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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第二章「第二次アードラズベルク攻防戦」

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第29話「飢えた艦隊」

 最初の寄港地で、食糧が買えなかった。


「先週、大口の買い付けがございまして。麦も、干し肉も、蔵ごと」


 港の商人は、揉み手をしながら、心底すまなそうに言った。買い付けた者の名を訊くと、聞いたことのない穀物商の名が返ってきた。金払いのよい、礼儀正しい客だったという。


 二番目の寄港地では、索具と帆布が買えなかった。三番目の寄港地では、樽が買えなかった。樽がなければ、水が積めない。四番目の寄港地では、その水すら買えなかった——港の井戸の汲み上げ権が、三月前に、まとめて買われていた。


 四番目の港の代官は、申し訳のしるしに、権利の証文の写しまで見せてくれた。日付、金額、公証人の印。何もかも合法で、何もかも三月前だった。上陸した水兵たちは、目の前に井戸があり、井戸には水があるのに、汲めば盗みになる、という理屈の前に立ち尽くした。


「……井戸が、紙に負けとる」


 と、老水兵が呟いた。帝国の水兵が大陸で初めて口にした、この戦争の最も正確な戦況報告である。


「誰かが、我々の前を歩いている」


 旗艦《アルシオーヌ》の艦尾楼で、アントワーヌ・ド・メルヴィルは、ぽつりと言った。六十に手の届く、白髪の海軍総司令官である。三十年前なら、この航路のどの港でも、帝国の軍艦旗を見れば売り物が倍に増えたものだった。いまは旗を見ると、店が閉まる。


「調べさせますか」と、副官が言った。


「調べてどうする。買い戻すのか。金はあっても、物がないのだぞ」


 物がない、という状態を、メルヴィルの隣で誰よりも理解できずにいるのは、副司令のクレマン・サン=ヴァランだった。サン=ヴァラン財閥の御曹司は、四番目の港で、金貨の詰まった革袋を卓に積み上げ、相場の三倍の値を提示し、それでも水が買えないという体験を、生まれて初めてした。


「意味が分からん」と、御曹司は本気で憤慨した。「金があるのに、なぜ買えん」


「簡単なことです、副司令」


 メルヴィルは、教えてやった。齢下の、家柄だけの副司令に、皮肉ではなく、本当にただ教えるつもりで。


「我々より高く、我々より先に、買った者がいる。それだけのことです。商いの戦場では、我々は敵の背中すら見えていない」


 サン=ヴァランは、その夜から変わった。少なくとも、少し変わった。翌朝、御曹司は生まれて初めて、自分の足で船倉に降り、自分の目で樽の数を数えたのである。数え終えて上がってきた顔は青かったが、その青さは、これまでの憤慨よりいくらか上等な色をしていた。財閥の帳簿は他人が数えるものだが、艦の樽は自分で数えるものだ——それを六十日かけて学ぶ男もいる。学ばずに終わる男よりは、ましである。


   ◇


 回航は、九十日の予定だった。


 六十日目の朝、軍医長が旗艦の艦尾楼に上がってきて、報告した。壊血の兆候、全艦隊で推計六百。歯茎から血を流す者、古傷の開く者。新鮮な食糧が、二十日、絶えているのである。


 七十日目には、夜のうちに、徴用商船が一隻消えた。脱走である。積み荷ごと、乗員ごと、闇に紛れて針路を変えたのだ。追う快速艦を、メルヴィルは出さなかった。追いつける艦がなかったからではない。追いついた後に、撃つ以外の選択肢がないからだった。


 旧式戦列艦《グロワール》は、浸水が止まらず、ポンプを一日六交代で回し続けている。乗員はポンプで消耗し、消耗した身体を壊血が食う。


 旗艦の士官候補生に、十六の少年がいる。名門の三男坊で、初陣の誇りに頬を光らせて乗ってきた子だ。その子が朝の伝令に来たとき、敬礼の口元から、血が一筋垂れた。歯茎である。少年は慌てて拭い、何事もない顔で報告を続けた。メルヴィルは何も言わず、その夜から、元帥の食卓に出る数少ない柑橘を、候補生室へ回すよう厨房に命じた。老いた身体は、壊血の進みが遅い。それだけの理屈である、と副官には説明した。


 それでも、帳簿の上では、艦隊は健在だった。


 戦列艦二十九。徴用商船を含め、総数五十七——いや、五十六。数字は、ほとんど減っていない。だが、と、メルヴィルは夜ごとに思う。数字は減っていないのに、艦隊はもう、欠けている。艦隊というものは船の数ではない。水と、樽と、歯茎と、眠りと、あと何日で家に帰れるかという勘定でできている。その全部が、底をついてきている。


 (——航路、補給、艤装。三つの点から、本計画はそもそも成立しておりません)


 思い出すのは、いつも同じ声だった。宰相府の、あの絨毯の部屋。海図の皺を手で伸ばしながら、数字を積み上げていった、あの男の声。


 メルヴィルは、あの席で、一言も発しなかった。


 発しなかった、ということを、この六十日、毎晩思い出している。海軍総司令官である。あの場で提督の隣に立ち、同じ数字を言う資格と義務を、大陸の誰よりも持っていた男である。だが、言わなかった。ラ=マリニエールが処断されかけるのを見て、老元帥の介入で救われるのを見て、そして——自分が指名されるのを、黙って受けた。


 (貴官は、正しかったよ)


 と、メルヴィルは、夜の海に向かって思う。


 (貴官は正しく、私は臆病だった。だからいま、正しい男は東方で釣りをしていて、臆病な男が、飢えた艦隊を率いて南へ行く。……帝国というのは、つくづく、配役を間違える国だ)


 だが引き返す、という選択肢は、ない。


 出港の日、宰相は港まで見送りに来た。異例のことである。桟橋で、オーギュスト・ド・レオニエは、こう言ったのだ。「貴官の帆に、帝国の名誉が張ってある」。あれは餞別ではない。艦隊ごと名誉を人質に取る、という宣言である。手ぶらで帰れば、待っているのは軍法会議か、良くて「健康上の都合」だ。


 メルヴィルは、六十年生きて、いまさら健康になる気はなかった。


   ◇


 八十二日目、最後の寄港地に入った。


 ここでも、売り物は驚くほど少なかった。だが、ゼロではなかった。麦が少し、塩漬けが少し、水が半分。まるで、飢え死にはさせないが、太らせもしない、と誰かが配分したかのような品揃えだった。メルヴィルは、その気味の悪さに気づいたが、気づいたところで、買う以外の選択肢はなかった。


 その港の酒場で、士官たちが、一人の男の噂を拾ってきた。


 アードラス湾の生まれで、水先案内を生業にしてきた男が、いま、この港で燻っている——という噂である。都市が戦場になって、堅気の水先案内の仕事が消えた。北へ逃れてきたが、路銀も尽きかけている。腕は本物で、先月も座礁しかけた穀物船を水道から引き出してみせた。名を、ジョスという。


「連れて参りました」


 艦尾楼に上がってきたのは、潮灼けした、猫背の中年男だった。継ぎの当たった上着。使い込まれた測鉛線を、腰に巻いている。男は帝国の元帥を前にしても、卑屈にも不遜にもならず、ただ商売の顔をしていた。


「ジョスと申しやす。……湾の水先、との仰せで」


「アードラス湾に、詳しいか」


「詳しいかと訊かれりゃあ、詳しいと答えるのが商売ですがね」


 男は、雇い主を品定めするように、艦を見回した。


「正直に申しやしょう。あの湾は、癖が悪い。浅瀬が三つ、潮が二度替わり、東の岬で風が化けます。海図にゃあ載ってねえ。……あっしは、その載ってねえところで三十年、飯を食ってきた男でさあ。お代は張りますぜ。何せこの戦で、あっしの湾は商売あがったりだ。取り返させてもらわねえと」


 参謀の一人が、メルヴィルに耳打ちした。出所の知れない案内人です。罠ということも。


 メルヴィルは、しばらく男を見ていた。


 疑う材料なら、いくらでもある。だが同時に、こうも思うのだ。この回航で、艦隊は水先案内を雇う機会そのものを、六つの港で失い続けてきた。どの港にも、人がいなかった。物がなかった。ここに来て初めて、買えるものが、目の前にいる。


「……疑う余裕は、樽の数と同じでな」


 と、元帥は言った。


「もう、積んでいない。——雇う。前金の半分は麦で払う。それでよいか」


「麦たあ、豪気なこって」


 ジョスと名乗る男は、白い歯を見せた。


   ◇


 艦隊は、最後の港を出た。


 総数五十六——否、五十四。夜の間に、また商船が二隻、消えていた。壊血の推計は八百を超え、《グロワール》のポンプは七交代になった。それでも帆は南を向き、帳簿の上では、艦隊はまだ艦隊だった。


 新しく乗り込んだ水先案内人は、よく働いた。誰よりも早く起き、誰よりも長く海図を見た。


 三日目の夜、その腕前が証明された。先導の《グロワール》が、暗い岬の水道で潮に横を取られ、浅瀬へ流され始めたのである。ジョスは測鉛線を手に艦首へ走り、鉛を二度打ち込み、叫んだ。面舵二点、帆を三割落とせ、数えて二十で戻せ——指示は的確で、無駄がなく、そして間に合った。老朽艦の竜骨は、砂の背を撫でただけで、水道を抜けた。


 その夜から、艦長たちは男を信用した。飢えた男たちは、目の前の飯の出所を訊かない。まして、その飯が美味いときは。


 (沈むなら、ここではない)


 と、案内人が鉛を打ちながら考えていたことは、誰も知らない。


 夜、ジョスは艦首に一人で立ち、南の水平線を見ていた。


 その熱心さを、当直士官は職業柄のものだと思った。思って、それ以上は考えなかった。考えるには、彼も疲れすぎていた。


 夜の海に、五十四の舷灯が、長い長い列を作っていた。


 遠目には、それは美しかった。海の上にもう一つ、灯りの街ができたようで——ただしこちらは、帰る家のない方の街である。灯りの列は、痩せて、軋んで、それでも南へ進んだ。進む以外の航路が、帳簿のどこにも書かれていないからだった。


 順風だった。


 アードラス湾まで——西の水道まで、あと十二日である。

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