第30話「艦隊見ゆ」
その報せは、夜明け前の鐘とともに来た。
——南南西ノ沖、帆多数。艦隊見ユ。
沖の漁船に扮した見張り船からの精霊電文が市庁舎に届き、市庁舎の鐘が三度鳴り、鐘の意味を知らされていた市民たちは、寝間着のまま窓を開けた。半年、待つとも知らずに待っていた朝が、来たのである。
救護院では、鐘の三度目が鳴り終わる前に、マルタが寝台の配置替えを始めていた。海戦の怪我は、壁の怪我と種類が違う。火傷と、溺れと、木の破片。真水の桶を増やし、油布を裂き、火傷の膏を竈の近くへ移す。その指示の列の中に、アルモナがいた。袖をまくり、髪を布で包み、平らな声で数を数えながら。ミラの居ない救護院の朝を、二人はもう、何十回も回してきたのである。
夜が明けきる頃には、西城壁の上は、人で埋まっていた。
守備兵が制止を試み、じきに諦めた。子供を肩車した父親、数珠を握った老婆、学籍章を付けたままの大学校の学生たち。パンと干し無花果を売り歩く菓子屋の親父まで現れるに至って、クルーガー連隊長は「押すな、狭間に落ちるな、伏せろと言ったら伏せろ」の三箇条だけを布告し、あとは黙認した。
「……壁が、桟敷になってやがる」
テオドールの隣で、ライネルが呆れ半分に言った。ファルケンハイン支隊は万一の上陸に備えて港湾地区の予備に回されており、支隊長は壁の上の観測点にいた。眼下の内湾には、味方の姿はもう、ほとんどない。武装商船の主隊は岬の陰に、ヴィクトールの快速六杯は錨地の奥に、それぞれ息を殺している。湾は、がらんどうだった。
がらんどうの湾ほど、雄弁なものはない。
人垣の中に、ヨルク翁の姿もあった。杖をつき、日除けの布を孫に持たせて、狭間の脇に床几を据えさせている。通りかかったクルーガー連隊長が足を止め、二十年ぶりですな、と言った。老議員は、ふん、と鼻を鳴らした。
「二十年前は、わしもまだ壁の上で働く側じゃった。今日は座って見物する側よ。……座って見られるようにしてくれたのは、お前さんら軍人と、あの若いのどもだ。せいぜい良い席で、見届けさせてもらう」
「怖くないのかな、みんな」と、テオドールは市民たちを見て言った。
「怖いさ」と、ライネルが答えた。「怖いから、来るんだ。家の中で一人で怖がるより、壁の上でみんなで怖がる方が、ましだからな。……それに」
副長は、南の水平線を目で示した。
「今日は、隠れてても逃げても、結果は同じ日だ。なら、見届ける方を選ぶ連中が、この街には多いってことだろ」
◇
岬の陰、旗艦。
「見えたぞう」
檣頭の見張りが、間延びした声で報告した。ブラムは艫楼で干し無花果を齧りながら、南の水平線に立ち並び始めた帆の列を、遠眼鏡で舐めるように見ていった。
一本、二本、三本——数えるほどに、口の中の無花果の味が薄くなった。
帆が、汚い。
継ぎの当たった主帆。半分だけ新しい斜檣帆。塩を吹いて灰色になった横帆。船脚は揃わず、列は蛇行し、後続の徴用商船に至っては、隊列というより「同じ方向に流されている木片の群れ」に近い。三十年海の上で生きてきた男の目に、その艦隊がどれほどの航海をしてきたかは、帆布一枚一枚が泣き言のように語っていた。
「……よう来たな、ここまで」
ブラムは、思わず、敵に言った。
水夫長が隣で、遠眼鏡を下ろして、妙な顔をしていた。
「提督。ありゃあ……戦えるんですかい、そもそも」
「戦えるさ」
ブラムは、無花果の種を海へ吹いた。
「あれでもまだ、戦列艦が二十いくつだ。壁は、痩せても壁よ。砲門の数は飢えん。……それにな、水夫長。ああいう艦隊が、一番おっかねえんだ。帰り道のない軍隊ってのはな、前にしか沈めねえのよ」
艫楼の下から、マレーヌが上がってきた。手には潮見の帳面。
「提督。潮替わりは午の少し前。西の水道の流れは、それまで入りです。それを過ぎると——」
「出しに変わる。分かっとる」
ブラムは頷き、湾口の方角を見た。ここからは見えない海面の下に、七十の機雷が、三日前から静かに浮かんでいる。東の浅瀬に。真ん中の水道に。そして西の水道にだけは——一つもない。
羊の門は、開いている。
「全船に信号。触れるな、動くな、祈るな。……祈りは向こうさんの分まで、婆さんたちが壁の上でやってくれとる。俺たちは仕事だけでいい」
錨地の奥から、短い信号が返ってきた。快速六杯、いつでも。——ヴィクトールである。返信は簡潔で、余計な文字が一つもなかった。壁の上で人の死に方を覚えてきた男は、信号の打ち方まで変わって帰ってきた。
その後方には、火船が十二杯、身を寄せ合って舫われている。古い樽船に古い帆。だが積み荷だけは新しい。工房が三月かけて炊いた青い火の油——風のない日でも、水の上でも、消えない火である。風下に立つと、松脂と、何か甘いような、嗅いだ者が一生忘れない匂いがした。
◇
旗艦の艦尾楼から、メルヴィルは湾口を見ていた。
アードラス湾。三十年ぶりである。若い頃、観艦式の随伴で一度だけ入った。白壁が朝日を弾いて、水夫たちが眩しがったのを覚えている。あの頃、この湾は帝国の湾で、あの壁は帝国の誇りだった。誇りに大砲を向ける日が来るとは、あの朝の若い士官は、考えもしなかった。
「元帥。水先の者が、お別れのご挨拶を」
ジョスは、艦尾楼に上がってくると、帽子を取った。契約は湾口の外まで。水先案内人は戦闘海面には入らない。それが慣行であり、契約書の文言だった。
「世話になった」と、メルヴィルは言った。本心だった。この男の腕がなければ、艦隊は最後の水道で二隻は擦っていた。
「なに、仕事ですんで」
ジョスは、湾口の方を見た。
「……最後に、商売抜きで一つだけ。西の水道をお使いなせえ。東と真ん中は浅瀬の根が育っとります。西が一番深くて、一番素直だ。潮が入りのうちに、一息に抜けなせえ」
「ああ。そう聞いている」
メルヴィルは、ふと、訊いた。訊くつもりのなかったことだった。
「ジョス。……貴様の湾は、いい湾か」
案内人は、一瞬だけ黙った。それから、白い歯を見せた。
「へい。取り返しがいのある湾で」
男は縄梯子を降り、迎えの小舟に乗り移り、振り返らずに漕ぎ去った。メルヴィルはその背中を見送りながら、胸の底で、何かが小さく軋むのを聞いた。六十年、海の上で人を見てきた男の勘が、何事かを言いかけている。だが、それが言葉になる前に、副官が戦闘配置の伺いを立て、信号士官が旗を確認し、艦隊は——止まれない生き物は、前へ進み始めた。
(……どのみち、だ)
と、メルヴィルは思った。
(帰りの糧食は、ない。前に沈むか、後ろで飢えるか。ならば海軍は、前で沈む方を選ぶと決まっている。決まっているから、軍なのだ)
水道進入の隊形について、具申したのはサン=ヴァランだった。単縦陣、艦間二鏈、水道の通過に要する時間は先頭から殿まで約一刻半——数字は自分で計算したものだという。六十日前なら鼻で笑って人任せにした男が、いまは自分の指を折って艦隊を数えている。メルヴィルは具申を容れ、内心で、遅すぎた成長というものの値段を思った。この海で払うことになる値段を。
「戦闘旗、揚げ」
命令は静かに下り、五十四隻の檣頭に、帝国の軍艦旗が咲いた。飢えて、軋んで、それでも旗だけは真新しい艦隊が、西の水道へ、単縦の列を作り始めた。
◇
壁の上から、それは見えた。
艦隊が、動いた。横に広がっていた帆の群れが、糸で引かれるようにほどけて、一本の長い列になっていく。列の先頭が、ゆっくりと、西の水道へ吸い込まれていく。
壁の上の何千人が、一斉に息を呑んだ。菓子売りの声が、消えた。
「入る」「入るぞ」「西だ、西の水道だ」
テオドールは、手すりを握った。海のことは分からない。だが、あの西の水道が「開けてある」ことだけは、知っている。開けた男の顔も、開けさせた兄の帳簿も、知っている。いま、あの継ぎ接ぎの帆の列は、この街の半年分の仕込みの上を、まっすぐに進んでいるのだ。
風が、死んでいた。
あの朝と同じだ、と、テオドールは思った。フリッツの朝と同じ、硝子のような凪。壁の上の千の祈りと、湾の底の七十の沈黙と、岬の陰の四十の船と——すべてが、同じ静けさの中で、潮の替わるのを待っていた。
列の先頭が水道の半ばまで進み、続く艦が次々に、二つの岬の間へ吸い込まれていく。単縦の列は長く、長く、まだ半分も入り切らない。壁の上の何千人は、もう誰も喋らなかった。喋る者がいたら、隣の千人に睨まれたろう。遠く、艦隊のどこかから、風のない大気を渡って、軍楽の切れ端がかすかに聞こえた。士気を保つための、痩せた喇叭の音だった。それすら、この静けさの中では、弔いの音に聞こえた。
正午前。
マレーヌの帳面の通りに、湾の色が、変わり始めた。沖から来る青が、内から押し返す碧に切り替わる、その境目の色。潮替わりである。
そして——先頭の戦列艦が、西の水道の中程で、音もなく、持ち上がった。




