第34話「橋の話」
海戦の勝利から十日。街は、勝ちの後の顔になっていた。
港は再び荷で埋まり、市場の升は一回り大きくなり、壁の上の桟敷はもとの持ち場に戻った。捕虜収容所——旧穀物倉を転用したそれ——では、海から引き上げられた帝国水兵二千余が、宣誓の署名と引き換えに中庭の散歩を許され、都市の子供らが柵越しに干し無花果を投げ込んでは衛兵に叱られていた。
だが、包囲は解けていない。
陸には、まだ二万がいる。砲は沈黙し、強襲は潰え、海は開いた。それでも帝国軍は下がらない。下がらない理由が帝都の面子であることを、市民の多くはもう新聞で知っている。面子で維持される包囲ほど、いつ何を命じられるか分からない包囲もない——物見の塔の上で、テオドールは毎朝、敵陣の煙の数を数え続けていた。
そして、モルゲンロートが立っている限り、この戦争は終わらない。
あの要塞が、南方の帝国軍の心臓である。弾薬も、糧食も、冬営の屋根も、すべてあそこから出る。あそこが立っている限り、帝国は何度でも来る。誰もが知っていて、誰もが口にしない事実だった。攻められないからである。大陸最強の城塞を、一万九千の都市軍で囲む算術は、どこにも存在しない。
◇
その夜、総司令部の執務室で、ヴィルヘルム・フォン・ファルケンハインは、一枚の図面と向き合っていた。
モルゲンロート要塞、内郭平面図。正規の手段では入手不可能なはずのそれが、卓の上にある。理由は簡単で、この要塞に二十年、資材と食糧を納めてきたのは商会の偽装系列だからだ。納入業者は、倉の位置を知っている。倉の位置を知る者は、火薬庫の位置を知っている。
「——ここです」
サーシャ・グレンツの指が、内郭の北東、岩盤をくり抜いた区画を叩いた。
「主火薬庫。岩の下だから砲じゃ届かない。坑道も無理、岩盤が深すぎる。空からも無理。……でも、中からなら、届く」
「中へは」
「軍票の納入馬車。名前を三度変える、いつもの道です。帝国は海で負けて、陸の集積を倍にしてる。馬車の列は今、月に六度。検問は荷を見るけど、御者の頭数までは数えても、顔までは覚えちゃいない」
「経路の元締めは、レオンハルトだ。どこまで話してある」
「若旦那には、昨日。……返事は一言でしたよ。『荷は通す。中身は聞かない』。それから半日経って、酒蔵から一番いい蒸留酒が一本、班に届きました。手紙は付いてませんでした」
手紙の付いていない酒、というものの意味を、この部屋の二人は正確に読めた。読めたので、二人とも、それについては何も言わなかった。
決行は、次の新月。納入の日程表と月齢が重なる夜は、向こうひと月で一度しかない。
サーシャは、淀みなく続けた。積み荷に紛れ込ませる樽の仕様。導火の方式。点火から誘爆までの見積もり。夜番の交代刻限。そして——
「普請場の労務者——鎖の四十人は、爆破の刻限、囚人小屋にいます。小屋は南西の外郭、火薬庫から一番遠い。誘爆の範囲外です。計算して、そうなる時刻を選びました。……ついでに言えば、爆発のどさくさってのは、鎖を切るのに一番いい時間です。手筈は、荷の中に仕込んでおきます」
ヴィルヘルムは、図面から顔を上げた。
「そこまで組んだか」
「スロテンの分は、うちの班の帳簿にも載ってますから」
執務室に、蝋燭の芯の爆ぜる音だけが、しばらく残った。
ヴィルヘルムは、計画の穴を探した。総司令官として、探す義務がある。潜入は、通る。爆破も、通るだろう。この工兵の計算が仕事で外れたのを、見たことがない。穴は、一つしかなかった。一つだけ、大きく開いていた。
「……脱出の段が、薄い」
「薄くないですよ。ちゃんとあります」
サーシャは、笑った。いつもの、軽い笑いだった。
「爆発の前に混乱を作って、北門から出る。図面のここ、排水路。ね、あるでしょ」
「あるな。間に合うのか」
「間に合う算段です」
算段です、と工兵は言った。間に合います、とは、言わなかった。
ヴィルヘルムは、この二つの言い方の間にある距離を、正確に測れる程度には、長く生きていた。図面の上の排水路と、点火位置と、夜番の経路を目で結び、頭の中で歩き、時間を数え——数え終えて、静かに、目を閉じた。
兵の帰ってくる勝ち方を。
十日前、海の男にそう頼んだ。頼んだ男が四十隻を一人も欠けずに連れ帰った桟橋で、わしは帽子を取った。その手で今夜、帰りの算段の薄い紙に、判を押そうとしている。
「……サーシャ・グレンツ。これは命令にはせん」
と、総司令官は言った。
「命令にすれば、わしはお前に死ねと命じたことになる。志願にすれば、わしはお前の死に判を押したことになる。どちらでも、わしの帳簿は同じだけ重くなるが——お前の帳簿は、違うのだろう」
「違いますね」
サーシャは、あっさり頷いた。
「命令なら、死にに行く人になっちまう。志願なら、仕事をしに行く人です。工兵ってのは、そういう生き物なんですよ、総司令官殿。橋を架けるのも、橋を落とすのも、誰かがやらなきゃならなくて——で、一番安くて一番上手いのが、たまたまこの手だった。それだけの話で」
「……壊すなら、安く、か」
「お。ご存じで」
「お前の隊の者は、みな口癖まで報告書に書く」
二人は、少しだけ笑った。それから、ヴィルヘルムはWindschneiderの柄に手を置き——署名ではなく、剣士の癖で、心を決めるときの仕草である——一度だけ、深く頷いた。
「決行は、次の新月。それまでに、書き残すものがあれば書いておけ。帰ってから破り捨てる紙を、な」
「はは。総司令官殿も、言うようになった」
◇
テオドールが総司令部に来たのは、まったくの偶然である。
夜間巡察の報告書を、当直参謀の卓に置くだけのつもりだった。廊下の突き当たり、執務室の扉が、指二本ぶん、開いていた。灯りが漏れ、声が漏れていた。父の声と——先輩の声。
立ち聞きするつもりは、なかった。なかったが、足が止まった。
「——脱出の段が、薄い」
「薄くないですよ。ちゃんとあります」
その先を、テオドールは廊下の暗がりで、全部聞いた。間に合う算段です、という言い方も。命令にはせん、という父の声も。仕事をしに行く人です、という、いつも通りの、軽い、あの声も。
帰ってから破り捨てる紙を——。
気づけば、テオドールは音もなく廊下を戻り、報告書を当直の卓に置き、外へ出ていた。夏の夜気が、肺に入らなかった。
(モルゲンロート。納入馬車。新月。……先輩が)
支隊長として、作戦の機密を漏れ聞いた場合の正しい振る舞いを、テオドールは教範通りに知っている。聞かなかったことにする。それだけだ。だが教範は、聞かなかったことにする方法までは教えてくれない。胸の中で鳴っている音を止める方法は、どの頁にも載っていない。
自室に戻り、テオドールは癖のように、帳簿を開いた。
開いて、閉じた。書くことは、何もない。書くべきことも、まだ何もない。まだ、何も起きていないのだ。ただ、この帳簿のどこかの頁に、いずれ書き込まれるかもしれない一行の場所だけが、開く前から、もう分かってしまっていた。
(書く欄が、この世に生まれないでくれ)
祈りの形として、これほど不格好なものもなかった。テオドールは帳簿を仕舞い、眠るのを諦めて、外へ出た。
中庭の隅の竈に、火が残っていた。
その前に、サーシャが座っていた。総司令部を出て、まっすぐ兵舎に帰らず、いつもの場所で、いつものように、火に薪を一本足しているところだった。
「よ、テオ。夜回りかい」
いつもの声だった。テオドールは、喉の奥のものを全部飲み下すのに、一呼吸ぶんの時間を使った。ブラムの言葉が、耳の奥で錨のように重かった。——静かな工兵ってのはな、でかい仕事の前の職人の顔だ。詮索するな。飯だけ、食わせておけ。
「……夜回りです。先輩こそ、寝ないんですか」
「寝るさ。火の始末をしたらね」
テオドールは、隣に座った。座って、火を見た。竈一つ、五十人ぶんの火。いまは夜食用の残り火で、番兵の茶を沸かすだけの小さな火である。
「なあ、テオ」
と、サーシャの方から言った。
「あんた、前に訊いたろ。戦が終わったら何をするか、って。ブラムの親父にも訊いたって聞いたよ。ライネルは馬で、あんたの義姉さんは図書館だっけ。……こっちの答え、まだ言ってなかったよね」
心臓が、一度、大きく打った。テオドールは、火から目を離さなかった。離したら、何かがこぼれる気がした。
「聞いてません」
「橋を架けたいんだよね」
サーシャは、火に向かって、両手をかざした。
「でっかいやつ。ヴェルダ川の、河口のさ。いまは渡しでしか越えられないだろ、あそこ。あそこに石の橋を架けるの。三百年もつやつ。……この手はさ、テオ」
サーシャは、火にかざした両手を、裏に返した。工兵の手だった。火薬の染みと、古い火傷と、鑿だこの、勲章より雄弁な手である。
「この戦争で、壊す方ばっかり上手くなっちまった。橋落として、壁の下に穴掘って、船まで沈めた。だから終わったら、逆をやるの。逆をやって、差し引きを合わせて死ぬんだ。工兵の帳簿は、そうやって締めるもんでね」
火が、爆ぜた。
「……いい話でしょ」
「——はい」
それだけ言うのが、テオドールにできる全部だった。
声が震えなかったことだけが、その夜の、たった一つの勲章だった。




