第26話「海の壁」
海の上には、戦争の匂いがしなかった。
夏の南海。追い風。旗艦の艫からは、護衛してきた疎開船団の帆が、水平線の向こうへ小さくなっていくのが見えた。老人と、子供と、身重の女たち——七百と少し。中立港までの十日の航海を、一人も欠けさせずに送り届けた。
降ろすときが、いつも一番の難所である。海が荒れるからではない。人が、振り返るからだ。
桟橋で、腰の曲がった婆さんが一人、ブラムの袖を掴んだ。孫を二人連れて、家財は行李が一つ。
「船長さんよ。……戦が終わったら、帰れるかねえ」
「帰れる」
と、ブラムは言った。考える前に言った。考えてから言う種類の言葉ではないからだ。
「帰りの船は、俺が出す。この船でだ。婆さん、あんたは前の方の、揺れねえ席に乗せてやる。だから中立港の飯をよく食って、孫を太らせて待っとれ」
婆さんの孫の兄の方が、別れ際、覚えたての敬礼をした。手の向きが逆だった。ブラムは大真面目に敬礼を返し、それから手の向きを直してやった。次に会うときまでに練習しとけ、帰りの船で検分するからな、と言うと、子供は世界で一番大事な宿題を貰った顔で頷いた。
婆さんは笑って、泣いて、行李を担ぎ直して降りていった。約束というものは、言ってしまえば守るしかなくなる。陸の誰かも似たようなことを言っていたな、とブラムは思ったが、誰だったかは思い出せなかった。
最後の疎開船、である。
依頼状には、レオンハルトの几帳面な字でそう書いてあった。最後の、という三文字に、ブラム・ノードは船乗りらしからぬ長考を一度だけして、それから船倉の酒を全部下ろして、そのぶん水と包帯を積んだ。陸の若旦那が「最後」と書くときは、暦に書いていない何かを読んでいるときだ。三十年、あの一家の海を運んできて、それだけは学んでいた。
「提督。次は水の補給港に寄りますかい」
水夫長が訊いた。三十年ブラムと同じ海に浮かんできた、胡桃のような爺さんである。
「寄らん。まっすぐ帰る」
「へ。……何か、ありますんで」
「分からん」と、ブラムは正直に言った。「分からんが、若旦那が『最後』と書いた。なら海が閉まるんだ。閉まる前に、閉まる側にいたい」
提督、という呼び名は正式なものではない。商会海洋部門の頭に、帝国式の階級などない。だが四十隻の船乗りたちは皆そう呼ぶし、呼ばれた男の肩幅は、まあ、だいたい提督だった。潮に灼けて樽のような胸をした、五十がらみの男である。笑うと歯が白く、怒鳴ると帆がふるえる、と水夫たちは言う。
その帰路の三日目、夕刻。
通信室から、若い術士が転げ出てきた。
「て、提督! 電文! 二通、続けてです!」
マレーヌ・コルヴァン。大学校の精霊術学院から「借りて」きた実戦通信士である。歳は若いが、精霊電文機という気難しい代物を、大陸で一番なだめるのが上手い。その娘の顔から、血の気が引いていた。
一通目。
——西壁破ラル。破口ノ戦イ。防ギ切レリ。都市破レズ。
二通目。
——帝国艦隊、出港ノ確報。戦列艦二十九。南下中。会敵推定、四十日ノ内。
電文は、甲板を駆けた。紙より速く、囁きの形で。錨綱の点検をしていた手が止まり、帆桁の上の見張りが下を見た。壁が破られた。壁が。二十年間破られたことのなかった、あの白壁が——そして、艦隊が来る。
「……戦列艦、二十九」
誰かが、数えた。数えて、青くなった。こちらの船団は四十隻。だが、戦列艦と呼べる本物の軍艦は、九隻である。残りは武装商船——大砲を積んだ商人だ。戦闘艦の数だけを比べれば、向こうが二十隻多い。
甲板が、ざわつき始めた。ざわつきは船の病だ。放っておけば、帆から帆へ移る。
「壁が破られたって、なら市内は」「うちは女房と娘が救護院の裏に」「二十九隻だと? うちの九隻で、どうやって」
声はどれも若かった。若い声は、悪気なく一番よく通るのである。
ブラムは、後甲板の手すりに歩み寄り、太い両腕でそれを掴んで、一声、出した。
「静かにせえ」
帆が、ふるえた。ざわめきが、落ちた。
「壁が破られた、と来た。慌てる前に、次の行を読め。防ぎ切れり、とある。都市破れず、だ。……誰が塞いだと思う。テオ坊だ。テオ坊と、カイの坊主と、陸の若いのが、身体で壁の穴を塞ぎおったんだ。俺が荷役場で肩車してやった坊主どもが、だぞ」
ブラムは、そこで白い歯を見せた。
「で、貴様らはどうだ。若いのに一番いいところを持っていかれて、青い顔で指くわえて眺めとる気か。冗談じゃねえ。陸に壁があるなら、海には海の壁がある——それを見せるのは俺たちの仕事だろうが。若いのに負けんように、年寄りが先に、かっこいいところを見せようや」
誰かが、笑った。笑いは、ざわめきより速く帆から帆へ移った。船というものは、そういうふうにできている。
その夜の当直で、若い水夫が古株にこっそり訊いた。テオ坊って、誰です。古株は煙管を咥えたまま答えた。支隊長様よ。ファルケンハインの若様だ。——支隊長様を「坊」で呼べる男は、この大陸に、もうあの人くらいしか残っとらんのさ。
「水夫長、帆を足せ。マレーヌ嬢、本店へ返電。——全船、四十日ノ内ニ帰投。宴ノ支度ニカカル」
それから、さっき女房と娘の名を口にした若い水夫の前で足を止め、太い指でその胸を、とん、と突いた。
「救護院の裏なら、壁から一番遠い。心配なら仕事をしろ。この船が湾に帰り着くのが一日早けりゃ、宴の支度が一日厚くなる。女房子供の盾が、一枚増えるってことだ」
通信室へ戻りかけたマレーヌが、振り返って訊いた。
「提督。……本当に『宴』って打つんですか。本店への公電に」
「打て。読むのはヴィルヘルムの旦那だ。それに、マルクの爺さんもいる」
ブラムは、事もなげに言った。
「あの二人が『宴』の一字を読み違えると思うか。問題ない。……むしろ旦那のことだ、こっちが着く頃には、宴の献立が先にできとるぞ」
夕刻の信号旗が、旗艦の檣頭に上がった。全船、針路故郷、帆いっぱい。四十隻の帆が、順々にそれに応えて膨らんでいく様子は、壮観というより、家路を急ぐ雁の群れに似ていた。
◇
その夜、ブラムは船長室で、一人で海図を広げていた。
昼間の啖呵は、半分は本物で、半分は仕事である。提督の声が震えれば四十隻が震える。だから震えない。それだけのことだ。だが一人の夜、海図の前でだけは、ブラムは正直な男に戻ることにしていた。
戦列艦二十九対九。
正面から並べて撃ち合えば、二刻で沈められる。あちらの錬度がどれほど落ちていようと、戦列艦というものは、海に浮かんだ城壁だ。壁の砲門の数だけは、疲れていても減らない。
(だがな)
と、ブラムは海図のアードラス湾を、太い指でなぞる。
(城壁の攻め方なら、俺たちはこの半年で、大陸で一番詳しくなったんだ。なあ、そうだろう)
壁は、正面から殴らない。壁は——通らせたい場所へ、通らせて、殴る。
湾口の水深。三つの浅瀬。岬の裏の潮の巻き。月のない夜の干満。ブラムの海図には、帝国の海図に載っていない書き込みが、三十年分、蟻の行列のように這っている。十五で炊事番から乗り込んで、先代の旦那の時分から、この湾で荷を運び、嵐から隠れ、税関から逃げ、海賊を沈めてきた。湾の癖なら、女房の寝言より聞き込んでいる。
たとえば、東の岬の裏。海図の上では素直な追い風が、あの岬を回った途端、崖に叩かれて向かい風に化ける。若い頃、それを知らずに帆を張ったままの税関の快速艇を、二度、置き去りにした。あの風の裏切りを知らない船が二十九隻、一列に並んで入ってくるところを、ブラムは想像した。想像して、少しだけ、笑った。
そして小舟だ。
ブラムの戦は、昔から小舟の戦である。大船の懐へ、夜と煙に紛れて小舟で潜り込み、火を置き、鎖を絡げ、逃げる。海賊上がりの流儀と言う者もいるが、失敬な話だ。海賊はあれを略奪に使う。俺は商売の護衛に使う。使い道が上等なだけで、腕は同じである。
それに、負けられない側は、どちらか。
帝国は、負ければ艦隊を失う。痛いが、帝国は残る。こちらは、負ければ海が閉じる。海が閉じれば、口減らしをしてなお十九万食の胃袋を抱えた都市は、秋を待たずに飢える。壁は人の手で塞げるが、海は塞がれたら、人の手では開かないのだ。
(つまり、こっちは負けられん。負けられん側が、正面の殴り合いなんぞを選ぶ阿呆はいない)
だから、湾である。
(機雷はマレーヌ嬢の潮読みで流し込む。火船は……古い樽船が十二杯。青い火の油は工房が炊いとる。それと——)
海図の隅、湾内の錨地に、ブラムは小さな丸を一つ、書き足した。
(——遊撃の刃が、一枚要る。膾切りの局面で、戦隊を一つ、俺の代わりに振り回せる若いのが。……ちょうど、陸に貸しとった奴が、そろそろ壁の仕事を終えとる頃だな)
ブラムは角灯を消して、甲板に出た。
月のない海に、四十の舷灯が、長い列を作って続いていた。灯りの列は水平線の暗がりまで延びて、まるで海の上に、もう一つの街の通りができたようだった。海の街が、家に帰るのである。帰って、家の門の前で、招かれざる客を待つのだ。
砂時計は、ひっくり返った。四十日。宴の日まで、あと四十日である。




