第28話「宴の献立」
扉を開けると、総司令官は窓を背に立っていた。
軍服だった。あの、道場着と商人の上着しか着なかった男が、である。ブラムは敬礼すべきかどうか、生まれて初めて敬礼というものについて真剣に考え——やめた。かわりに、帽子を胸に当てて、三十年やってきた通りの挨拶をした。
「旦那。ただいま戻りました」
「ブラム」
ヴィルヘルム・フォン・ファルケンハインは、窓の前から歩いてきて、両手でブラムの右手を包んだ。剣聖の手は、昔と同じで、乾いて、静かで、岩のようだった。
「七百人、一人も欠けなかったそうだな」
「海が良うございました」
「海が良くても欠けるときは欠ける。……よく連れて行った。よく帰った」
「旦那こそ」と、ブラムは相手の襟元を顎で示した。「軍服、似合いませんな」
「知っている」
ヴィルヘルムは、真顔で言った。
「だからこれは、一日でも早くこれを脱ぐ算段の会議だ。座れ」
部屋の隅の卓に、もう一人、先客が座っていた。胡麻塩頭の老人が、湯気の立つ茶を三つ、静かに並べている。
「マルクの爺さん」
「お帰りなさい、提督。……ときに提督、寄港地の払いの控えは。船倉の受領書は。水夫の給金の仮払簿は」
「船に置いてきた」
「後で取りに行かせます。人間は帰った途端に紙を失くすので」
三十年変わらないやりとりである。ブラムは笑って椅子に掛けた。軍服の総司令官と、海賊面の提督と、帳面の老人。この部屋の三人を足すと百五十を超えるが、都市の海と陸と金は、だいたいこの百五十歳の中に納まっているのだった。
◇
卓の上に、ブラムの海図が広げられた。
ブラムは献立を、順に説明した。外洋では戦わない理由。湾という罠。一品目の機雷とマレーヌの潮読み。二品目の火船、十二杯。三品目、ヴィクトールの快速六杯——膾切りの遊撃。
ヴィルヘルムは、腕を組んで聞いていた。聞き終えて、最初に言ったのは、こうだった。
「足りないものを言え」
「時間と、火薬で」
ブラムは、指を二本立てた。
「時間は、まあ、間に合わせまさあ。だが火薬だ。機雷を百、火船を十二杯、それに艦の弾薬。工房の在庫を検めましたがね、旦那——足りません。三割がとこ」
ヴィルヘルムは、マルクを見た。マルクは、持参した帳面を開いた。開いたが、すぐには読み上げなかった。この老人が数字を前に一呼吸置くのは、数字が悪いときである。
「……火薬の帳簿は、いま三つの財布に分かれています。壁の備え。海の備え。それと——もう一つの備え」
「もう一つ?」
ブラムが訊き返すと、部屋が、わずかに静かになった。ヴィルヘルムとマルクの間で、目だけの短い相談があった。それから総司令官は、卓の上の海図の、陸の側——湾を離れた内陸の一点を、指の背でこつりと叩いた。モルゲンロート要塞である。
「これは、まだ紙にもしていない備えだ。海の宴が終わった後の話でもある。……だが火薬の帳簿の上では、もう始まっている。三割を欠いているのではない。三割を、別の皿に取り分けてある」
「────」
ブラムは、海図の一点と、総司令官の顔を、順に見た。それから、それ以上訊かなかった。船乗りは積み荷の中身を訊かない。荷主が信用できるなら、訊く必要がないからだ。
「なら、海は残りでやりくりしまさあ。機雷を七十に減らして、置き場所で稼ぐ」
ブラムは海図の湾口に、指で三つ、印を切った。
「浅瀬が三つ。東と真ん中は塞ぐ。だが西の水道だけは——わざと空けておく。安全な道を一本だけ残しておいてやると、追い詰められた羊は、みんなそこへ並んで通るんでさあ。羊の門ってやつで。門の先に何が待っとるかは、まあ、宴の当日のお楽しみだ。……そのかわり旦那、潮と場所の指図は一切なしですぜ」
「元よりだ。海はすべて貴公に預ける」
ヴィルヘルムは、頷いた。それから、付け加えるものが二つある、と言った。
「一つ。壁の新しい砲——工房と大学校の、あの融合砲だ。試作が四門、西と南の稜堡に載っている。射程は、従来の倍近い。南の二門からは、湾口の内側三分の一に、砲弾が届く」
ブラムは、目を剥いた。
「壁の砲が、海戦に口を出せると?」
「敵が湾口を割って入れば、な。……観客席から、時々石が飛ぶと思ってくれ」
「そりゃあいい。宴に花火だ」
「二つ目。レオンハルトからだ」
ヴィルヘルムは、マルクに目配せした。老人が、帳面の間から一枚の紙を出す。中立寄港地の名と、人の名がいくつか並んだ、素っ気ない控えである。
「若旦那は半年前から、艦隊の通り道の寄港地に、飯と水を売らない仕込みをしてきました。それに加えて——最後の寄港地に、水先案内人を置いてあります。腕のいい、口の達者な、アードラス湾に詳しい案内人を」
「……ほう」
「帝国艦隊は、湾の海図に飢えています。半年海の上で、寄る港ごとに何もかも品切れで、案内人など雇えるはずもなかった。そこへ最後の港で、雇える案内人がたまたまいる。飢えた男は、目の前の飯の出所を訊かないものです」
ブラムは、しばらく黙った。黙って、それから、腹の底から笑った。
「通らせたい場所へ、通らせて、殴る——俺の流儀を、若旦那は陸で先回りしとったか。恐ろしい一家だよ、まったく」
「その案内人が艦隊を導く水路と、貴公の機雷の置き場所を、今夜のうちに突き合わせたい」
「望むところで」
海図の上に、三つの頭が集まった。窓の外で日が傾き、茶が三度換わり、蝋燭が二度短くなった。宴の献立は、夜半前に、成った。
辞去の間際、ヴィルヘルムは窓の外の暗い海を、しばらく見ていた。
「……わしは昔から、剣の届く距離しか守れん男だった。それが今は、剣のまるで届かん海だの、帳簿だの、議会だのを預かって、届かんものの数だけ夜が長い。歳は、取るものだな、ブラム」
「なに、旦那の剣は届いてまさあ」
ブラムは、こともなげに言った。
「テオ坊の型は、旦那の型の子でしょうが。あれが壁の上で振られるたんびに、旦那の剣は届いとる。……剣ってのは、そういうふうに届かせるもんだ」
剣聖は、一度だけ目を細めた。それから、言った。
「ブラム。指図はしないと言った。だから、これは指図ではなく——古い友人としての、頼みだ」
「何なりと」
「勝ち方を選べる局面が来たら、兵の帰ってくる勝ち方を選んでくれ。派手な勝ちでなくていい。海の男たちを、湾の底ではなく、桟橋に帰す勝ち方を」
ブラムは、帽子を胸に当てた。
「旦那。俺ぁ三十年、荷物を届ける商売をしてきました。届け物の中で一番高いのが人だってことは、婆さんと鶏で骨身に沁みとります。……宴が終わったら、点呼をお楽しみに」
「よし。……なら、最後にもう一つ。マルク」
老人が、帳面の下から、折り目のない一枚の紙を出した。ヴィルヘルムはそれを受け取り、卓の上の海図の真ん中に、置いた。
辞令だった。
——ブラム・ノードヲ、アードラスヴェーア提督ニ任ズ。海上戦力ノ一切ヲ、其ノ指揮下ニ置ク。
署名、総司令官ヴィルヘルム・フォン・ファルケンハイン。議会の承認印。日付は、今日。
「海はすべて預ける、と言った。言葉だけでは、預けたことにならん。……四十隻の船乗りと、議会と、街の全部に対する、これが裏付けだ」
ブラムは、紙を長いこと見下ろした。三十年、水夫たちが勝手に呼んできた渾名が、紙の上で肩書きになっていた。
「……商会の船頭に、階級たあ。陸は何でも本物にしちまうな」
「渾名を本物にするのが、近ごろのこの街の流儀でな」
ヴィルヘルムは、わずかに笑った。エルンヴァハト、という名前のことを、二人とも思い浮かべていた。
「言っておくが、羊皮紙にはせん。紙だ。——この軍は戦が終われば市に返すものだし、この辞令も、そのとき一緒に返してもらう。期限のある本物、というやつだ。それでよければ、受けてくれ」
ブラムは、紙を取り、四つに畳んで、胸の内側に仕舞った。それから、背筋を伸ばし——生まれて初めて、敬礼をした。
手の向きが、逆だった。
マルクが、湯呑みの陰で笑いを噛み殺した。ヴィルヘルムは笑わず、正しい敬礼を、静かに返した。
「……帰りの船で坊主に検分される前に、練習しとかんとな」
と、新任の提督は言った。
◇
出帆は、その夜のうちだった。仕込みは早いほどいい。潮も、月のない闇も、待ってはくれない。
桟橋に、灯りを持たない見送りが一人、立っていた。
「テオ坊」
ブラムが言うと、支隊長は、少し困ったように笑った。
「その呼び方、部下の前ではやめてくださいよ。……もう船の上まで広まってます。——それと、ご任官おめでとうございます。本物の提督殿」
「言うな。尻がむず痒い」
「広めたのは俺だ。諦めろ」
二人は、舷梯の下で向かい合った。ブラムは、目の前の若者をあらためて眺めた。荷役場で肩車をせがんだ坊主が、いまは剣を提げ、二百四十騎を預かり、壁の英雄と呼ばれている。そして、その目の奥に、勲章と同じ数だけの墓標を並べている。
「……いい顔になったな。悪い意味でもだ」
「分かりますか」
「分かるさ。海で人を減らした年の、俺の顔だ」
テオドールは、少しだけ迷ってから、言った。
「……サーシャ先輩が、近ごろ静かなんです。冗談の数が、減った。工兵班の帳面ばかり見ている」
「静かな工兵、か」
ブラムは、夜の海の方を見た。昼間、総司令官が指の背で叩いた海図の一点を、思い出さないようにしながら。
「テオ坊。静かな工兵ってのはな、でかい仕事の前の職人の顔だ。詮索するな。飯だけ、食わせておけ。……職人が仕事の前に要るのは、問いじゃなくて、飯と、いつも通りの顔だ」
ブラムは、それ以上その話を続けなかった。かわりに、帆柱を親指で示した。
「海の男はな、テオ坊。仲間が死ぬと、帆柱に名前を刻む。墓は海の底で、参りに行けんからだ。名前は帆柱と一緒に風を受けて、船が走るたびに、そいつも走る。……陸には陸の刻み方があるんだろう。なら、それでいい。刻み方さえありゃあ、人は歩ける」
テオドールは、頷いた。それから、訊いた。
「ブラム殿。戦が終わったら、何をしますか」
おかしな質問をする、という顔を、ブラムは一瞬だけした。それから、存外まじめに答えた。
「決まっとる。中立港に婆さんを一人、預けてきた。帰りの船は俺が出すと約束しちまった。……約束しちまったからには、守るしかねえわな」
「——言ってしまったから、守れるようになる」
テオドールが言うと、ブラムは眉を上げた。
「誰の言葉だ、そりゃ」
「義姉の、受け売りです」
「……いい受け売りだ。高く付きそうな受け売りでもある」
ブラムは笑って、舷梯に足を掛けた。それから振り向いて、若者の肩を、錨のような手で一度だけ掴んだ。
「壁は任せた——と言いたいところだがな、テオ坊。おめえはもう、任される側の男だ。だから言うことは一つだけよ。海は、任せろ」
《ゼーアドラー》は、音もなく桟橋を離れた。
◇
テオドールは、灯りの消えた桟橋に、船影が闇へ溶けるまで立っていた。
後甲板に、最後まで大きな影が立っているのが見えた。振り返りもせず、ただ前の海を見据えて仁王立ちする、樽のような背中。
その背中が、闇に呑まれる寸前——テオドールは、ふいに思い出していた。ずっと昔、炎の夜の話の中でしか知らない、市庁舎の階段を降りていったという、祖父の大きな背中のことを。
守る者の背中は、どうしてみんな、少し似ているのだろう。
海の上で、遠い舷灯が一つ、瞬いて消えた。宴まで、あと三十と幾日である。




