第35話「皇帝の剣」
三度目の具申は、三度目の却下で還ってきた。
——艦隊ノ喪失ニ拘ラズ、包囲ヲ継続シ、陸戦ヲ以テ都市ヲ攻略スベシ。
ジャン=リシュアンは、その訓令を幕僚たちの前で朗読させ、朗読が終わると、誰にも何も言わせずに軍議を閉じた。若い参謀が一人、口を開きかけ——閣下、それでは兵が——まで喉に出かかった形のまま、元帥の目に射られて、飲み込んだ。正しい判断である。言わせれば、誰かが本当のことを言ってしまう。本当のことを口にした将校を処罰するくらいなら、軍議そのものを短くする方がいい。
夜、ダルナンとだけ、本当のことを話した。
「数字を言え」
「糧秣、四十日。冬営の資材、皆無。軍票の受け取り拒否が、周辺集落の三割に拡大。壊れた攻城砲の代替は、来ません。海が失われた以上、輸送は全て陸路——モルゲンロート経由の一本道です。その一本道の維持に、全兵力の四分の一が張り付いています」
「つまり」
「包囲しているのは我々ですが、痩せていくのも我々です。都市は海から食べている。我々は、細い糸で食べている。……このままでは秋に、包囲という言葉が皮肉になります」
撤退。
その二文字を、二人とも口にしない。口にすれば、それは「意見」になり、意見は帝都に報告され、報告は宰相府の名簿の新しい行になる。ゴーティエ総帥の失脚が公然と囁かれ始めた今、南方軍の司令部で撤退を口にすることは、軍事ではなく、政治的な自殺である。
父の餞——転送状の「攻撃ノ中止ハ現地司令官ノ裁量ニ委ヌ」の一文は、あの破口の日に使い切った。あれは攻撃を止める裁量であって、軍を退く裁量ではない。法の網の目は、そこまで広くは編まれていなかった。
「……閣下。増援の件ですが」
ダルナンが、話題を変えた。変えたつもりで、変わっていなかったことを、二人はまだ知らない。
「近衛軍団、六千。三日後に到着します。指揮官は——ローレンツ・フォン・ハルベルシュタット」
「皇帝の剣、か」
J=リシュアンは、その名を知っていた。帝国で知らぬ者はいない。宮廷剣術の頂点ではなく、実戦の剣の頂点として近衛にある男。そして、帝都の廊下で囁かれるもう一つの事実——エルヴァ人である、ということも。
「宰相府の触れでは『攻略の総仕上げのための増援』と。……ですが閣下、妙です。近衛は皇帝の身辺を離れないのが建前。その近衛が六千、しかも指揮官があの人選。これは」
「会ってみれば、分かるだろう」
◇
近衛軍団は、砂塵も乱さずに到着した。
六千の行軍が、まるで一つの生き物のように整っている。野営の設営は二刻で終わり、終わった頃には歩哨線と砲座の位置まで決まっていた。南方軍の古参兵たちが、思わず作業の手を止めて見物したほどである。半年、泥と血の中で戦ってきた軍隊にとって、それは懐かしい絵だった。戦争を始める前の軍隊は、みんなあんな形をしていた。
「見ろよ、軍服に継ぎがねえ」
「靴も光ってやがる。……あいつら、まだ戦争を知らねえ顔してるな」
古参の一人が言い、もう一人が、焚火に薪を足しながら、ぽつりと返した。
「知らねえままで、帰してやりてえもんだ」
誰も、笑わなかった。半年前なら、新品の軍隊への嫉妬と嘲りで笑えた台詞である。いまの南方軍には、そういう笑いの持ち合わせが、もうなかった。
ローレンツ・フォン・ハルベルシュタットは、着任の礼を書式通りに済ませ、書式通りの口上を述べた。宰相閣下の勅命により、攻略の総仕上げの増援として——聞いている幕僚たちの顔に、落胆とも安堵ともつかない色が流れた。
そして、人払いになった。
幕舎に二人きりになると、皇帝の剣は、書式を脱いだ。
「元帥閣下。ここからは、書かれていない口上です」
ローレンツは、懐から何も出さなかった。出さないことが、口上の性質を語っていた。
「発ちます前に、三人の方にお会いしました。一人は総帥閣下。一人は、陸軍総司令官閣下。もう一人は——東方の御老体です」
J=リシュアンは、卓の上で手を組んだ。
「三人は、それぞれ別の言葉で、同じことを仰いました。総帥閣下は『陣立ての一切を、貴官に委ねる』と。御老体は『若いのを、生かして帰せ』と」
「……父は」
「老元帥閣下は、何も。ただ、出立の朝、厩まで見送りに来られました。馬の轡を、ご自分の手で直されて、それだけです」
J=リシュアンは、少しの間、目を閉じた。無言の父の、無言の轡直しが、どの言葉よりも長く胸に残る——そういう齢に、自分もなってきたのである。
「……それで、ハルベルシュタット卿。貴官は何をしに来た。書かれていない方の任務を聞こう」
「受け皿を作りに参りました」
ローレンツは、地図台に歩み寄り、モルゲンロートから北へ延びる街道筋を、指でなぞった。
「近衛六千は、後方連絡線の『強化』に入ります。街道沿いに中継陣地を三つ。渡河点に橋頭堡を二つ。モルゲンロート外郭に収容陣地を一つ。全て『攻略の総仕上げのための兵站強化』として、です。……ですが元帥閣下、この配置を裏から読んでいただきたい」
J=リシュアンは、読んだ。読める男である。中継陣地は、退却する軍の宿営地の間隔に置かれている。橋頭堡は、殿軍が振り切るための門である。収容陣地は——二万の軍隊を、冬の前に呑み込む器の形をしている。
「……これは、撤退線だ」
「攻略のための兵站線です、公式には」
ローレンツは、眉一つ動かさずに言った。
「命令書のどこにも、撤退の二文字はありません。閣下も、お書きになる必要がない。前線の部隊を一つずつ『兵站強化のため』後方の陣地へ移す。移し終えたとき、包囲は自然に薄くなり、軍は自然に街道の上にいる。……誰も撤退を命じないまま、撤退が完成している。そういう陣立てです」
J=リシュアンは、地図を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
法の網の目を、これほど鮮やかに編み直した図面を、見たことがなかった。三人の元帥の意志が、宰相の勅命の文言を一字も破らずに、その内側に丸ごと別の作戦を縫い込んでいる。帝都の政治に敗け続けてきた男は、生まれて初めて、政治に守られている自分を発見した。
「……一つだけ訊く。貴官は、なぜこれを引き受けた。近衛の指揮官が、宰相府を欺く陣立ての片棒を担ぐ。露見すれば、貴官の首だけでは済まない」
ローレンツは、すぐには答えなかった。幕舎の壁の向こう、南の方角——白壁の街のある方角を、見るともなく見た。
「……あの街に、私の剣の師がおられます」
と、皇帝の剣は言った。
「私の剣は、あの方の庭で生まれました。私という人間の、たぶん一番ましな部分も。……その師の街を囲む陣に、私は増援として来ました。せめてこの陣が、誰かを生かして帰す形をしていなければ——私は、あの庭で習ったことを、全部裏切ることになる」
エルヴァ人の近衛司令官は、それだけ言って、書式の顔に戻った。
辞去の間際、J=リシュアンは、ふと言った。
「ハルベルシュタット卿。貴官の型は、読んだことがある」
「……は」
「幼年学校の教範、第Ⅴ式の頁だ。閲覧制限がかかっていたがな。首席の特権で、読んだ」
ローレンツの目に、初めて、書式でないものがよぎった。驚きと、それから、ほんのわずかな可笑しさである。
「あの頁は、間違いだらけですよ、閣下」
「だろうな。教範に閉じ込められる剣なら、閲覧制限など要らん」
若い元帥と、父の代の近衛司令は、そこで初めて、書式の外で目を合わせた。握手はしなかった。する必要が、なかったのである。
◇
同じ頃。北のリヒテンフェルデ。
州都の夜は、表向き、静かだった。総督府の窓に灯り、巡察の靴音が石畳を刻み、酒場は触れ書き通りに早仕舞いする。二十年続いた、属州の夜である。
その静かな夜の、皮の一枚下で、街は沸き始めていた。
イルザ・ヴァルトルートは、革具工房の地下で、六人の男女と車座になっていた。旧大公国軍の残党。ギルドの顔役。そして、灰色の外套の老巫女がひとり。卓の上には、街の見取り図と、武器庫の目録と、精霊灯がひとつ。
「武器は、あと二晩で配り終わる」と、残党の頭目が言った。「合図は」
「南西の空です」
イルザは、言った。三月かけて、海路と山道で運んできた、その一言を。
「南西の空が、夜中に赤く焼けたら——それが合図。モルゲンロートが燃えた印です。守備隊は必ず南へ目を向ける。州都の兵は半分に減らされて、もう三月になる。その夜に、門と、総督府と、鐘楼を取ります」
「南西の空、ねえ」
頭目は、腕を組んだ。
「岩山の要塞だぜ。あれが燃える晩なんてのが、本当に来るのかい」
「来ます」
イルザは、断言した。断言できる根拠は、一つしか持っていない。だが、それで足りた。
「うちの班長が、壊すなら安くって言いながら請け負った仕事は、まだ一度も、値段を間違えたことがないんです」
灰色の外套の老巫女が、精霊灯の火を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……二十年、この街は灰の下で息をしてきた。灰の下の火種は、消えぬものだよ。——風さえ、吹けばな」
地下室の精霊灯が、誰も触れていないのに、ひとつ、瞬いた。
◇
南の包囲陣では、その夜から、部隊が一つ、また一つと、静かに後方の「兵站陣地」へ下がり始めた。
「兵站強化だとよ」
「ありがてえ話だ。後ろは竈が近い。飯が温けえ」
下がっていく兵たちは、そう言い合って、久しぶりに軽い足で歩いた。自分たちの歩いている道が、誰にも命じられなかった撤退路であることを、彼らは知らない。知らないまま救われていく者の背中ほど、指揮官の胸に応えるものはない——後衛の丘の上で、J=リシュアンは、長い列を黙って見送った。
誰も、撤退とは呼ばなかった。
そして空には、月が、夜ごとに細くなっていった。
新月まで、あと六日である。




