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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第二章「第二次アードラズベルク攻防戦」

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第31話「青い火」

 先頭艦《テメレール》が持ち上がり、落ち、折れた。


 水柱が檣より高く立ち、遅れて、腹の底を殴る轟音が艦隊を舐めていった。《アルシオーヌ》の艦尾楼で、メルヴィルは遠眼鏡を上げる間もなく、すべてを理解した。


 機雷。西の水道。一番深くて、一番素直な水道。


「……後続へ、停止信号」


 言いながら、その命令の無意味さも分かっていた。単縦陣の五十余隻である。先頭は沈みかけ、二番艦は舵を切り、三番艦は二番艦を避け、四番艦以降はまだ何が起きたかも知らずに、順風と入りの潮に乗って、次々と水道へ入ってくる。艦隊とは長い生き物だ。頭が死んだことを、尻尾が知るまでに、四半刻かかる。


 その四半刻の間に、二隻が触れた。


 回頭——と、どの艦長も考えた。考えて、海を見て、絶望した。水道の幅は、戦列艦が回頭するにはあまりに狭く、後続はあまりに詰まっていた。ならば来た道を後進で戻るか。だが。


「元帥……潮が」


 サン=ヴァランが、青い顔で海面を指した。


 湾の色が、変わっていた。沖から入る青が、内から押し出す碧に。潮替わりである。入るときに背を押してくれたあの素直な流れが、いまは出口に向かって、逆らう水の壁になっていた。帆は——帆は、役に立たない。風が、死んでいる。


 前は機雷。後ろは逆潮。左右は浅瀬。頭上は凪。


「……袋だ」


 と、メルヴィルは言った。声は、自分でも驚くほど静かだった。六十日、薄々分かっていたことに、ようやく正式な名前が付いただけだからかもしれない。


「これは会戦ではない。刈り入れだ。我々は、半年かけて、刈られるために此処まで歩かされた」


   ◇


 岬の陰から、《ゼーアドラー》は帆を開いた。


 武装商船三十一隻と戦列艦九隻が、抜き足で湾口の外側へ回り込み、横一列——袋の口を縛る、蓋の陣形を組む。ブラムは艫楼から、湾内で身をよじる長い生き物を見た。


「憐れむなよ、貴様ら」


 と、提督は自分の船に言った。


「憐れむのは、引き上げてやってからでいい。いまはまだ、あれは二十九の壁だ。手負いの壁が一番厚い。——始めるぞ」


 最初に口を開いたのは、船ではなかった。


 南の稜堡である。壁の上の観客たちのすぐ横で、布を被っていた二つの長い影が布を跳ね上げ、大学校と工房が半年炊き続けた術式が、初めて実戦の雷を吐いた。融合砲——精霊銀の触媒が青白く輝き、常識より一回り遠くへ、一回り速く、砲弾が届く。


 着弾は、湾口で回頭をもがいていた戦列艦の艦尾を、正確に砕いた。


 壁の上の何千人は、悲鳴とも歓声ともつかない声を上げた。自分たちの座っている「観客席」が、海戦に石を投げたのである。


「……こりゃあいい」と、ブラムは唸った。「宴に花火たあ言ったが、本物の花火が来やがった」


 そして、潮が満ちるように、次の献立が出た。


 火船である。


 十二杯の古い樽船が、錨地の奥から、曳き船に引かれて出てきた。帆は張らない。張る風がない。かわりに——潮が、押した。マレーヌの帳面の通り、潮替わりの流れは内から外へ、袋の口から袋の底へ向かって、まっすぐに走る道になっていた。曳き手が縄を放し、火を移し、小舟で離脱する。あとは、湾そのものが火を運んだ。


 青い火だった。


 松脂と精霊銀の澱で炊いた油は、水の上に広がってなお燃え、波を被ってなお燃えた。十二の青い火が、音もなく、詰まり合う艦隊へ流れ着き、触れ、移り、走った。乾き切った索具に。継ぎだらけの帆に。九十日分の垢の染みた木肌に。


 飢えた艦隊は、よく燃えた。


   ◇


 ヴィクトール・ラルディエンは、快速艇《カモメ》の舳先で、燃える壁を見ていた。


 (——破口だ)


 壁の上で覚えた目が、海の上で同じものを見つけた。炎と煙で艦隊の列が裂け、裂け目の向こうで、まだ火の回っていない数隻が、隊列を捨てて浅瀬の際へ逃れようとしている。組織が崩れ、艦が一隻ずつの生き物に戻る瞬間。乱戦——接舷と斬り込みの、百の小競り合いの時間。


「六杯、続け! 火のない奴から食う!」


 快速六杯が、煙の裂け目へ滑り込んだ。膾切りの刃は、その日、日暮れまでに徴用商船五隻を降伏させ、戦列艦一隻の舵を鎖で絡げ、一度も止まらなかった。


   ◇


 《アルシオーヌ》の火は、後部甲板から始まった。


 消火の指揮を執っていた副長が破片に倒れ、ポンプの水は火勢に足りず、青い火は水を掛けられて嗤うだけだった。メルヴィルは艦尾楼に立ち、燃えていく自分の艦隊を、目を逸らさずに見ていた。


 勝敗は、もう帳簿の話ではない。あとに残っている仕事は、一つだけだった。


「信号士官。全艦へ、最後の信号を揚げる」


 ——戦闘止メ。各艦、人命ヲ最優先トセヨ。生キテ帰レ。


 降伏の信号旗が、旗艦の檣頭で開いた。燃える艦から、次々と白い布が上がっていく。それを確認して、メルヴィルは、退艦を促す副官に首を振った。


「艦長は艦と沈む。海軍総司令官は、海軍と沈む。……古い決まりだ。古い男には、似合いだろう」


「では、自分も残ります」


 サン=ヴァランだった。煤で汚れた顔の中で、目だけが妙に落ち着いていた。


「貴官は退艦しろ。財閥の御曹司が死ぬと、帳簿が五年荒れる」


「樽なら、数え終えました」


 と、御曹司は言った。


「六十日かけて、やっと自分の艦隊の樽を数えられるようになったんです。数え終えた男が帳簿だけ抱えて逃げたら——それこそ、一生笑われる」


 メルヴィルは、それ以上言わなかった。言うかわりに、艦尾楼の手すりに航海日誌を置き、最後の頁に、短く書いた。


 ——本職ノ敗因ハ機雷ニ非ズ、潮ニ非ズ。半年前、絨毯ノ部屋ニテ沈黙セシコトナリ。  ——E・L・M提督ヘ。貴官ハ正シカッタ。帝国ニ残サレタ最良ノ錨ハ貴官ナリ。


 日誌を油布で巻き、樽の欠片に括り、海へ投げた。書かれたものは、残る。あの街の連中の言い草を、最後に一度だけ、借りることにしたのである。


 沈む間際、老元帥はふと、水先案内人の白い歯を思い出して、少しだけ笑った。


 (取り返しがいのある湾、か。……なるほどな。取り返された)


 《アルシオーヌ》は、夕刻前、湾の一番深いところへ、旗を揚げたまま沈んだ。


   ◇


 壁の上に、歓声はなかった。


 湾は一面、煙と、青い火の残りと、漂う木材と、それに縋る人間で覆われていた。半年前まで麦を運んでいた海が、である。壁の上の何千人は、勝った、ということは分かっていた。分かっていて、誰も、声の出し方を思い出せなかった。沈んでいく船というものを、燃えながら海に飛び込む人間というものを、初めて見た者が大半だったのである。


 その静けさの中で、最初の声が上がった。


 歌だった。


 老婆が一人、狭間の脇で、精霊の弔い歌を歌い出したのだ。灰から芽吹けと祈る、あの若木の歌である。二人目が続き、十人が続き、やがて西城壁の端から端までが、低い、深い、一つの歌になった。敵のための歌かと問われれば、老婆はきっと、死んだ者に敵も味方もあるものかね、と答えたろう。火の宗派が焼いたものを、精霊の歌が弔う——湾を渡っていくその声を、救助の小舟の上で、帝国の水兵たちは呆然と聞いた。


 小舟は、都市から出たものだった。漁師の舟、荷役の艀、救護院の印を掲げた渡し船。彼らは半日、敵だった者を海から引き上げ続けた。引き上げられた者は、桟橋で番号と名前を帳面に記され、毛布と、湯と、あの歌を与えられた。


 テオドールは壁の上で、その全部を見ていた。


 帳簿の借方に死者を書き続けてきた手が、今日は、貸方に何かを書ける気がした。それが何と呼ぶべきものなのか、まだ分からなかったけれど。


   ◇


 夜、《ゼーアドラー》の甲板で、点呼が行われた。


 全船の被害報告が艫楼に集まる。沈没、なし。大破、なし。中破二、火傷と骨折が十七。そして——


「総員点呼、終わり」と、水夫長が報告した。「……欠け、なし。全員おります、提督」


 報告は、もう一つあった。ヴィクトールからである。夕刻の煙と混乱に紛れて、湾口の外へ抜けた帆が、五つか六つ——追跡は日没で断念した、と。


「……逃した魚か」


 ブラムは、北の暗い水平線を見た。深追いはしない。だが、放ってもおけない。逃げた魚は、どこかの網走りに集まって、傷を舐める。それが海の決まりだからだ。


「明朝、追跡隊を出す。……ただし、うちの若いのは休ませる。今日働いた者を、明日も走らせる法はない」


 ブラムは、しばらく黙っていた。それから、帽子を取って、桟敷になったままの西城壁——灯りの点る市街の方角へ、深々と下げた。


 (旦那。約束は、守ったぜ)


 兵の帰ってくる勝ち方。四十隻の船乗りは、一人も欠けずに、明日の朝飯を食う。三十年の海の男の、生涯で一番高い届け物が、無事に着いたのである。


 ——同じ夜。


 早馬と腕木通信を乗り継いで、最初の凶報が帝都の宰相府に着いた。文面は、事務的に、短かった。


 南方派遣艦隊、消滅ス。


 勅命の前提は、海の底に沈んだ。

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