司令が、司令部付のあの中将だったからである。


「全門封鎖!」


 ジュール・ド・レオニエの声が、夜の内郭に響き渡った。


「小火だと? 違う! これは破壊工作である! 叛徒が入り込んでいるのだ! 全門を閉じよ! 排水路も、犬の穴も、全部だ! 誰も出すな、誰も入れるな——夜明けとともに、総ざらいの検問を行う!」


 過剰反応だった。誰の目にも過剰反応だった。当直の士官が、規定では消火が先で——と進言し、怒鳴りつけられて黙った。門という門が閉じられ、哨兵が倍に立ち、そして——北の排水路の格子に、鎖が巻かれた。


 倉の陰で、サーシャはそれを見ていた。


 (……あーあ)


 帰り道が、いま、閉まった。


 サーシャは、壁に背を預けて、夜空を見上げた。星が綺麗な夜だった。月がないから、星がよく見える。こういう夜を選んだのは自分だ。文句を言う筋合いは、どこにもない。


 頭の中で、算盤を弾いた。三度、弾いた。


 排水路は、死んだ。総ざらいの検問が始まれば、御者の顔も数えられる。夜明けまで、あと二刻。点火から誘爆まで、見積もりで四半刻——短くなることはあっても、延びることはない。逃げ道を探す時間と、仕事を確かめる時間は、両方は、ない。


 (どっちか、だね)


 答えは、弾く前から出ていた。工兵の算盤は、そういうふうにできている。橋を架ける技術と、壊す技術が表裏一体であるように、生きて帰る算段と、仕事を残さない算段も、どちらかを選べば、どちらかが軽くなる。


 瞼の裏に、竈の火が浮かんだ。あの夜の、夜食用の小さな残り火。隣に座った、声の震えなかった坊やの、「——はい」の一言。あの子は知っていた。知っていて、何も訊かず、いつも通りの顔で隣に座った。上出来だ。上出来すぎて、少し、鼻の奥が痛かった。


 (マリア、班は頼んだよ。図面はあんたの卓の、三段目。……テオ)


 最後の一人の顔だけ、少し長く、瞼の裏に置いた。


 (大きくなれよ)


   ◇


 主火薬庫への最後の十歩は、拍子抜けするほど静かだった。


 ジュールの「総ざらい」は兵を門と壁に集め、皮肉にも、内側の倉の警備を薄くしていた。無能な差配は、こういうふうに、二度働く。一度目はサーシャの帰り道を閉じ、二度目は、サーシャの行き先を開けたのである。


 樽は、三日かけて、納入の荷に紛れて運び込んであった。火薬庫の外壁沿い、野積みの荷の壁の中に、七つ。庫の中の帝国の火薬と、庫の外のサーシャの火薬が、岩の壁一枚を挟んで、背中合わせに眠っている。導火索は油布に包んで、荷の隙間を這わせてある。


 サーシャは、最後の継ぎ目を繋ぎ、点火位置に膝をついた。


 導火索の長さは、四半刻ぶん。もう、どこへも走らないのだから、本当は一寸でもよかった。それでも規定の長さを取るのは、職人の癖である。仕事の手順は、命の都合で変えない。変えた手順は、必ずどこかで嘘をつく。銃と同じだ。誰かがそんなことを言っていた。


 火口を、切った。


 小さな火が、闇の中に、ぽつりと灯った。


 その火を導火索に移す、ほんの一拍前——サーシャ・グレンツは、手を止めて、最後にもう一度だけ、夜空を見上げた。


 星。岩山の稜線。南東の低い空の下に、見えない白壁の街。そのどこかの竈の前。あの、火の爆ぜる音。


 (……いい人生だったかって? )


 誰も訊いていない問いに、工兵は、にっと笑って答えた。


 (橋、いっぱい架けたからね。落としたのと、差し引きでちょうどだ。最後のこいつは——そうだね。こいつは橋だよ。渡るのに二十年かかった、でっかい、でっかい橋だ)


 火が、導火索に移った。


 小さな火は、しゅるしゅると、闇の中を這っていった。橋を落とすときと、同じ速さで。


 サーシャは点火位置を離れ、荷の壁の陰を、急がずに歩いた。走らなかった。走る理由が、もうないからである。歩きながら、口笛を、短く吹いた。調子はずれの、いつもの節を。工兵班の連中が、仕事仕舞いの合図にしていた、あの節を——


 世界が白くなる、その一拍前まで、口笛は続いていた。


   ◇


 モルゲンロート要塞の主火薬庫が爆発したのは、夜明けの一刻半前である。


 最初の閃光が岩盤を割り、割れた岩盤が煙突になって、誘爆が誘爆を呼んだ。過積載の弾薬が、倉から倉へ、回廊から中庭へ、火を継いでいく。大陸最強と呼ばれた城塞は、内側から、一つの砲になって吼えた。十里離れた丘の上で馬たちが棹立ち、雲の腹が赤く染まり——それが火事というより噴火に近い光景であったことは、すでに記した。


 南西の外郭では、崩れた壁の隙間から、四十の影が夜の野へ走り出ていた。鎖はなかった。誰も振り向かなかった。ただ一人、しんがりの若者だけが、走りながら一度だけ、燃え上がる要塞を見た。あの水屋はどこかで走っているだろうか——若者がその答えを知るのは、ずっと後のことである。


 夜が明けて、日が高くなっても、要塞は燃え続けた。


 三日、燃え続けた。


 帝国の公式記録は、後にこの爆発を「集積管理ノ不備ニ因ル事故」と記した。原因は、記録される種類のものではなかったからである。仕掛けた者の名は、帝国のどの帳面にも載らなかった。


 載っている帳面は、大陸に、いくつかだけある。白壁の街の、支隊の名簿に。無口な計算屋の、卓の三段目の図面の隅に。そして、南西の壁の崩れから夜の野へ走った、四十人の胸の中に——名前も知らない水屋の姿で。


 書かれたものは、残る。書かれなかったものも、残ることが、ある。

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