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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第二章「第二次アードラズベルク攻防戦」

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第32話「帆のない船」

 夜明けのマレ・グラヴィス湾に、六隻の敗残が身を寄せ合っていた。


 焼け焦げた索具。応急の帆。半分になった乗員。アードラス湾の煙の中を、潮と運だけで抜けてきた船たちである。旗艦を失い、司令部を失い、艦隊というものを構成する何もかもを失って、それでもとにかく北へ、北へと走り——燃料ならぬ気力が尽きた場所が、この湾だった。


 戦列艦《フィデール》の後甲板に、十六歳の士官候補生がいた。


 旗艦《アルシオーヌ》の伝令士官だった少年である。あの日、降伏信号の直前、元帥は少年を通信文と共に僚艦へ移した。「若い者から運ぶのが、伝令の決まりだ」——それが、柑橘を回してくれた老元帥から受けた、最後の命令だった。


 少年は、南の水平線を見張っていた。歯茎はまだ疼く。だが見張りには立てる。生き残った者は、生き残った者の仕事をする。それだけを考えるようにしていた。


 水平線に、帆が生えた。


「……帆影! 南南西、多数!」


 艦内に残っていた者たちが、甲板に転がり出てきた。誰もが同じことを考えた。救援か。追撃か。祖国の帆か、それとも——


 帆が近づく。軍艦旗ではない。商会旗だ。だが、鷹ではない。銀色の狐を染め抜いた、見慣れない旗——アードラズベルクの商会は、ファルケンハインだけではないのである。


 ヴェッセル商会、武装船団十四隻。


 その追撃行の理由を、敗残の帝国兵たちは知る由もなかった。アードラス湾の大勝利は、何もかもがファルケンハインの手柄だった。海はブラム、罠は鷹の系列、火は鷹の工房。翌朝の号外に狐の字は一つもなく、あるのは鷹、鷹、鷹である。


 ヴェッセルの若頭は、その号外を握り潰して出港を命じた男だった。祖父の代から三代、鷹の街で二番手の旗を掲げてきた。荷は鷹の残り、航路は鷹の余り、戦時の武勲までも鷹の独り占めとあっては、孫子の代まで二番手が家紋になる。ならばせめて逃げた魚だけでも狐が獲らねば——その算盤を、船団の誰も止めなかった。勝ち戦の後の海ほど、欲に優しく見えるものはないからである。


 ただ一人、老練の船長が「議会の許可は」と訊いた。若頭は答えた。「勝ってから取る。勝ちの後の判子は、軽い」——この言い草だけは、後々まで語り草になる。悪い意味で、である。


「砲門、開け! 手負いだ、恐るるに足らん! 一隻残らず獲って、狐の旗で港へ曳くぞ!」


 敗残の六隻に、戦う力はほとんど残っていない。候補生は、砲側で唇を噛んだ。ここまで生きて、商会の私略船に獲られるのか。それが帝国海軍の終わり方か。


 そのときだった。


 湾の奥の朝靄から——船が、出てきた。


 最初、候補生はそれを理解できなかった。船は三隻。低い、黒い、見たことのない形の船体。そして。


 帆が、ない。


 帆がないのに、走っている。マストは信号檣が一本きり。煙突もない。艫に白い航跡だけを長く引いて、無風の朝の海面を、まるで見えない手に押されるように、滑ってくる。その背後から、同じく帆のない小型艇が五隻、狼の群れのように展開していく。


「な……何だ、あれは」


 誰も、答えられなかった。大陸のどの海図にも、どの教範にも、載っていない船だった。


   ◇


 最新鋭艦《オリオン》の艦橋で、エティエンヌ・ラ=マリニエールは、遠眼鏡を下ろした。


「……間に合ったか」


 ヤシマの海の和睦から、二十と九日。


 東の列島の国との戦は、この春から夏を丸ごと呑んだ。八百万の精霊を戴くという島の水軍は恐ろしく強く、恐ろしく礼儀正しく、そして戦の終わらせ方を知っていた。撃退、交渉、和睦——砲声より交渉の卓の方が長かったが、終わってみれば、得たものは大きい。海の平和と、そしてこの黒い船たちの、実戦の慣熟である。


 予備役の男に艦隊の指揮権を与えるという無理筋を、ラウル総督は、病床の陛下の枕元から直々に通してきた。あの夏の日、宰相府の応接室で「病床に上がる」と言った老人が、上がった先で何を取り付けてきたのか——ラ=マリニエールがそれを知ったのは、東方に着いてからである。


 そして帰投の途上、南から敗報が来た。総督の指示は電文一枚、短いものだった。


「海で拾えるものを、拾ってこい。艦も、人も、名誉もだ。……命令書は出さん。わしの一存だ。帝都が何か言うてきたら、老いぼれの耄碌ということにしておけ」


 だから、この出撃はどこの帳簿にも載っていない。載っていない艦隊が、載っていない船で、載っていない海戦をやりに来たのである。


「敵——というべきかは知らんが、狐の旗の船団、敗残艦へ砲撃を始めています」


「では、敵だ」


 ラ=マリニエールは、静かに言った。


「本職の任務は収容である。収容の邪魔をする者は、旗が何色でも敵である。……全艦、機関三分の二。教練通りにやる。当てて、下がる。当てて、下がる。深追いは一寸たりとも許さん」


 三隻と五隻が、動いた。


 それは、帆の海戦を知る者の目には、海戦に見えなかった。風上も風下もない。上手回しも下手回しもない。黒い船たちは風を無視して、自分の選んだ針路を、自分の選んだ速さで走った。ヴェッセル船団の右翼へ斜めに突っ込み、すれ違いざまに舷側砲を叩き込み、返す刀を待たずに離脱する。追おうと帆を回す間に、もう次の三隻が、今度は左翼の後ろから現れて、一撃して、消える。


 一陣が下がれば、二陣が出る。二陣が下がれば、三陣が出る。波が岩を叩くように、規則正しく、休みなく。


「面舵! 追え! ……取舵、いや、砲を——」


 ヴェッセルの若頭の命令は、半刻で支離滅裂になった。帆船は、風と潮の許す針路しか取れない。相手は、許しを誰にも求めない。気づけば船団は隊形を失い、各艦がばらばらの方角へ砲を向け、同士討ちを恐れて撃てず、撃てないまま次の一撃を受けた。


 十四隻のうち、三隻が沈み、四隻が漂い、残りは算を乱して南へ逃げ始めた。黒い船たちは、逃げる者を追わなかった。最初の宣言通り、一寸たりとも。


 候補生は、《フィデール》の甲板から、その全部を見ていた。


 恐ろしかった。そして——認めるのに時間はかからなかった——美しかった。あれは自分たちが半年かけて失ったもの、そのものだった。規律。整然。命令と実行の間に、迷いが一枚も挟まっていない艦隊。それが、帝国で異端と呼ばれる船に乗って、異端と呼ばれた提督に率いられて、目の前で戦っている。


「収容艇が来るぞ! 動ける者は舷側へ!」


 黒い小型艇が、敗残艦に横付けした。


 舷側で、若い水兵が一人、胸の前で焔印を切りかけて——手を、止めた。聖焔の教えで言えば、あの帆のない船は、禁忌の術で走る異端の船である。異端の船が、いま自分たちを助けに来ている。祈りの手の行き場を失った水兵に、隣の老水夫が低く言った。「切っとけ。……助かる命に、宗派はねえ」


 乗り込んできた収容班の水兵が、候補生の顔を見て、階級章を見て、敬礼した。


「オリオン艦隊です。提督の命令で、迎えに来ました。——歩けますか、士官殿」


   ◇


 南の水平線に、新しい帆の群れが立ち上がったのは、その半刻後である。


 四十隻。鷹の旗。ブラム・ノードの主力だった。


《オリオン》の艦橋で、ラ=マリニエールは遠眼鏡を上げ、先頭の旗艦の艦影を確かめ、そして言った。


「潮時だ。……収容中の二隻は間に合うか」


「あと四半刻です」


「四半刻、稼ぐ。三番隊、最後の一当てを北東から。当てたら、そのまま離脱針路へ入れ。あの提督の間合いに入るな——あれは、狐とは別の生き物だ」


 最後の一撃は、挨拶のようなものだった。黒い三隻がブラム艦隊の先鋒の鼻先を横切り、届くか届かぬかの距離で一斉射を送り、白い航跡を引いて北へ転舵する。動ける敗残艦二隻と、収容しきった千百の乗員を連れて、帆のない艦隊は、風上へ——帆船には決して追えない、風上へ——悠々と消えていった。


   ◇


 ブラムは、追撃を命じなかった。


 命じても無駄なことは、航跡を一目見れば分かった。かわりに提督は、漂流者の救助と、降伏した敗残艦の接収を淡々と進めさせ、艫楼の手すりに肘を置いて、北の水平線を長いこと見ていた。


「……ありゃあ、本物だ」


 と、ブラムは言った。


「船もだが、指揮がだ。当てて、下がって、深追いなし。拾うものを拾って、儲けが出たら店じまい。……ありゃあ軍人の戦じゃねえ。商人の戦だ。一番おっかねえやつだよ」


 隣で、マレーヌが、口を利かなかった。


 通信士の娘は、双眼の遠眼鏡を、消えていく白い航跡に向けたまま、化石のように固まっていた。その手が、ゆっくりと下り、震えているのに、ブラムは気づいた。


「嬢ちゃん?」


「……帆が、ないんです」


「見りゃ分かる」


「分かってません、提督」


 マレーヌは、振り向いた。その目は、恐怖と、それからもっと質の悪いもの——見覚えに、見開かれていた。


「無風で、あの速度。転舵で航跡が乱れない。煙突がないから蒸気じゃない。……あれ、精霊駆動です。精霊銀の触媒で水を掴んで進む機関。あたしが——あたしたちが工房の地下で、まだ図面と模型でやってるものです。五年先の話だと思ってた。……それを帝国は、もう三隻、海に浮かべてる」


 それから娘は、震える手で帳面を開き、震えの止まった字で、数字を書き付け始めた。恐怖と分析が同居できるのが、この娘が大学校から借りられてきた理由である。


「……ただ、弱点も見えました。触媒は食うはずです、莫大に。だから三隻とも、あんなに早く帰った——長くは走れないんです。航続が短い。第二艦隊の海域からしか出てこられなかったのも、たぶんそれ。それと、機関は精霊銀の塊です。一発でも機関室に入れば……」


「入れりゃあ、沈むか」


「沈むか、燃えます。触媒ごと」


 なるほどな、とブラムは唸った。恐ろしい船にも、帳簿はある。帳簿があるなら、いつか読める。読めれば——狩れる。


 沈黙が、艫楼に落ちた。


 精霊術を禁忌と呼び、精霊の民を焼いてきた帝国が、その禁忌を、誰よりも先に船に積んで走らせている——その皮肉を嗤う余裕は、その場の誰にもなかった。


「……嬢ちゃん。街に戻ったら、何が要る」


「人と、金と、精霊銀と——時間。時間が一番足りません」


「なら急ぎ働きだ」


 ブラムは、南——白壁の街の方角へ、顎をしゃくった。


「時間てのはな、金と違って、貸してくれる相手がおらん。自分で作るしかねえ。……若旦那と旦那に、全部話せ。図面の埃を、今夜のうちに払え」


   ◇


 北へ帰る《オリオン》の艦上では、収容された千百の点呼が、夜まで続いていた。


 その列の端から、十六の候補生が進み出て、油布の包みを差し出した。北へ逃げる夜、漂流物の中から旗艦の浮標を拾い上げた艦があったのだという。宛名は、潮に滲んで、E・L・M提督、とだけ読めた。


 ラ=マリニエールは、艦橋の灯りの下で中身を検め——最後の頁で、手を止めた。


 (——本職ノ敗因ハ、沈黙セシコトナリ。貴官ハ正シカッタ)


 ……メルヴィル殿。正しさの答礼は、どこへ送ればよいのですかな。


 答礼のしようのない手紙というものを、提督は生まれて初めて持たされた。だから、油布ごと胸の内側に仕舞った。答礼は言葉ではなく、仕事でするしかない種類のものだったからである。


 数日のうちに、大陸中の新聞が、二つの海戦の名を覚えることになる。


 一つは、アードラス湾——罠と青い火が艦隊を呑んだ、都市の大勝利。


 もう一つは、マレ・グラヴィス湾——勝者の側が、勝ったはずの海で、帆のない船に翻弄された戦い。そして、その船を駆っていたという、一度は免職された提督の名である。

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