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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第二章「第二次アードラズベルク攻防戦」

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第27話「罠の別名」

 アードラズベルクの軍港に《ゼーアドラー》が錨を下ろしたのは、それから六日後の朝である。


 湾に入るとき、乗員は皆、舷側に出て陸を見た。


 海から見る都市は、報せの中の都市より、ずっと落ち着いて見えた。白壁の西の一角に、色の違う継ぎがある——破口の跡だ。石と土嚢の応急の栓が、朝日の中で、傷跡というより勲章のように光っていた。壁の上には歩哨が立ち、港には荷揚げの列が動き、救護院の塔からは、消し忘れではない灯が、まだ一つ点っていた。


「……ちゃんと、立ってやがる」


 水夫長が、鼻声で言った。ブラムは答えなかった。答えるかわりに、帽子を取って、壁に向かって一度だけ下げた。四十隻の船乗りが、それに倣った。海の男の敬礼は、それで全部である。


 防波堤には、人が鈴なりになっていた。


 四十隻の帆が水平線に現れたときから、港の子供が触れ回ったのだという。海が帰ってきたぞ。船団が帰ってきたぞ。桟橋に一番乗りした荷役たちが手を振り、干した魚を掲げる女房どもが手を振り、松葉杖の傷病兵までが埠頭で手を振った。壁が破られてから初めての、明るい報せがこれだった。都市というものは、壁と海の二枚貝である。片方の殻が試された後で、もう片方の殻が無事に帰ってくれば、貝は安心して呼吸をするのだ。


 桟橋に、サーベルを提げた士官が一人、背嚢を担いで立っていた。


 ヴィクトール・ラルディエン。商会海洋部門からファルケンハイン支隊へ「貸し出されて」いた男。潮灼けの顔が、陸の一年で少し引き締まり、目つきが変わっていた。


「戻りましてございます、提督」


「おう」


 ブラムは舷梯を降り、若者の全身を、船を検分する目で上から下まで見た。


「陸で、何を覚えてきた」


「……壁の守り方を」と、ヴィクトールは言った。「それから、人の死に方と、班の継ぎ方を」


 アデル・ヴァイスの名を、二人とも口にしなかった。しなかったが、その名がいま桟橋の上を通り過ぎたことは、二人とも分かっていた。ブラムは一度だけ頷いて、若者の肩に、錨のような手を置いた。


「上等だ。なら次は、攻める側を教えてやる。——来い。海図を見せる」


   ◇


 船長室で、ブラムは海図を広げた。


 湾口、三つの浅瀬、岬の裏の潮の巻き、月のない夜の干満。三十年分の書き込みの上に、真新しい印がいくつか増えている。半分はブラムの手で、もう半分は細い字だった——マレーヌが航海の間、毎日の潮汐と水温を測って打ち込んだ印である。船乗りの骨の知恵の隣に、大学校の娘の数字が並ぶ海図など、大陸のどこの海軍も持っていない。


 ヴィクトールは長いことそれを見下ろし、それから顔を上げた。


「提督。これは……湾で、迎えるのですか。外洋で叩くのではなく」


「外洋はあちらの土俵だ。戦列が組める。あちらの艦長どもは、どれだけ疲れとろうが、戦列を組むことだけは骨でできる。組ませたら、二十九対九の算数がそのまま答えになる」


 ブラムは、太い指で湾口を、とん、と叩いた。


「いいか、若いの。教えてやる。海図の上でな、湾ってのは船の寝床と書いてある。だが海の男の読み方は違う。——湾ってのはな、罠の別名だ」


 指が、湾口から内へ、ゆっくり滑る。


「入り口は一つ。潮は日に二度しか替わらん。風は岬で曲がる。浅瀬は動かん。つまり湾ん中じゃ、船の通り道ってのは、実は最初から決まっとるんだ。決まっとる道の上に、何を置いて待つか——それだけの商売よ」


「機雷、ですか」


「それは献立の一品目だ」


 ブラムは、海図の隅の錨地——小さな丸を書き足した場所を、指で示した。


「二品目が火船。三品目が、貴様だ」


「……自分、ですか」


「快速の六杯をやる。武装は軽く、足は速く。役目は膾切りだ——戦列が崩れた後の湾ん中は、乱戦になる。乱戦ってのはな、若いの、艦隊戦じゃねえ。接舷と斬り込みの、百の小競り合いだ。俺は本隊から動けん。だから俺の代わりに、湾ん中を駆け回って、火の点いてない場所に火を点けて回る刃が要る。……陸で壁の守りを覚えてきた奴なら、崩れた艦隊のどこが『破口』かも、見えるはずだ」


 ヴィクトールは、海図を見た。もう一度、長いこと。それから、答えた。


「班を継いだときと、同じ返事をします。——お預かりします」


「よし」


 二人が頷き合ったところへ、扉が叩かれた。マレーヌが顔を出し、その後ろに、市庁舎の腕章を巻いた伝令が立っていた。伝令は直立して、告げた。


「ブラム・ノード提督殿。総司令官閣下が、市庁舎へお呼びです」


 ブラムは、首を傾げた。


「……総司令官?」


 半年、海の上にいた男である。電文は戦況を運ぶが、役職の名前までは運ばない。ブラムの頭の中の帳簿では、この街の軍事はいまだに「自警のでかいの」であり、市庁舎にいるのは市長であり、総司令官などという大層な肩書きは、帝国の帽子の上にしか載っていないのだった。


「誰だそりゃ。うちの街に、いつからそんな偉いのがおる」


 マレーヌが、笑いを噛み殺して言った。


「ヴィルヘルム様のことです、提督。アードラスヴェーア総司令官。……軍隊創設法が通ったんです、半年前に。いまこの街の軍は、ちゃんとした正規軍なんですよ」


「…………旦那が?」


 ブラムは、もう一度海図を見て、それから天井を仰いだ。


「剣術屋の旦那が、総司令官。テオ坊が支隊長。カイの坊主が連隊長。……おいおい。俺が婆さんと鶏を運んどる間に、陸は軍隊ごっこを本物にしちまったのか」


「ごっこで壁は塞がりません」と、ヴィクトールが真顔で言った。


「言うようになったな、若いの」


 ブラムは笑って、上着を取った。


   ◇


 市庁舎までの道を、ブラムは歩いた。馬車を勧められたが、断った。半年ぶりの街は、歩いて見るものである。


 街は、変わっていた。


 港の倉の壁に、徴用の白い印。辻ごとに積まれた土嚢と、消火用の水桶。市場は開いていたが、値札の字が細かくなり、量り売りの升が小さくなっていた。配給の列が二筋——だが列は静かで、列の脇では子供らが、木剣で「壁の英雄ごっこ」をやっていた。一人が破口役の壁になり、一人が双剣を振り回して、それを黒い上着の子が「距離五十!」と叫んで撃つ真似をする。


 ブラムは、足を止めてしばらくそれを見た。


 双剣の子が派手に斬られて転がり、皆で笑って、また最初からやる。子供は正確だ。誰が壁で、誰が栓で、誰が撃ったか——大人が広場で読み上げたことを、遊びの形で、もう千回も反芻している。


 (ティルの、双剣か)


 ブラムは呼び終いの作法を知らない。海の男は、死んだ仲間の名を帆柱に刻むだけだ。だが陸には陸の刻み方があるらしい、ということは分かった。転がった双剣役の子が起き上がって、いっとう得意げな顔をしているのを見れば。


 広場の掲示板には、刷り物が貼られていた。スロテンの顛末を報じたあの紙——市中では、剥がれるたびに誰かが新しい一枚を貼り直すので、もう紙の角が幾重にも重なって、板のようになっているという。その横に、破口の戦いの戦没者の名を並べた新しい一枚。読み上げていく老人の周りに、字の読めない者たちが集まって、黙って聞いていた。紙が読まれる街は、まだ負けていない街である。


 教会の前を過ぎるとき、喪服の列とすれ違った。ブラムは帽子を取り、列が過ぎるまで、壁際に避けて立っていた。列の最後尾の老婆が、会釈をした。ブラムも、会釈を返した。それだけの街だった。それだけのことが、できている街だった。


 (……なるほどな。旦那)


 と、ブラムは思った。


 (あんたが軍服なんぞ着る気になったわけが、歩いたら分かったわ。この街は、まだ帳尻が合っとるんだ。あれだけ殴られて、まだ市場が開いて、子供が遊んで、喪服が胸を張って歩いとる。……この帳尻を、海で狂わせるわけにはいかんなあ)


 市庁舎の前に着いた。


 見慣れた建物の玄関に、見慣れない衛兵が二人立ち、見慣れない軍旗が朝風に揺れていた。市章の旗——その竿頭に、小さな鷹の飾り。


 (……ほう)


 ブラムは、目を細めた。旗が商会の鷹旗から市の旗に替わっても、竿のてっぺんの鷹だけは、残してある。誰の差配かは知らないが、粋なことをする。船が持ち主を替えても、船首像だけは替えないのと同じだ。船乗りには、それで全部通じた。


 ブラムは石段の下で立ち止まり、旗を見上げ、それから上着の襟を、がら、と直した。


 石段の上で、若い衛兵が緊張の面持ちで誰何しかけ——相手の顔を見て、慌てて敬礼に切り替えた。


「ノ、ノード提督! 総司令官閣下が、お待ちです。……あの、自分、疎開船に妹が乗っておりました。三便目の。その、ありがとうございました」


「おう。妹に、兄貴は敬礼が下手だと書いてやれ」


 衛兵が耳まで赤くなるのを置き去りに、ブラムは玄関をくぐった。廊下の奥、執務室の扉の前まで来たとき、中から声が漏れ聞こえた。低く、静かで、よく通る——半年ぶりでも、一言で分かる声だった。


「さて」


 と、海の男は言った。


「陸の総司令官サマってのが、どんな顔で座っとるか——拝みに行くとするか」


 扉を、叩いた。

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