第33話「耄碌」
凶報というものは、単独では歩かない。
最初の一報は、真夜中に来た。南方派遣艦隊、消滅ス。宰相府は夜明けまでそれを握り潰し、握り潰している間に、大陸中の新聞が朝刊を刷った。情報というものの脚の速さを、宰相府はいまだに軍馬の速さで考えている——ゴーティエが苦い茶と共に呑み下した、その朝の最初の感想である。
帝都の市民は、その朝、帝国史上初めて、敗戦を官報より先に新聞で知った。パン屋の店先で、辻馬車の御者台で、取引所の階段で、同じ紙面が読み上げられた。検閲局が昼までに新聞を差し押さえたが、差し押さえられた紙の値は三倍になっただけである。禁じられた紙は高く飛ぶ——南の街で実証済みの法則が、帝都で二度目の実証を得た。
二報目は、昼に来た。東方からの公電。ヤシマ戦役、和睦成立。第二艦隊は東の海の脅威を退け、島国との間に通商条項を含む講和が結ばれた——文面だけなら、この数年で帝国が受け取った最良の報せである。
ただし、末尾に一行、爆薬が付いていた。
——本戦役ノ艦隊指揮ハ、勅許ニ基ヅキ、予備役エティエンヌ・ラ=マリニエール海軍大将之ヲ執レリ。
三報目は、夕刻、南方軍の経由で届いた。マレ・グラヴィス湾に正体不明の艦隊。帆のない黒い軍艦。翻弄されるアードラズベルクの商船団。そして、敗残兵の収容。指揮官の名は確認されていないが、生存者の証言は一致している——あの櫓の上に立っていたのは、免職された提督だ、と。
三つの報せが出揃った夜、宰相府の大広間で、緊急の重臣会議が開かれた。
ゴーティエは、開始から四半刻、一言も発さずに観察した。観察に値する光景ではあった。帝国の中枢が、三方向から同時に殴られて、どの頬を押さえるべきか決められずにいるのである。
「艦隊が、消滅……消滅とは何だ。軍事用語に消滅などという言葉があるのか」
「新聞が先に報じたことが問題なのだ。検閲局は何をしていた」
「ヤシマとの和睦は僥倖だが、通商条項の中身は誰が精査した」
「そもそも予備役の提督に、誰が、どの権限で——」
そして、会議の卓の一角には、朝から一言も発しない男がいた。
サン=ヴァラン財閥の当主である。南方派遣艦隊の副司令だった御曹司の、父親である。老当主は葬儀の黒をまとい、誰の演説にも頷かず、ただ時折、宰相の横顔を見た。その視線の温度に気づいた者は、気づかないふりをした。三大財閥の一角が宰相府に向ける目付きとしては、前例のない冷たさだったからである。息子を乗せた艦隊を「政の道具」と呼んだ男を、金の側は、忘れない。
最後の問いだけが、部屋の温度を下げた。全員が、答えを知っていたからである。知っていて、口に出す度胸のある者が、宰相しかいなかった。
「——フォークレラン」
オーギュスト・ド・レオニエは、その名を、噛んで吐いた。
「老人は病床の陛下に何と囁いた。予備役への艦隊指揮権の勅許など、帝国史に前例がない。しかも和睦だと? 誰が和睦を許可した。戦争を終える権限は、宰相府の——」
「せ、戦役の……終結の条項は、東方総督の職権の、内でございます」
法制局の老官僚が、震えながら、しかし正確に言った。
「ラ=フェオ総督府の設置勅書に、明記がございます。東方に関わる戦和の一切は、総督の専断を許す、と。……二十二年前、陛下が即位なされてすぐ、総督府を設けた際にご自身がお入れになった一文で」
「ならばあの艦隊はどうだ! マレ・グラヴィスの黒い船は! あれはヤシマの海域ではない、南方だ! 総督の職権のどこに、南方への出撃があるか!」
それには、誰も答えられなかった。答えは翌日、当のラウル・ド・フォークレランが、自分の口で持ってきた。
◇
先代総帥は、約束もなく宰相府に現れた。旅装のままで、供も連れず、あの夏の日と同じように。
「老いぼれの耄碌でな」
と、ラウルは開口一番、言った。
「預かりの提督に、艦隊の慣らし運転をさせておったのだ。ヤシマ帰りの艦は機関の癖が抜けん。南の海が空いておると聞いたで、走らせた。……そうしたら何やら、狐の旗の船が商売敵と喧嘩をしとってな。年寄りは喧嘩の仲裁が仕事だ。拾えるものを拾って、帰ってきた。それだけの話よ」
それだけの話、で済む話ではない。この部屋の全員がそれを知っており、ラウルもまた、全員が知っていることを知った上で、済む話として卓に置いたのである。
オーギュストの指が、肘掛けの上で、白くなった。
ゴーティエは、その指を見ていた。癇癪の人が、癇癪を飲み込む瞬間というものを、帝国の重臣たちは生まれて初めて見物していた。衛兵を呼ぶ声も、反逆咎の宣告も、出てこない。出せないのである。
なぜ出せないか。
若い重臣は「陛下のご信任ゆえ」と思っている。それは正しいが、半分である。古い重臣は「先代総帥の武名ゆえ」と思っている。それも正しいが、まだ半分である。
残りの半分を、ゴーティエは知っていた。宰相も、無論、知っている。
帝国の金庫は、東方で立っているのだ。
国庫歳入の柱は、いまやラ=フェオからの税送りである。南方の属州は二十年、焼いて、締めて、搾って——挙句に戦費の底なし沼になった。北方は鉱山が痩せ、西方は昔から実入りより誇りの土地だ。帝国で唯一、毎年きちんと太っていく財布が、東方なのである。
そしてその東方は、搾られていない。
ラウルは三十年、あの傀儡国に自治を許してきた。市場を開き、税を軽くし、ヤシマとの交易を黙認し、精霊の祭りを禁じなかった。民が豊かだから、税収が豊かなのだ。帝国が帝国のやり方の反対をやった土地だけが、帝国を食わせている——この皮肉を、帝都の誰も口には出さない。出せば、南方の二十年が何だったのかという問いに、答えねばならなくなるからである。
つまり、ラウルの首に手をかけることは、帝国の財布の紐に手をかけることだった。
実質的な皇帝——陰でそう囁く者すらいる老人は、しかし玉座にも宰相の椅子にも興味を示したことがなく、ただ東方の椅子に座って、金の鎖を、一度も引かずに握っている。引かない鎖ほど、重い鎖はない。ゴーティエはふと、南の街の、会ったこともない若い商人のことを、なぜか思った。
「……総督殿の、仲裁の労を多とする」
オーギュストは、絞り出した。生涯で最も高くついた社交辞令だったろう。
「なに。それとな、宰相殿」
ラウルは、立ち上がりざま、こともなげに付け加えた。
「東方の税送りの件、少し遅れる。ヤシマとの講和で、あちこち物入りでな。——なに、心配はいらん。わしが息災なうちは、滞りなく着く」
わしが息災なうちは。
その七文字の意味を、取り違える者は、部屋に一人もいなかった。
老人が退出し、扉が閉まってから、たっぷり十を数える沈黙があった。それから、誰かが——誰だったかは議事録に残っていない——溜め息と一緒に、呟いた。
「……実質的な皇帝、とはよく言ったものだ」
誰も、窘めなかった。窘める言葉が、見つからなかったのである。
◇
会議の残りは、敗戦の帳尻合わせだった。
誰かが責任を取らねばならない。生きている責任者は取りたがらない。ならば、と、宰相府の筆は、死者へ向かった。メルヴィル元帥の「独断と怠慢」。艦隊消滅の責は艦隊司令にあり——絵図としては、きれいに閉じる。死人は抗弁書を書かないからである。
「お待ちいただこう」
ゴーティエは、そこで初めて、長く発言した。
総帥府の文書箱から、二つの紙を出した。一つは、出港前にメルヴィルが総帥府へ残した艦隊状況の上申——樽の数、艤装率、壊血の予測。もう一つは、あの絨毯の部屋の後、ラ=マリニエールが置いていった海図と、九つの数字の覚書である。
「艦隊は出港の日、既に沈んでいた。沈めたのは南の海ではない。この帝都だ。……メルヴィル元帥は、沈むと知っている艦隊を、沈むと言えぬまま率いて、最後は降伏の秩序を保って艦と沈んだ。帝国は、この男から名誉まで取り立てるのか。取り立てた名誉で、次は誰が海へ出る」
「異議は、総帥府に同じ」
ジャン=バスティアンが、短く言った。老元帥はこの日、それしか喋らなかった。喋らない老人の一言は、長広舌より重く卓に落ちたが——
部屋は、静かだった。静かなまま、しかし筆は止まらなかった。ゴーティエの抗弁は議事録に残り、サン=ヴァラン老当主は黙って写しを求め、そして議事録に残ることと通ることは、この帝都では別の事柄なのである。
南方軍への訓令だけが、その夜のうちに決まった。
——艦隊ノ喪失ニ拘ラズ、包囲ヲ継続シ、陸戦ヲ以テ都市ヲ攻略スベシ。
陸だけで落とせ、である。海の封鎖という前提が沈んだ勅命が、前提を失ったまま、生き続けることになった。紙の上の戦争は、いつも現実より長生きする。
◇
深夜、総帥府に戻ったゴーティエは、ラ=マリニエールの海図を、もう一度広げた。
九つの数字の覚書。几帳面な字。「いつか誰かが、読む日のために」と言い残された紙を、いま読んでいる。読んで、どうにかなる局面は、とうに過ぎていた。それでもゴーティエは、覚書の余白に、自分の手で一行を書き足した。
——次ニ帝国ガ海軍ヲ持ツ日、必要ナノハ艦デハナク、コノ男デアル。
書いてから、老総帥は自嘲した。これもまた、読まれない紙になるのだろう。それでも、書かれたものは残る。南の街の言い草が、この頃は帝都でも、じわじわと流行り始めているのだった。
同じ夜。宰相府の奥の間では、別の紙が作られていた。
表題はない。あるのは名前の列である。ゴーティエ・ド・セルヴィル。ジャン=バスティアン・ドゥラクロワ。ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ。ラウル・ド・フォークレラン——最後の名には、線が引かれ、消され、また書かれ、また消されていた。
負けの帳尻を合わせる相手の一覧を、宰相は、作り始めたのである。




