第25話「破口」
夜明けとともに、帝国の砲列が口を開けた。
距離、二百。もはや砲撃というより、殴り合いの間合いである。壁の上の銃兵から見れば、砲手の顔が見える。砲手から見れば、銃兵の帽子が見える。互いに見える距離で、鉄と鉛を交換する——J=リシュアンの言った「撃たれながら撃つ」戦争が、始まった。
初日、帝国は砲手を四十人失い、壁の一点に三百発を叩き込んだ。
二日目、砲手はさらに五十人減り、壁の継ぎ目が、二十年ぶりに骨の音を立てた。
三日目の朝、テオドールは壁の内側の亀裂に指を入れた。指が、第二関節まで入った。昨日は爪の先までだった。
「ヴェルネの帳面のおかげで、急所は全部塞いだ」と、工兵班の下士官が言った。「塞いだ上で、これです。急所じゃない場所を、物量で急所にしてやがる」
壁は、均等には壊れない。どこか一番弱いところから壊れる。だが「一番弱いところ」を全部消してしまえば、次に壊れるのは「大砲が一番多く当たったところ」である。学問ではなく、算数だった。
二日目の夜、テオドールは支隊を率いて、北の間門から打って出た。
夜襲である。二百まで押し出された砲列は、壁から近い分、こちらの馬からも近い。闇の中を大回りに迂回し、砲列の右端へ斜めから撃ち込んで、駆け抜けざまに火門へ釘を打ち、応援が組み上がる前に馬首を返す——胸甲竜騎兵の教科書通りの仕事だった。損害、二名。戦果、砲六門の一時沈黙と、砲手三十余。
そして三日目の朝、六門のうち四門が、新しい砲手を乗せて、また火を噴いた。
算数は、こちらの銃と馬が砲手を何十人削ろうと、翌朝には新しい砲手を装填してくる帝国の側に、いつも味方するのだった。
そして、地面の下でも、同じ算数が進んでいた。
「中央だ」
サーシャは、水盤の前で断言した。三つの水盤が、いまや三つとも波紋を立てている。だがサーシャの目は、真ん中の一つに据えられていた。
「右と左は、音が浅い。わざと石を噛ませて、賑やかに掘ってる。囮の音だ。中央だけ、音が深くて——静かになっていく。本気の坑道は、壁に近づくほど静かに掘るんだよ。テオ、あれはあと三日で壁の下に届く」
「潰せるか」
「もう掘ってる」
サーシャは、足元を指した。支隊の工兵班と市の鉱夫たちが、五日前から、こちら側の竪坑を降りているのだという。敵の坑道の予測線の、さらに下へ潜り込む対坑道——
「向こうの床の下に、火薬を置く。着火して、床ごと落とす。……言ったろ、テオ。壊すなら、安く。向こうが三週間かけた穴を、こっちは樽三つで消す」
◇
その夜、サーシャ・グレンツは地の底にいた。
深さ十二メートル。灯りは覆いを掛けた角灯が一つ。声は禁止。合図は手と、板を叩く回数だけ。頭上——正確には斜め上の土の向こうから、こつ、こつ、と敵のつるはしの音が伝わってくる。もう水盤は要らない。骨で聞こえる距離だった。
(いい腕だ)
と、サーシャは思う。敵の坑夫は、丁寧に掘っている。支保工の間隔も、音の消し方も、教科書通りに正確だ。どこかの誰かに、ちゃんと教わったのだろう。家に帰れば、井戸や水路を掘って暮らしてきた手なのだろう。
(——考えるな)
サーシャは、火薬樽の最後の一つを据え、導火索を検めた。工兵の仕事は、橋と同じだ。架ける技術と壊す技術は表裏一体で、だからこそ、壊すときに考えてはいけないことがある。この床の上で働いている手が、どんな手か。それを考えるのは、生き残った後でいい。
板を、三度叩いた。
撤収の合図。坑内の人影が、音もなく竪坑へ吸い込まれていく。サーシャは最後に残り、導火索に火を移した。小さな火が、暗闇の中を、しゅるしゅると這っていった。橋を落とすときと同じ速さで。
地上に出て、五十を数えた。
大地が——呑み込むように、鳴った。
爆音ではなかった。地面そのものが一度沈んで、深いところで何かを噛み潰したような、内向きの音。敵陣の方角で、囮の坑道の入り口から土煙が逆流し、夜空へ細く立ち上った。中央の坑道は、坑夫ごと、三週間の仕事ごと、地の中に消えた。
サーシャは、土の上に座り込んだまま、しばらく動かなかった。
「……悪いね」
と、誰にともなく言った。それから立ち上がり、いつもの顔で報告に走った。
◇
坑道は死んだ。だが砲は、死ななかった。
翌日の正午、五日分の砲撃が積み上げた算数が、ついに答えを出した。西城壁、第三稜堡と第四稜堡の中間——大砲が一番多く当たった場所が、腹の底から裂けたのである。
崩落は、ゆっくりだった。壁というものは、崩れるときすら威厳を保とうとするものらしい。白い壁面が波打ち、膨らみ、それから幅二十歩ほどの区画が、石粉の滝を立てて、外堀へ雪崩れ落ちた。
二十年間「破られたことのない」壁に、破口が開いた。
石粉がまだ雲になっているうちに、帝国軍の喇叭が鳴った。待機していた突撃梯団——選抜擲弾兵二千が、堀を渡り、瓦礫の斜面へ殺到する。
だが、破口の内側には、もう黒い壁ができていた。
カイ・ベリクの黒甲騎兵中隊、百二十。馬はいない。黒塗りの胸甲に身を固め、下馬して、瓦礫の頂点を扇形に囲む三列の壁。敵が壁に乗った時、最初に当たる——一年前に定められたその役目のために、彼らは今日まで馬を磨くように胸甲を磨いてきたのである。
「距離五十」と、カイが言った。「四十。……三十」
黒騎兵の第一列が、騎兵銃を斉射した。瓦礫を登る先頭が薙ぎ倒され、第二列が撃ち、第三列が撃つ間に第一列が装填する。三段の輪転が、破口という漏斗の入り口で、鉛の栓になった。
それでも擲弾兵は来た。数の栓は、数で抜くのが帝国の教義である。斉射の間隙をこじ開けて、最初の白兵が瓦礫の上で始まった。
そこからは、グレム・ドラハンの職場だった。
装甲擲弾兵中隊長は、大剣を担いで瓦礫の頂点に立ち、登ってくる敵の波を、文字通り斬り崩した。Ⅱ式ドラケン——壁を斬る剣は、壁が破られた日にこそ、自分が壁になる剣である。破門撃の一振りごとに、狭い斜面で人の壁が仕切り直される。
そしてその左右の、大剣の届かない狭所を、双剣が舞っていた。
ティル・ローンハルトは、笑っていた。
「な、言った通りだろ! 右と左が両方仕事する——」
双剣の右が敵の銃剣を流し、左が胸甲の継ぎ目を抜く。狭くて、敵が一列でしか来られない、双剣使いの唯一の職場。ティルはその職場で、支隊の誰より多く働いた。午後の三時間で、彼の双剣が止めた敵の数を、後で数えられた者はいない。
三度目の波と四度目の波の間に、外の野で喇叭が鳴った。
テオドールの支隊である。破口に敵の目が集まりきった頃合いを測って、南の間門から野へ出た二百四十騎が、突撃梯団の後続——堀端で渡河の順番を待つ第五波の集結地を、横合いから薙いだのだ。ヒットアンドアウェイ。止まらず、深追いせず、集結の秩序だけを砕いて離脱する。後続を断たれた四度目の波は、瓦礫の斜面の上で孤立し、黒騎兵の輪転と大剣と双剣に、すり潰された。
破口は、抜けない。誰の目にも、それが見え始めた夕刻だった。
夕刻、四度目の突撃の波が引く間際——
流れ弾だった。誰の狙いでもない、疲れ切った誰かの、逸れた一発。それがティルの喉を、横から通った。
軽口の剣士は、最後の軽口を言いかけた形のまま、瓦礫の上に膝をつき、双剣を握ったまま、前のめりに倒れた。右手の剣も、左手の剣も、最後まで手放さなかった。両方が仕事をした一日の、終わりだった。
◇
救護所に被弾したのは、その少し前である。
破口へ火力を集める帝国砲列の、修正しそこねた一門が、市街へ二発を送り込んだ。一発は空き家の屋根を抜いた。もう一発が、救護院の東翼——処置室の窓の高さで、炸裂した。
ミラ・ロウは、寝台の患者に覆いかぶさっていた。
破片の飛ぶ一瞬前に、考えてそうしたのではない。軍医の身体が、勝手にそう動いたのである。彼女の下にいた砲兵の少年は、鼓膜と、右腕の古傷のほかは、無事だった。ミラの担当していた患者は、その日、一人も死ななかった。
死なせない、が口癖の軍医は、誰も死なせずに、死んだ。
報せを受けたテオドールが救護院に駆けつけたとき、東翼はまだ石灰の粉で白かった。
その白い粉の中に、アルモナが立っていた。前掛けは血で汚れ、髪は粉で灰色になり、手には折れた副木を握ったままだった。テオドールを見て、何か言おうとして、言葉のかわりに、処置室の奥を目で示した。
布を掛けられた寝台が一つ。その周りの寝台では、包帯の患者たちが生きて息をしていた。全員が、生きて。
「……あの子の患者は」と、アルモナは言った。声は、看護の間ずっとそうしてきたのだろう、抑えて、平らだった。「今日、一人も死ななかったの。一人も」
その平らな声が、どんな慟哭より重いことを、テオドールは知っていた。掛ける言葉を探して、見つからず、ただ隣に立った。二人はしばらく、白い粉の中に並んで立っていた。それが、できる全部だった。
◇
同じ夕刻。帝国軍本陣。
ジャン=リシュアンは、損害報告の第一報を聞き終えた。突撃梯団の損耗、四割。砲手の損耗、累計で三割五分。破口は開いたが、抜けない。抜けない破口は、破口ではなく、ただの挽き臼である。
「第五波の準備が整っております」と、参謀が言った。「夜間ならば、あるいは」
「夜間なら、挽き臼が見えなくなるだけだ」
J=リシュアンは、卓上の羊皮紙を引き寄せた。勅命の転送状。その末尾の、毛色の違う一文に、指を置いた。
——攻撃ノ中止ハ、現地司令官ノ裁量ニ委ヌ。
「全軍に伝達。攻撃中止。負傷者の収容を最優先とする。……これは撤退ではない。転送状第七項に基づく、現地司令官の作戦判断である」
書き取る参謀の後ろで、ダルナンだけが、元帥の顔を見ていた。勅命に敗け続けてきた男が、初めて勅命の紙で身を守り、部下を守った瞬間だった。老人が四十年分の貸しで挟んだ一文は、その日、二千人の命を挽き臼から引き出したのである。
「ダルナン。帝都への報告の末尾に、一行加えろ」
「は」
「『城壁ハ破レルモ、都市ハ破レズ』。……そのままの意味だ。飾るな」
◇
夜、破口の内側に、応急の柵と土嚢が積み上がっていった。市民が列を作って土嚢を手渡しで運び、その列の中には昼の砲撃で家を失った者も、救護院から抜け出してきた包帯姿もいた。壁は石でできている、と人は言う。この夜に限っては、嘘だった。
支隊の点呼は、月が高くなってから行われた。
ライネルが名簿を読む。応える声が続く。そして、最後に二つの名が、一度ずつ、読まれた。
「——ティル・ローンハルト」
誰も、応えない。
「——ミラ・ロウ」
誰も、応えない。
呼び終いの静けさの中で、テオドールは兵たちの顔を見た。竈の火に照らされた顔、顔、顔。数えるのはやめた。竈一つに五十人。その換算式が、今夜は、ただ痛かった。
帳簿には、その夜、二つの名前が増えた。数字のない借方が、また二行。
壁の破口は、塞ぎ得る。石と土嚢と、人の手で。帳簿の破口を塞ぐものを、テオドールはまだ、持っていなかった。
海の方角で、夏の稲光が、音もなく水平線を照らした。
艦隊の季節が、近づいていた。




