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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第二章「第二次アードラズベルク攻防戦」

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第36話「大きくなれよ」

 竈の火が、減っていた。


 テオドールは物見の塔の上で、三たび数え直した。数え間違いではない。十日前、敵陣の炊煙は四百を超えていた。今朝は、三百に足りない。竈一つに五十人。つまりこの十日で、五千人ぶんの火が、陣地から消えたのである。


 消えた火は、どこへ行ったか。


 北の街道筋に、新しい煙が立っている。等間隔に、三箇所。行軍の煙ではない。陣地の煙だ。誰かが街道沿いに、新しい宿場を作っている。


「……下がってる」


 隣で同じ煙を数えていたライネルが、先に言った。


「攻めるための動きじゃない。あの間隔は、軍を呑み込むための間隔だ。……モルゲンロートへ下がる気だぞ、あれは」


 報告は、その日の午のうちに総司令部へ上がった。そして夕刻、テオドールは父の執務室に、一人で呼ばれた。


   ◇


 執務室の卓には、例の内郭図面はもう、なかった。あるのは周辺図と、敵陣の煙の記録と、支隊の編成表である。


「読み通りだ」と、ヴィルヘルムは言った。「帝国軍は包囲を畳み始めている。名目は知らんが、実態は撤退だ。行き先はモルゲンロート。……そこでだ、テオドール」


 総司令官は、周辺図の一点——敵の後衛線と街道の結節点を、指で示した。


「支隊を率いて、出ろ。任務は攪乱だ。下がっていく敵の後衛に噛みつき、輜重を騒がせ、夜営を眠らせるな。深追いは禁ずる。会戦も禁ずる。噛んで、離れて、また噛め。……敵の目と耳を、できるだけ長く、外へ引きつけておけ」


 テオドールは、地図を見た。


 結節点。後衛線。夜営地の想定。そして——地図の南西の隅に、黒々と描かれた岩山の要塞。


 外へ、と父は言った。外へ引きつける、ということは、内から目を逸らさせるということである。そして今夜から数えて三日目の夜は——月が、ない。


 (……そういうことか)


 声には、出さなかった。出さない技術だけが、あの盗み聞きの夜から、テオドールの身についた唯一のものである。父は、息子が知っていることを知らない。息子は、父が言わないことを知っている。二人の間の卓の上で、攪乱命令という名の紙が、言われないことを全部呑み込んで、静かに置かれていた。


「攪乱の切り上げ時は、指示せん。潮時は、現場が知る。お前が決めよ」


 命令書を渡す父の手は、いつも通り、乾いて静かだった。信任というものは、この家では、言葉ではなく裁量の形で渡されるのである。


「拝命します」


 と、テオドールは言った。それから、一つだけ、言葉を足した。


「……全力で、騒いでまいります。誰の邪魔も入らないくらいに」


 ヴィルヘルムの目が、一瞬だけ、息子の目と合った。剣聖の目は、何も問わなかった。問わないことで、何かが伝わった。それが父子の、この夜の全部だった。


   ◇


 出立は、翌夕と決まった。


 支隊は湧き立った。破口の戦い以来、久しぶりの騎行任務である。厩は蹄鉄の音で埋まり、マリアは弾薬の配分表を三度検算し、クルーガー連隊長が城壁の持ち場から「羨ましいですわい」と一言だけ寄越した。


 夕刻、北門の内側に、二百余騎が整列した。定数二百四十のうち、破口の戦い以来の欠員と城内残置を除いた、出せる全部である。


 見送りは、少なかった。攪乱任務の出立は、祭りにしないのが決まりである。


 それでも、救護院の白い前掛けが一人、列の脇まで来た。アルモナは馬上のテオドールを見上げ、行ってらっしゃい、とだけ言った。それから、少しだけ考えて、付け足した。


「帰ったら——図書館の話の、続きをしましょう。書架の並べ方で、揉めてる途中だったから」


「揉めてる途中でしたっけ」


「途中にするの。続きのある話は、帰る理由になるでしょう」


 テオドールは、笑って頷いた。帰る理由を作ってくれる人の言葉は、胸甲の内側に仕舞うと、ちょうど心臓の上に収まった。


 そして、門の脇の日陰に、もう一つ、見慣れた人影が立っていた。


 サーシャだった。


「よ、テオ」


 いつもの声で、いつもの顔で、工兵班長は歩いてきた。テオドールは馬を降りた。降りてしまってから、降りる必要はなかったのに、と思った。思ったが、もう降りていた。


「見送りですか、先輩」


「ん。ついでにね」


 サーシャは、テオドールの胸甲を、ぺた、と叩いた。それから、脇の締め具に指をかけて、ぐ、と締め直した。


「緩んでる。……あんた、昔っからそうだ。前ばっかり固くて、脇が緩い。斬り込みの型がそうだから、装具までそうなるんだよ」


「……直りませんね、これは」


「直さなくていいよ。脇の緩いやつのそばには、脇を締めてやるやつが寄ってくる。ライネルとか。マリアとか。……そういう風に、できてんの」


 締め具が、鳴った。サーシャは一歩下がって、仕上がりを検分する職人の目で、テオドールを上から下まで見た。二十年前、荷役場で肩車をせがんだ坊主を見る目と、支隊長を見る目が、その一瞬だけ、同じ目になった。


「こっちもさ、テオ」


 と、サーシャは言った。


「大事な任務があるんだ。だから、しばらく留守にする」


 心臓が、一度、大きく打った。テオドールは、その音を顔に出さないために、この半月分の練習の全部を使った。


「……そうですか」


「そ。大事なやつ。でっかい仕事」


 サーシャは、にっと笑った。それから、思い出したように付け加えた。


「留守の間、班のことはマリアに頼んどいた。あの子、無口だけどね、締めるとこは締めるから。……何かあったら、マリアの言う数字を信じな。うちの班の数字は、まだ一度も嘘ついてない」


「知ってます」


「ん。なら、いい」それから、拳を上げて、テオドールの胸甲を——心臓の上を、こつん、と叩いた。


「テオ。大きくなれよ」


 それは、変な言葉だった。テオドールはもう、サーシャより頭一つ大きい。隊で一番大きいくらいだ。なのにその言葉は、少しも変に聞こえなかった。肩車の高さから世界を見せてもらった日から、この人の前でだけ、自分はずっと、大きくなる途中の子供だったのである。


「——はい」


 それしか、言えなかった。言おうとしたことは、全部、喉の手前で止めた。行かないでください、も。必ず帰ってきてください、も。知っています、も。全部、止めた。止めることが、この人への礼儀だと、竈の前の夜に決めたからである。


「よし」


 サーシャは頷いて、背を向けて、ひらひらと手を振りながら、歩いていった。


 振り向かなかった。


 テオドールは、その背中が兵舎の角を曲がって消えるまで、直立して見送った。それから馬に乗り、号令をかけ、北門を出た。


 これが、最後の別れになった。


   ◇


 攪乱は、三夜続いた。


 初夜、支隊は後衛線の東端を叩いた。輜重段列を一つ蹴散らしはしたが、駆けつけた敵の応対は不気味なほど速く、火は広がる前に消し止められた。二夜目、西端の夜営を銃火で起こして回った。敵は眠らなかったが、崩れもしなかった。どの隊も慌てず、追わず、守るべきものだけを固く守った。


「……後衛の指揮官、腕がいいな」


 二夜目の帰路、ライネルが言った。テオドールも、同じことを考えていた。噛んでも噛んでも、深手にならない。歯応えの向こうに、冷静な誰かの手つきがある。半年戦ってきた南方軍の手つきとは、違う手つきが。


 それでも、テオドールは騒ぎ続けた。戦果ではない。目が要るのだ。その完璧な騒がしさの底に、いつもと違う熱があることに、ライネルだけが気づいていた。支隊長は、いつもより半歩深く踏み込み、半歩ぶんだけ派手に旗を見せた。まるで——ここを見ろ、と。全軍の目という目を、自分たちに集めようとするかのように。


「……テオドール。三日目だ。今夜は月がないぞ」


「知ってる」


「深く出るのか」


「一番、深く出る。……今夜は、帝国軍の全員に、俺たちを見ていてもらう」


   ◇


 テオドール・フォン・ファルケンハインの名が、帝国側の公式記録に初めて記されたのは、この夜だったのかもしれない。


 新月の闇の中、二百余騎は後衛線の結節点——街道と渡河点の継ぎ目を、正面から奇襲した。突入は完璧に決まった。歩哨線は無音で抜け、段列は炎に包まれ、ここまでは、三夜の総仕上げにふさわしい戦果だった。


 罠が閉じたのは、その直後である。


 左右の闇から、火蓋の音が波のように起きた。伏兵——それも、後衛の疲れた兵ではない。整然と、三方から、教範の図のように押し包んでくる。継ぎのない軍服。乱れない銃列。近衛軍団である。腕のいい後衛の指揮官は、三夜目の獲物の通り道を読み切って、そこに帝国最精鋭の網を張っていたのだ。


 支隊は、窮地に立った。


 後にこの夜を語った古参兵たちは、口を揃えて言う。あの闇の中で、支隊長の声だけが、まるで昼間のように明瞭だった、と。テオドールは慌てなかった。囲みの厚みを銃声の密度で測り、一番薄い継ぎ目——三方の網が閉じ切る前の、南の一点を選び、そこへ自ら先頭で突っ込んだ。リュミナス=シェルヴァが闇の中で二度、三度と閃き、銃剣の壁が裂け、退路がこじ開けられた。


 だが、ただ逃げたのではない。


 テオドールは退きながら、罠ごと引き出した。壊走を装って速度を落とし、旗を見せ、追えば届く距離を保ち続けたのである。獲物が手負いに見えれば、網は追ってくる。近衛は精強であるがゆえに追撃も精強で、整然と、深く、支隊を追って平野へ出た——城壁の方角へ。


 西の稜堡の融合砲二門は、その夜、砲身を陸へ向けて待っていた。


 射程の標線を、支隊が割った。テオドールの号令で、二百余騎が一斉に火矢と信号灯を高く掲げる——自分たちの位置を、すなわち、追いすがる敵の位置を、壁の上の砲手たちへ照らし出す火である。


 次の瞬間、壁が、雷を吐いた。


 従来の倍近い射程が、追撃の先鋒のただ中で炸裂した。一発、二発——精霊銀の青白い残光が、夜の平野に柱を立てる。近衛の前衛が崩れ、追撃の脚が、初めて乱れた。


 敵の指揮官の判断は、速かった。喇叭が短く三度鳴り、近衛軍団は、来たときと同じ整然さで、闇の中へ引いていった。これ以上の深追いは、犠牲を積むだけだ——その見切りの速さもまた、一流のそれだった。


 この夜、支隊の損害は十名。対して近衛軍団は、兵の一割を失い、三割が手傷を負って下がった。


 ローレンツ・フォン・ハルベルシュタットは、断じて愚将ではない。その証拠に、最初の二夜、帝国側にほとんど被害が出なかったのは、ひとえに彼の布陣の手腕である。だがこの三夜目だけは、テオドールが上手だった——罠を読まれたのではない。罠に掛かった獲物が、罠ごと、より大きな罠へ歩いて行ったのである。


 引いていく闇の中で、近衛の指揮官は一度だけ、馬を止めて振り返ったという。乱戦の一瞬、遠目に見えた敵将の太刀筋——受けて、流して、一閃する、あの拍子。


 (……庭の型だ)


 誰の庭かは、口にしなかった。


 そして、この夜の平野の何もかも——奇襲も、罠も、雷も——後衛の全軍の目を、北の闇に釘付けにしていた。


 誰も、南西を見ていなかった。


 テオドールは、部隊を再集結させた丘の上で、馬首を返した。汗みずくの馬たち。空になった鞍が、十。任務は果たされた。果たされたことの意味を、丘の上でただ一人、知っている男の胸の中で、時計だけが静かに進んでいた。


 そのとき——うなじの産毛が、立った。


 理屈ではない。ただ、南西の方角から、何か途方もないものが来る、と、身体の一番古い部分が先に知った。テオドールが馬首を南西へ向け切るのと、ほとんど同時だった。


 世界が、南西から、白く発光した。


 音は、遅れて来た。地面を伝う低い震えが先に来て、馬たちが一斉に棹立ちかけ、それから——遠雷を百束ねたような轟きが、夜の平野をゆっくりと渡っていった。


 全騎が、馬を止めて、振り返った。


 山影の向こう、南西の空に、火が立ち上っていた。


 それは、火の手、という言葉で呼べるものではなかった。火柱が岩山の稜線を越えて夜空を舐め、赤い光が雲の腹を下から染め、燃える何かが火の粉の尾を引いて、緩慢に、幾筋も宙を舞っている。大地が腹の底から何かを噴き上げている——火事というより、噴火に近い光景だった。


 二百四十騎は、誰一人、声を発しなかった。


 夜の平野の真ん中で、騎兵たちはただ馬を並べ、南西の空が焼けるのを、いつまでも見ていた。

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